第十一章 十一
卓上に肘をついて顔の前で指を交差させ、考え事をする様にしばらく間を置いた。それから孫怜、馬少風へと顔を向け、視線を配る。
「夏天佑の腕は、殷汪の域に達していたと思うか?」
「……私は呂州に居た頃しか知りませんので。少風、どう思う?」
孫怜はそれだけ言って、馬少風を見遣る。
「どっちだろうと、あんたは天佑の敵ではなかった」
馬少風の言葉に遠慮は無い。劉毅を見る事はせず、正面を向いたままそう言った。
劉毅は意外にも穏やかな表情で大きく頷く。
「……その通り。では、質問を変えよう。殷汪が教えた武芸、それをそのまま会得する事は可能だと思うか? 孫。例えばお前が教わった『蛇使い』の剣、それはいつか殷汪のそれを越えるか?」
「まさか」
孫怜は首を振り、フッと息を洩らす。
「全てを教わった訳ではありませんので。殷さんは……『こんな剣がある』と言い、一部を私に聞かせ、見せてくれただけ。仕事の合間に……」
「ほう。それだけで、そこまでになるか」
劉毅は訊ねた訳ではなく、感心したかの如く独り言の様に呟いた。
「ただ、天佑は――」
劉毅は孫怜の言葉にすぐさま反応して顔をこちらに向けてくる。
「思い返せば、我ら他の三人よりは少しばかり特別であったのかも知れません。殷さんにとって。資質があると見込んだのでしょうか」
また劉毅は頷く。
「あの夏天佑が見せた剣はかなり変わったものだったが、他にあれと類似するものの存在を俺は見た事も聞いた事も無い。俺達、七星とか呼ばれている連中は皆、殷汪と剣を交えた事がある。一度だけだがな。その時の殷汪は夏天佑の見せたものとは全く別の動き……異なる剣だった。あっちは『蛇使い』の方だったのかも知れんな」
孫怜らは当然、その場面を見ていないので何とも言いようが無い。沈黙に構わず劉毅は続ける。
「もう一人の『蛇殺し』、慕容という女はどうだったのだ? 殷汪は夏天佑と同様に教えていたか? その者の腕は当時、夏天佑と比べてどうだった?」
「劉毅どの」
孫怜は劉毅に向かい姿勢を正し、
「我らは当時、言うなれば呂州のごろつき。殷さんとは師弟関係でもなく、ただ捕まって半ば無理やり働かされていたのです。武芸について聞く事が出来たのは……殷さんの気まぐれでしょう。私が聞いたものは一部だけ。天佑も嬋も、やはり一部だけなのです。あなたが殷さんの武芸を全て知りたいと仰るのなら、それは殷さんに聞くしかないのです」
「……」
劉毅はそれを聞いて何やら考え込んでいる。体はぴくりとも動かない。
「劉毅どの?」
「『蛇殺し』を相手にするには……やはり『蛇使い』でなければならないと思うか?」
「……どういう意味でしょうか? あなたは本当は嬋に……会ったのですか?」
孫怜は思わず息を呑む。いつの間にか劉毅は鋭い視線で宙を見つめていた。
(天佑はもう居ない。今度は嬋を見つけ出して再びその剣を試すつもりか?)
「『蛇殺し』だの『蛇使い』だのと――」
不意に馬少風が口を開いた。苛立った様な、強い口調だった。
「簡単に言うが、何も分かってない。天佑の言葉を聞いていなかったのか。忘れたか? 穆ご先輩の天棲蛇剣が失われた今、殷さんに敵は無い。あんたの言う『蛇使い』、本当の『蛇使い』の剣とは穆ご先輩が使う天棲蛇剣の事だ。殷さんのでもなく、ましてやこの怜のでもなく、ただ穆ご先輩のみが使われた真の天棲蛇剣の事だ。そして『蛇殺し』とはその真の天棲蛇剣を破るべく殷さんが編み出した技をいう。天佑や嬋の剣などとは比べるべくも無い、殷さんのみが使える双刀の法。天佑にすら敵わなかったあんただ。あのお二人の武芸の真髄になど遠く及ばない。フン、『蛇殺し』? 何をどう調べたのか知らんが殷さんが穆ご先輩を殺すつもりだったとでも? 穆ご先輩というお方は、殷さんが唯一尊敬する師であられた方だ! その関係は、そんな、そんな……」
「少風!」
話している内に感情を昂らせていく馬少風のその言葉を孫怜が遮るが、何も言えなかった。さすがに劉毅を怒らせたのではと、姿勢はそのままであったが体中の神経を研ぎ澄ませて劉毅の気配を窺った。
「……その辺は知っているが、結局何が言いたいんだ?」
劉毅の声は変わっておらず、感情を抑えている様でもなく淡々と言う。ただ、その眼差しには力が籠もっていた。
「劉毅どの」
孫怜が劉毅の視界から馬少風を隠す様に身を乗り出す。
「我らは互いに長く会ってはおらず、どの様に生活をしていたのかも分かりません。天佑がどれほど腕を上げたのかも、それに嬋に至っては生死すらも分からぬ程です。やはり先ほど申し上げた通り、殷さんの武芸については殷さん自身に、お聞き下さい。我らが持っているのは、ごく僅かなのです」
劉毅は口許に微かな笑みを浮かべ、
「そうか。……ではそうするか」
そう言うとスッと立ち上がる。すぐに孫怜も席を立ち、劉毅に対して抱拳する。
「我らはすぐにでも此処を離れます。お助け頂いたご恩は――」
「対の宝刀を持った女を知っている」
劉毅は席から離れかけてすぐに立ち止まり、孫怜に向かって言った。
「……は?」
「異国の宝刀を二本、使う女が居る」
孫怜は目を見開いて呆然と劉毅を見つめる。馬少風も立ち上がり、孫怜の横に並ぶ。
「名を聞いた事は無いが――」
劉毅は馬少風に視線を移し、
「どれほどの刀法なのか、はっきりとは分からん。遣り合った事は無い。夏天佑を相手した時の二の舞になる――そんな気がしてな」
「……どうするつもりだ? 嬋を」
馬少風が言うと、
「やはりお前達のかつての仲間、慕容嬋と思うか? 何故そう思った? 双刀使いは珍しくも無いが」
「では何故俺達に言う?」
劉毅は馬少風にニヤリと笑いかける。
「その女は恐ろしい奴でな。会う度に肝が冷える。あれがもし夏天佑と同じ技を使うとしたら、怒らせない様に用心しないと俺の命が危うい。で、どう思うね?」
「異国の、対の宝刀といえば……殷さんが百槍寨で……」
孫怜はそう言って顔を上げ、目を細めた。