第十一章 八
劉毅にこちらに攻撃を仕掛けてくる様な気配は無い。謝長老を見る時などは背中をこちらに見せたりもするが、それが隙なのかどうか、孫怜にも判断がつかなかった。
「謝どの。この者達が殺したと言う奴らは襄統派の若い尼僧二人に絡んでいた様だ」
劉毅はその場面を思い返しているのか、顔を上に向けてあちこちを眺めている。孫怜は劉毅の言葉を聞いて考える。
(本当にあそこに居たというのか。だが……偶然は無いな。俺達を尾けて来た? まさか。この劉毅が俺達の何に目を着ける? 秘伝書を探しているから? それなら真武剣派……そうか、真武剣派も居たではないか。真武剣の郭。あれだ。そっちを尾けていたんだな)
「まともに喧嘩も出来そうにない若い女弟子だぞ? 襄統の連中が駆けつけるかと思ったんだが、誰も来なかった。だが変わりに真武剣派が現れた。それは聞いたかな?」
劉毅は謝長老に訊ねた。謝長老は鼻から勢い良く長い息を吐いて、ただ睨み返すだけだった。
「この者達が襄統の弟子を助けなかったとしても、あんたの配下は真武剣派にやられていただろう。郭斐林が居たからな。敵う訳が無い」
(さすがに七星でも真武剣派の高弟の腕は認めるということか? それとも冗談か? 確かにあの湯長老とやらではあの郭どのには到底敵うまいが)
孫怜は七星劉毅の口から郭斐林には敵わないという言葉が出たのを意外に思った。無論、自分が敵わないと言っているのではなく、あくまで謝長老のあの手下達では、という意味なのは理解している。ただ、北辰教の七星は武林でもその武芸は傑出していると噂されており、また北辰教の武林における影響力や常に強気な態度を示すその姿勢によって、七星という特別な七人の印象も人々の中に勝手に作られていく。冷徹無比の殺人者。他を寄せ付けないその自らの武芸によって立ち、それ故に武林の他派の名手と言われる使い手さえ歯牙にもかけない。これは極端ではあるが、江湖の七星に対する印象はそういう傾向にあった。それは今まで一度も七星を見たことの無かった孫怜も同様である。
劉毅は続ける。
「真武剣が襄統の弟子を助けるのは当然だ。大人しく引き下がれば真武剣もそいつらを殺さなかったかも知れないがね。この者達がやらなければ、真武剣。真武剣も居なかったなら――、俺が始末しただろうな。あんたの手下共を」
「何だと!」
敵も味方も無い。この場で劉毅を囲んでいる者達は皆、その言葉に驚いた。一体どういう事なのか理解し難い。だが劉毅は平然として、謝長老を見遣って言う。
「張新どのにはこの件、もう報告したのか?」
謝長老の顔は一層、険しくなる。
「この様な些細な事、言う必要は無いわ」
「フッ、俺はまた、あんたはすぐ報告するのかと思っていた。『襄統、真武剣の二派に喧嘩を売っておきました』とな。張新どのはお褒めの言葉を下さるかな?」
謝長老は劉毅に対して敵意をむき出しにするかの様に怒りの目を向けている。
「貴様……」
「ハハ、冗談だ。だが、あの者達のやった事は冗談では済まんな。真武剣と襄統を刺激するような事になればこれは厄介だ。もうしてしまったがな。こうなったら向こうの出方を見るしかない。末端同士のちょっとした喧嘩って事で水に流して貰いたいものだが、さて――?」
「やられたのはこちらの方じゃ!」
「なら張新どのにお伺いを立ててみるかね? 報復しても良いかとな」
劉毅の謝長老を見る目つきが鋭く変わり、謝長老は口を噤んでまた荒い鼻息を洩らした。
この遣り取りを見ながら孫怜は思いを巡らす。
(今、北辰は真武剣派や襄統派とは事を構えたくないようだな。確かに大事になるからな。……教主の名は出てこないがやはり今の北辰の中心は例の張新という奴なのか。教主を操って私欲を満たすだけの輩かと思っていたが、この劉毅の話からすると意外とまともな人物かも知れんな)
謝長老が何も言えずに顔を顰めるのに対して、劉毅はまた微笑を湛え、
「謝どのはその場を見ておらんのだから、配下の、しかも末端が何をしたか知らぬのも当然だ。ま、そういう訳でこの件はこれ以上表沙汰にはせぬ方が良いと思うが。あとは張新どのの耳に届かぬ事を祈るばかりだ」
そう言った後、不意に孫怜の方へと向き直った。孫怜らは思わず体を強張らせる。
「これ以上こちらに関わらず去るのなら、我ら北辰はお前達に用は無い」
「……我々はただ、あの尼僧二人を助けたかっただけ。しかし北辰教の方々は強引にその二人を捕まえようとしたので剣を抜くまでに至ってしまったのです。あの者達が北辰教だろうが何だろうが、関係無かった」
「そうか」
劉毅がまた謝長老を振り返る。謝長老は暫くこちらを――劉毅なのか孫怜なのかは判らないが――睨みつけていたが、フンと鼻を鳴らしてから纏った黄衫の袖を翻して踵を返し、足早に去って行く。黒装束の男達は孫怜らの方を向いたまま後退りしつつ剣を腰に収めると、一斉にその後を追った。
劉毅は謝長老と黒装束の男達八人が店の外に消えたのを見届けた後、店内に居た客達を見廻した。
「すまなかったな。さ、引き続き大いにやってくれよ」
客達は暫くは動かなかったが、少しずつ自分の居た席へと戻っていく。
「さて」
劉毅は孫怜の方に向き直ると、ようやく組んでいた腕を体の両脇に下ろす。
「剣を収めてもらえるかな? 出来ればそこの酒を奢ってくれると嬉しいんだが」
孫怜らの居た席にある酒壷を指している。孫怜が剣を収め、他の者達もそれに習う。
「そうですな。我々は、劉毅どのに助けて頂いたことになる。安酒でよろしければ……」
劉毅はニヤリと笑うと先に席に着いた。樊樂が孫怜に寄り、耳打ちする。
「おい、いいのか? この男……」
孫怜はそれには答えず、ただ頷く仕草を見せただけで劉毅の隣に腰を下ろした。樊樂その他もそれに続く。
「俺が言うのもなんだが、災難だったな」
劉毅は勝手に置いてあった酒壷を掴み、近くの酒杯に酒を注ぎ始めた。孫怜はその所作を観察しつつ、
「いや、我々もどうかしていました。何も考えずこの東淵に来ればこうなるのは当然の事」
「まあそうだな」
劉毅は酒杯を呷る。
「しかし、何故あなたは我々を助けて下さったのでしょうか? 先ほどの話では、方崖には知られない方が良いと……。ならば此処で我らを始末しても――」
「そいつは俺が困るからだ。俺は、あんたをずっと尾けてきた。都からな」