第十一章 四
「媛は、とても美しいわ……」
王梨が、手に持った耳飾に視線を落として呟いた。
「これ、咸水の硬玉? もしそうならとんでもない耳飾だけれど、これについて何か聞いた事ないかしら? 殷さんから」
急に耳飾に話を戻す王梨。洪破天は記憶を辿る。
「詳しい事は知らん。ただ、安くは無いらしいな。咸水の物かどうかは聞いてはおらん」
「硬玉にこれだけの傷を付けるなんて、どんな扱い方してたのかしらね。殷さんは」
翡翠の硬玉は強靭で、装飾品として加工するにも苦労する程である。だがそれ以前にかなりの稀少価値を持つこの宝石を傷が付く様な状態にしておく事自体、王梨には理解出来なかった。
「殷さん……どうしてこれを媛にあげたのかしらね。昔からこれを持ってたらしいじゃないの。私は知らなかったけれど。殷さん自身がこういう物に興味があったとも思えないし、これは何か……思い出の品?」
「それは――」
洪破天は一瞬言い淀み視線を泳がせたが、王梨がこちらをじっと見ているので、少し間を置いてから告げる。
「咸水で亡くした、妻の遺品じゃ」
「……益々分からないわ。どうして媛に? こんな大事な物が、もういらなくなったとでも?」
「そんな訳があるか!」
急に洪破天は声を荒げた。だがすぐに次の言葉が見つからないのか、苛ついた様子で体を揺らす。王梨は驚いたが黙ったまま洪破天のその様子を見続けた。
「あの時……媛はじゃな……。何もかもを失っておった。いっ、一生懸命守ってきた弟までもじゃ。その媛が儂と共に新しい土地に行くと決めた。その……媛を、励ます為じゃ。殷にとって大事な物だからこそ媛に……媛にやったのじゃろう」
あまり要領を得ない洪破天の言葉であったが、言いたい事は王梨にも大体、察しはつく。しかしどこか違和感もあった。
王梨の記憶にある殷汪は、女性に贈り物をするといった姿を全く想像し難く、また、妻の遺品を大事に持ち続けるという―― 一般的にはごく普通の感情なのだろうが――そんな姿もかつての殷汪の印象とは食い違う。それほど殷汪という人物の言動は、過去も、そして未来をも切り捨ててしまっているかの如く、刹那的なものであった様に思える。『情』というものさえも殆ど表に出す事無く――。
(逆……だった? 凄惨な過去があったからこそ? 過去を切り捨てたいが為の……)
「媛はな」
洪破天が続ける。
「もう他人ではなかった。儂と一緒に暮らす事に決めておった。ならば殷にとっても身内になった訳じゃ。その耳飾は古くて今では見栄えも良くないが、それには媛を思う気持ちが籠もっておる。殷はそれを形で表したかっただけじゃ。媛もその古びた耳飾を実際に着けようとは思うまい。大事に持っておればそれで――」
「洪兄さん、私さっき言ったでしょう? 媛は『着けたい』って言ってるの」
「んん? ……べ、別にそれならそれで良いではないか。その耳飾を着けてはいかん理由など無いわい」
「私もそう思うわ。訊きたかったのは、これに手を加えても良いものなのかどうか……。このまま着ける訳にもいかないし、少し手入れすれば昔の輝きを取り戻すでしょうけど、それでも媛には地味ね。もう少し飾りを増やしてやれば凄く良い物が出来ると思うけど」
王梨はまた耳飾を持ち上げて光に当て、目を凝らす。たとえ傷だらけであっても紛れも無く本物の硬玉であり、目の肥えている王梨はその真価を見抜いている。
「……媛が納得すれば構わんじゃろう?」
「じゃあ、そうする事にしましょう。媛も喜ぶわ。とても大切な、思い入れのある物で我が身を飾る事が出来る――。とても幸せな事よ。あの子ね、耳飾はどうしてもこれをって言って譲らないの。他は素直に従うのにこれだけはね。……殷さんから貰った物だから。」
「……良いではないか」
「殷さんの、かつての最愛の人が遺した品でも?」
まじまじと見つめてくる王梨に、洪破天は憮然として答える。
「そんな事は……媛には、まだ関係無い」
洪破天は、笑っている王梨の視線がこちらから自分の背後に向かって移動したのに気付いて後ろを振り返った。
「お爺様」
梁媛が広間の入り口の前で真っ直ぐに背筋を伸ばして立ち、姿勢を少し気にしているのか腰の前に置いた手の位置を微妙に変えつつ、洪破天に向かって嫣然と微笑んでいた。その立ち姿はまだぎこちなく、それでも初めて身に着けた美しい衣装を見せつけて少し得意気な様子の梁媛に、洪破天も微笑み返さずにはいられない。露になった肩と胸元も、この時はさほど気にはならなかった。
「媛、いらっしゃい」
王梨が呼ぶと、梁媛はゆっくりと長い裙の裾を揺らして歩き出す。すぐ傍まで来るまでのほんの少しの間、洪破天は笑みを浮かべたまま梁媛の挙動を見守っていた。
「私はこれからこの耳飾を直してくれるよう頼んでくるから。もう着替えて良いわ」
「あ、はい」
梁媛は今の衣装を気に入っているのか少し残念そうだ。だが王梨が耳飾を紫の手巾に包み直すのを見ながら目を輝かせている。この翡翠の耳飾を職人に預けて手を入れて貰う事を既に梁媛に言ってあるらしく、梁媛はそれが楽しみで仕方が無いといった様子だ。
「洪兄さん、今日はうちで休んでいって。一緒に夕食を。久しぶりでしょう、此処は」
「ん……まぁそうじゃな」
「媛。昔は皆、此処で暮らしてたのよ。うちの家族も洪さんも、殷さんもね。家だけはまともなのにほんとに貧しかったわね」
「そなたの親に助けて貰ってのう。よう千尽と別れて実家に帰って来いと言わなんだものじゃ」
「言ったけどね。まあ私は幼い頃から家を出て生活していたから」
洪破天と王梨の会話を聞いている間、梁媛は改めて今居る廊下や此処から見える小さな庭に目を遣っていた。昔とはいつ頃だろう、当時も今と変わらない佇まいだったのだろうかと。
(殷汪様も……)
「じゃあ、行ってくるから。すぐ戻るわ。媛、『お爺様』を奥に……案内はいらないわね」
王梨は梁媛に向かって言うと洪破天にちらと視線を送ってから表に向かって歩いていった。
「フン。まぁ『媛のお爺様』なら望むところじゃ。さ、行こうか」
梁媛には何の事か分からなかったが、洪破天が奥へと歩き出したので、急いでその横に付いた。