第十一章 三
「……儂は今まであまり安らかに過ごさせてやれなんだからのう」
「ねえ。どうしてそう思うのかしら? 洪兄さん、ちょっとおかしいわ」
「儂一人なら今まで通り好き勝手しておるじゃろうな。しかし、媛にそんな姿は見せられん」
「もう媛は見てるじゃないの」
「だからいかんのじゃ」
「洪兄さん。何が駄目なの?」
王梨は両手を出して洪破天の両腕を掴んだ。
「一体、どうしてしまったというの? 今まで通りで良いじゃない。好き勝手にすればいいのよ。私達は何も文句なんか言わないわ。だって、それが洪兄さんなんだから。そうでしょう?」
「梨妹、儂は人を育てられる様な人間ではなかった。媛を連れて来た後になって思い出すとはのう……」
「媛は私が面倒を見るわ。紅葵の時と同じ様にね。似た様な状況だったじゃない。うちの人はまだ小さい朱蓮に手を焼きっぱなしで紅葵どころじゃなかった。フフ、じゃあ何故、洪兄さんや殷さんの反対を押し切ってまで紅葵を連れて来たのかって話だけれど」
「そなたは嫌な顔一つせずに紅葵を見ておったのう」
「意外と何でもなかったのよ。だってそうでしょう? うちの人は背にはまだ赤ん坊の娘、それに拾った孤児の手を引いてこの街にやって来た。洪兄さんと殷さんも一緒に。皆で家族同然に暮らてたわね。そこに私も加わった――。もう血の繋がりがどうとか、どうでも良かったんじゃないかしら。私は私の思い通りに紅葵を仕込む事が出来た訳だし。変な言い方だけれど、私にはそれしかなかったし、それに喜びを感じられた。ね? だから媛も同じ事。あの娘も私のする事に興味を持ってくれてるわ。洪兄さん、私に任せて。私はそうしたいし洪兄さんもその方が都合が良い。何か問題があるかしら?」
「いや……今の儂にはそうするしか無いという事は分かっておる」
洪破天は溜息をついて項垂れる。
(何とも情けない事じゃ)
突然、梁媛を東淵に連れて来て共に暮らすと傅千尽やこの王梨に告げたものの、生活の殆どを傅家に頼る洪破天には結局梁媛も傅家に任せるより他は無い。傅家の誰もが任せろと言ってくれてはいるものの、洪破天は申し訳ないと思う気持ちで一杯だった。
一方、傅千尽や王梨にしてみれば、この事に関して洪破天がこうまで気に病むのが意外であった。時に憔悴した顔まで見せる様になってはその方が心配になる。『媛は任せた』と言い放って自分は紅門飯店で酒びたり――たとえそうであったとしても、いや、その方が洪破天らしいというものなのだ。
「洪兄さんが気にしてるのは、媛の気持ちかしら?」
王梨の穏やかな視線が洪破天に向かい、洪破天はそれを見返しつつ首を傾げた。
「……洪兄さんは、媛にとって特別だわ。何も気に病む必要は無い」
「何の事じゃ?」
「媛がね、都での話をしてくれたわ。洪兄さんと殷さんが自分と弟を救ってくれたってね。洪兄さんはとにかくいつもお酒を飲んでて、ちょっとおっかなくて、そして優しかったって」
「……」
「だから、変わらない方が良いのよ。今までの洪兄さんのままで」
「……特別、か。特に変な爺ということじゃろう」
「フフ、そうね」
王梨が一際にこやかな表情を見せたので、洪破天もつられてようやく頬を緩めた。
「まあ、そなたの許で芸の修行に励む様になれば儂の事も気にならなくなるじゃろう。梨妹の弟子ともなればのう」
「それは無いと思うけど」
王梨は首を振る。
「本当に『特別』なの。洪兄さんも、それから……殷さんもね」
「殷……か」
「洪兄さん。訊きたいんだけれど」
王梨は改まってそう告げると、懐から小さく畳まれた紫の手巾を取り出した。洪破天の目に留まる様に一度顔の高さまで持ち上げてから、手の上でゆっくりと開いてゆく。中から出てきたのは二つの緑色の輪。古びた耳飾である。洪破天は目を細めた。
「それは……媛の物じゃぞ?」
「分かってるわよ。まさか私が取り上げたとでも思ったの?」
「……その耳飾がどうかしたのか?」
「媛が、これを着けたいと言うのよ」
王梨は一つを摘み上げて眺めている。傷だらけで色はくすみ、壊れかかっていて今の状態では『飾り』にはなりそうもない。それにただの輪だけしかなく地味過ぎる。
「これを着けようなんて、普通は思わないわ。特に若い娘は」
「媛はそういった類の物は身に着けた事が無いのじゃろう。まだ子供ではないか。……それはそうと、媛のあの格好は何じゃ。あんな……」
「気に入らない?」
王梨は意外だとでも言う様に上目遣いで洪破天を見遣る。
「どうせまだ何も出来んのじゃろう? あんな衣装はまだ早いわい。それに……大胆過ぎる」
「洪兄さんは――」
王梨は思案顔で宙を見つめ、
「遥か昔に剣を習い始めたのよね? 剣を初めて手にしたのは、剣術が出来るようになってからだったかしら?」
「何? それは……剣術以外にも初めにやる事はいくらでもあるわい」
洪破天は王梨の言葉を聞いて顔を顰めたが、何とか言葉を返した。それを聞いた王梨は洪破天に視線を戻して微笑む。
「私達の修行も色んな事をしなければならないわ。でも此処で媛がまず初めにやらなければならない事は、何が美しいとか何が楽しいとか、そういう事を知る事、感じる事なの。あの年頃の女の子は、本来ならもっと色んな事を知っている筈なのよ。他愛の無い事だけれど、例えば自分を飾る方法とかね。今のあの娘にはそういった処が全くと言って良い程無いわ。きっと忘れたのね。生きるのがやっとだったから――」
洪破天は目を見開いた。再び都での梁媛の姿が脳裏に浮かぶ。
あの時、梁媛は弟の梁発と共に食べ物を求めて居酒屋に忍び込んだが、何も得られず失敗に終わったらしい。しかしその後の梁媛を見る限り、盗みという悪事を何の抵抗も無く働く様な子供には見えなかった。生きるにはそれしか無い――本当にそれしか無かったのである。
「そうじゃ。暢気に遊んでいられる様な状況では無かったからのう。綺麗に着飾って遊ぶだけで腹が膨れるか」
「フフッ、それ、紫蘭に言ってやって頂戴」
「いや、紫蘭と媛は違う。その……境遇が全く違うというのに比べるのはおかしい」
誰も傅紫蘭と梁媛を比べてなどいないが、洪破天は慌てた様子でそんな事を言った。
(紫蘭は関係ない。それよりも……何もせんで腹を膨らませておるのは儂ではないか)