第十一章 二
天の低い位置から差し込む光は部屋を赤く染め、昼間の眩しさとはまた違った色で見る者の目を刺激する。
傅家の旧宅であり今は王梨が住んでいるこの屋敷の中央に大きな広間がある。この広間の床は真新しい。綺麗に磨かれていて敷物は一切無く、窓から入る西日を反射して部屋中を赤に変えていた。
その部屋の中で、北側に位置する壁だけが少し暗めの青色をしている。壁がその色に塗られているのだ。そしてその青の中に小さな金色が点在し、それらは星を表していた。壁一面に広がる星々。その中ほどに、七つの星が天上に見られるのと同じ様に並べられている。その上には他の星より僅かに大きな星が一つ。北極星と北斗七星である。
壁には星以外の装飾は何も無い。ただそこに、北の夜空が広がっている。
「洪さん? 居ませんか?」
不意に掛けられた声を、洪破天は腕を上げて即座に遮った。声を掛けた超靖は口を噤んでちらと広間を覗く。それから黙ったまま洪破天に向かって頷き、静かにこの場を離れて行った。
洪破天は広間の端の入り口から体を半分だけ差し入れて奥をじっと見つめる。中央の北辰、北斗七星のその下に、端座して目を閉じている梁媛が居た。
淡く赤味がかって見える裙の裾が床の上に広がり、薄緑の帯が夕陽で赤く染まった床の上を流れる。上は胸当てに紗の衫を羽織り、そこから透けて見える肩と白い胸が光を放っていた。洪破天は夕陽の赤が混じったその光を見つめて眉を顰める。
彼女は美しかった。梁媛は傅紫蘭の一つ年下で十四歳になったばかりである。もっと幼い筈であったのだが、今此処に居る梁媛の美しさは洪破天に、女を感じさせた。
(……梨妹は何を考えておる? あのような衣装は早過ぎる)
険しい表情で見つめつつ、息を潜める。梁媛は変わらず目を閉じたまま、その白い胸を微かに上下させて静かな呼吸を繰り返していた。
梁媛の顔は普段より一層白く、ぴたりと閉じられた小さな唇は赤い。耳の上を通って背に流れる長い髪は艶やかな黒で、少し大きめの銀の髪飾りで纏められている。
(……これで良いのか?)
洪破天は梁媛と出会った頃に思いを巡らす。衣服は泥まみれで顔の汚れすら落とす事も無く、弟の梁発と共に都の片隅に潜みつつ生きながらえていた娘が、この梁媛なのである。だがこの一年ですっかり変わった。少なくとも姿だけは。
(儂が勝手に変えたのではないか。媛の意思など、何処にあったというのじゃ?)
洪破天は都で梁媛に綺麗な着物を買い与えたが、それは今、梁媛が身に纏っている様な物ではなくもっと幼い子供が身に付ける様な可愛らしいものだった。そしてそれは良く似合い、梁媛は喜んだし洪破天もその姿を見て満足した。最初に出会った時から放ってはおけないと思いこの東淵に連れて来ようと考えていたが、新しい衣服を買い与えたその時に改めて、梁媛と梁発を『儂が育てよう』と強く心に決めた。そう、決めたつもりだった。
思い返してみれば都を出る前に梁発が死んでしまった事が、今を暗示していたかの様に思えてならない。
(育てようと決めた傍からもう、発を失ってしまったではないか。しかも儂が、媛から奪ったのだ……)
東淵に来てからのこの一年、梁媛に何をしてやれただろうか? 何もしていない。何も出来なかった。二人で暮らす――ただそれだけを妄想して浮かれていただけではなかったか? 自分自身が傅千尽の家に生活のほぼ全てを頼りきっているというのに。
(フン、儂が変えた? 馬鹿な。何も出来ずに傅家に押し付けただけじゃ。ああ……媛よ)
梁媛は身じろぎ一つせず背筋を伸ばして座っている。王梨に芸事を習うべくこの屋敷に来たばかりなのに今の姿勢を見ているとまるで既に修養を積んだ舞姫にでもなったかの様だ。瑞々しく艶やかな肌。大胆に胸元を見せるその衣装に洪破天は戸惑った。自分が都で買い与えた服は今着ても古くは無い。梁媛はそれを気に入っておりよく身に着けていて、とても可愛らしかった。それが今は別人になっている。
洪破天は舞や音律の事など何も知らないが、今、梁媛に『立って舞え』と言っても、一日、二日で既に何かが出来るようになっているとは考えられず、何も出来ないであろう事は分かる。洪破天の知る剣にしてもその修行は遠い道のりである。舞などの芸事とて同じ事。幼い頃より稽古を積んでこの東淵で『花』と謳われた傅紅葵でさえも未だ道半ば、とは母であり師である王梨の言である。
(衣服が変わっただけじゃ。媛はまだ……)
洪破天の顔から険しい表情は消えたが、その視線は一瞬たりとも梁媛から離れなかった。
(何をしておるのじゃ? 瞑想か? しかし……)
梁媛は床の上に正座している様で、長い裙の下で膝を揃え、その上に両手を乗せている。その掌が天井を向いていた。
(まさか内力を練っておるなど……ハ、まさかのう)
梁媛の掌は何となく自然に上を向いたという形ではなく、明らかに意識して上に向けて置かれている。その掌から気を取り込まんとするかの様だ。
武術の修行においてよく見られる内功の修養する時の姿勢で、両掌と両足の裏を天に向ける形のものが良く知られている。結跏趺坐の姿勢を取り、両掌も天に向ける。体の中で最も気の出入りが多い掌と足の裏から気を取り入れる為である。武林各派には様々な姿勢と行い方が存在するが、この結跏趺坐のものが最も基本的な、共通した姿勢であろう。梁媛は正座しているので足は天を向いていないが、掌はしっかりと上を向いているので恐らく気の修養と無縁では無い様に思われた。
(内力は感じられん……当たり前か。しかし梨妹は何をさせるつもりじゃ?)
洪破天はそんな事を考えながら、暫く梁媛を見つめ続けた。
どのくらいの時が経ったのか分からなかったが、広間の外に人の気配を感じた洪破天はすっと体を退いて廊下に出た。廊下の奥から王梨がこちらに向かって歩いて来る。
「洪兄さん。やっと来たのね」
王梨はにこやかな表情を浮かべながら、少し声を落として洪破天に話し掛けた。広間の中に梁媛が居るからだろうと洪破天は想像する。
「邪魔をする気はない」
「余程じゃない限り邪魔になんてならないわ」
王梨はこのところ少しやつれた顔をしていたが、今はどうやら元気が戻ってきた様子で、笑顔が明るかった。
「何を……しておるのじゃ?」
洪破天は顔を広間の方に向ける。
「媛? そうね……ただの瞑想よ。心安らかにする為に」