第十一章 十
「……ああ、分かっているとも。あの時は意識がはっきりしていたかどうかも怪しかったが、夏天佑が言いたかったのは、殷汪こそ最強、それに尽きる。だが、それはまぁ初めて聞く言葉でもなかったもんでな。あいつが遺した穆という名に興味を引かれたのだ。それで色々調べていくとお前達にも繋がっていた。夏天佑に孫怜、馬少風、それから……慕容嬋か。四人とも何かしら殷汪に仕込まれているそうだな。……何と呼ぶべきかな? 若き殷汪の……フッ、四天王か?」
四天王――自分の言ったその言葉がおかしかったのか、劉毅はくっくっと喉を鳴らして笑った。
(嬋の事まで知っているのか。だが、知ってどうする? 殷さんが見つからないから俺達からその武芸を聞きだそうとでも?)
この劉毅のお陰で謝長老は去り幾分安堵したものだが、劉毅には別の目的があってわざわざ我らを生かす選択をしたのではないか? 北辰教徒を殺めたのにこれを方崖には報告するなとは、この劉毅自身が自分達に用があるからで、連れて行かれては困るからでは? と、孫怜は徐々に不安を募らせる。そしてそれはほぼ当たりに違いない。そう考えると一難去ってまた一難。謝長老の用向きの方が単純明快、こちらのやる事も一つだけで、不安という類のものはこれほどは無かっただろう。それにしても劉毅は意外にもよく喋る。
「俺が興味があるのは殷汪の持つ全ての武芸だ。ならばお前達の事も是非知っておかねばと思ってな。折角会ったんだ。話を聞いておきたいと思ったまでだ。これからお前達について行きたいくらいだが、北辰での役目もあるんでな。今から北へ行かねばならん。残念だ」
「我らは秘伝書と人質を持ち去った者を追っているだけです。ご一緒しても特に何も――」
「そうかな? お前達の行き着く先には、必ず殷汪も現れる。違うか?」
劉毅の問いに、孫怜は黙り込む。きっとそうであろうと孫怜は考えていた。真の天棲蛇剣を最も求めているのは殷汪の筈だ。厳密には真の天棲蛇剣を使う人物――。そんな人物は今は亡き穆ご先輩だけだと殷汪は語った。人物が居ない今、その秘伝書こそが『真』に最も近い存在なのかも知れないのである。
劉毅は黙っている孫怜の前に置かれている酒杯を掴み、一度中を覗き込んでからまた酒を注ぐ。
「しかし、殷汪とその周辺はやたらと複雑な様だな。いろいろと調べたが、どうもはっきりとしない。お前達は殷汪の生い立ちなど聞いた事があるか?」
劉毅は孫怜と馬少風に言っている。先ほどから樊樂ら稟施会の面々は一言も喋っていない。それもその筈、殆どの話が理解出来ていなかった。馬少風は相変わらず口が重く、孫怜が劉毅に応じる事になる。
「いや、あまり詳しくは……」
(我らの知る事全てを此処で聞き出そうとでもいうのか?)
「穆という人物についてはどうだ? お前達四人の中で殷汪が『蛇使い』に選んだのはお前だけだそうだな。何も聞かなかった訳があるまい? 『蛇殺し』の側の夏天佑も知っていたのだからな」
「穆ご先輩がよく用いた技の変化など、そういった事は時折聞きましたが、どのような人であったかは余り……」
「ふむ……そうか。それはそうと、もう一人の『蛇殺し』はどうした? 呂州か?」
劉毅は孫怜の瞳を覗き込んでくる。その様子に孫怜は僅かに眉根を寄せた。
「……長く会っていないので居場所は知りませぬ」
(そこまで知っていて、探さなかったとでも言うつもりか? 何処に居るのかはこちらが知りたい。本当にこの男が見つけられなかったのだとしたら……一体、何処で何をしているんだ? 嬋――)
「そうか。夏天佑は死んでしまったし、『蛇殺し』はあと一人だけ。是非そっちからも話を聞いてみたいものだ」
劉毅の口許に笑みが浮かび、そしてすぐに消えた。
「一人じゃない」
馬少風の声だった。
「んん?」
「あんたの言う『蛇使い』は穆ご先輩のものだ。しかし『蛇殺し』は殷さんの編み出した武芸。殷さんは生きている。なら殷さんを見つけて聞けば良い」
「……フッ、それはそうだ」
劉毅は唇を突き出して肩を竦める。
「勿論これからも探す。北辰の用が済んだらな。……もっといろいろ聞きたい事はあるが、お前達とはまた会うだろう。今度は別の地でな。……そこに殷汪も居ると尚良いな。では、もう一つだけ聞いて最後にしよう。……稟施会が退屈そうだ」
劉毅が樊樂らを見遣ると、樊樂は視線を逸らして後頭部を撫でながら、
「いや……別に……」
と小声で言ったが、暫く黙っていたので声がかすれた。劉毅は樊樂に言う。
「ああ、そうだ。一応こちらからも聞かせてやろう。北辰は、秘伝書探しはやらん」
「……え?」
「お前達の邪魔はせんという事だ」
「それは……また、意外というか……」
樊樂の言葉はぎこちなく、劉毅に対してどんな口の利き方をすれば良いのか迷っている様だ。敵の様でもあるし、しかし今の劉毅の話の内容や話し方の雰囲気を考えるとそうでも無さそうでもある。ただ、折角の機嫌を損なう事だけは避けなければならない。
(怜も随分丁寧に話してるしな……。馬公は……特別か)
樊樂がそんな事を考えている内に孫怜が話し始める。樊樂は内心、安堵する。
「北辰教は興味を持っていないと? 真武剣派が手に入れようが――」
劉毅は肩を竦める仕草を見せ、
「フン。そんな事は我慢ならん。俺はな。お前達が是非手に入れてくれ」
「……我らはもし手に入れたなら持ち主に返すだけで、お見せ出来るかどうかは……」
「ハハ。まぁそう深く考えるな。まだ所在も分からんのだぞ」
「で、あなたはそう思っておられるのに、北辰教としては動かないと仰るのですか?」
「ああ。動かん。張新――、張新は知っているか?」
「……噂程度は」
「北辰教は今、張新が動かしている。そしてその張新は秘伝書に興味がない。そもそも武芸の類にも全く興味を示さない。フッ……まぁ必要ないしな。大勢身辺警護を従えているからな」
「しかし、その……北辰教は真武剣派に対抗して……」
「そうだな。互いに相手の邪魔をするというのが伝統という訳だ。だが、これからはそれも無くなっていくだろう。暫くはな」
「何故です? 張新どのにそういう気が無いからでしょうか?」
「ああ。ま、その辺はあまり俺が洩らすのも宜しくない。とにかくだ。北辰教は秘伝書を追う事はない。だが、これ以上不用意に、こちらに近付くのは止めておけ」
劉毅が言った後に樊樂に顔を向けたので、樊樂は何も言わずにとりあえず頷いておく。
「あー、話を戻したいが、何だったかな?」
「最後に一つ訊く、と」
「おお、そうだ」
劉毅は頷きながら勢い良く自分の膝を叩く。樊樂がよくやる仕草に似ていた。