第十一章 一
陽はもう充分に傾いて西方の空が赤く染まっている。雲の殆ど無い空でその赤と濃い青がせめぎあう場面だが、そのどちらも勝利を手にする事は無いだろう。それは太古の昔から決められており、普遍である。この後の空を支配するのは赤でも青でもなく、必ず、黒なのだ。
江湖の古い伝承は語る。東方、西方共に退き、天皇大帝率いる闇が空を制する。天皇大帝は天の北極に君臨し、何人たりともこの天を侵す事は成らない。北斗真君が天皇大帝の御座所、紫微宮を守護しつつあらゆる敵を撃ち殺すのである。
北斗真君とは七つの星。その力は天のみならず地上の生殺与奪までも司るという。古くから地上の人々は北斗真君の力に畏敬の念を抱く。北斗真君は天皇大帝を守護する堅固な盾、敵を容赦なく滅する最強の剣。
人々は自らの持つ剣に七つの星を刻んで更なる破敵の力を欲し、今でも剣を作る時には七つの刻印を入れる事が多い。一般にこれら北斗七星を刻んだ剣を総じて『七星剣』と呼ぶのである。また、人々は他の身の周りの物にも七つの星を刻み、個人、家、そして一族の守護を願った。
北斗真君を信じ、天地を支配する天皇大帝を信奉する――これはこの国で古くから存在し、最も広まっている民間信仰であった。そんな中、天皇大帝、つまり北辰への信仰においてまず人々が思い浮かべるのは、やはり太乙北辰教であろう。
北辰信仰は各地にあり、その信仰の生活との結び付きの強さに差はあるものの信者による共同体の様な姿を形成している地域は少なくない。信者と呼ぶほどではなくとも積極的に肯定はしないが否定する事もなく、『悪人は地獄に落ちる』程度のごく一般的となりつつある概念――この国ではその思想が他国より入って広まり始めてからまだ日が浅く深い理解には至ってはいないが、その道義的戒めの言葉は比較的取り入れ易かった――と同様に漠然と北辰信仰を容認する人々はかなり多い。北辰を信仰する人々は全て、古くから名の知られている太乙北辰教の信者かというとそうではなく、太乙北辰教とは数ある信仰者の集団の中で最も整然と自らを体系化し、最も巨大化した、北辰信仰における一派である。
今、北辰信仰といえばそのまま太乙北辰教と捉える者も居るが、まだ各地には太乙北辰教とは全く別の北辰信仰が数多く存在している。
太乙北辰教が今の様な巨大な勢力となれたのは、まず北辰信仰というものが遥か昔から広く人々に認められ信じられていた事がある。過去様々な宗教思想が興り、ある程度の広がりを見せたが、既存のものには無い全く新しい概念は、奇抜で怪しいものだと人々の目には映り易い。今までの道徳観を完全に否定する様な思想と行いを推奨する集団も現れ熱狂的な信者を集める事に成功した例もあったが、長く存続は出来なかった。『邪教』の烙印を施され、彼らの言葉で言う『迫害』が起こる。
信仰心の有無に係わらず、『邪教』の存在は人々を恐れさせた。得てしてその価値観は既存のそれよりも卓越性を増さんが為にやたら複雑怪奇となって、到底理解出来るものでは無いからである。たんに難しすぎるだけなら邪教とされるには至らないが、それらに比べると空の星の運行を見て天の理の壮大さに畏敬の念を抱き、地に在って謙虚に人生を送るという、原始的な思想の方が遥かに受け入れ易い。
難解な思想の熱狂的な信者達がすぐ近くで理解不能な振る舞いをする様になれば人々は自然と彼らに嫌悪を抱き、信者が集団を作り始めればそれに対する抵抗が強まるのは自明である。一定の勢力まで成長出来なかった思想集団は生き残る事が出来なかった。その点、太乙北辰教の教えである北辰信仰はある意味無難な考え方とそれによって導き出される分かり易い生活法を備えていた。
景北港を中心に広がっている太乙北辰教の信者の生活の中には、意外な程、宗教儀礼的な様式は見当たらない。祭壇を置く家はあるのだがかなり少なく、今の太乙北辰教は信徒に対して日々の礼拝をも命じてはいない。完全に信仰心など失ってしまっているに違いないと思える様な、信徒とは名ばかりの人間も居るのである。それでも教主への忠誠心だけは失わない様であるが――。
この事は良く知られており、これでよく信者を繋ぎ止めておけるものだと思えるが、太乙北辰教が急拡大し始めたのは江湖の認識が『北辰信仰者の集団』から『武林の勢力』へとその本質の比重を変え始めた頃からである。
宗教の組織が変質する時、人々が強い警戒感を抱くのは歴史上の様々な例を見ても明らかだが、太乙北辰教はそれらを全く意に介さず、劇的に拡大した。何故そうなったのか、それは具体的な事は何も分かっていない。恐らく当時の方崖の教団運営の舵取りと、対外的な政治的手腕が優れていたと、ただそう推察するしかないが、宗教界から『武林』へ――これが成功の要因であったとする説もある。ただそれも具体的な証拠は示せない。
武林とは武術界の事であり、そこでは文字通り『武』、すなわち力でもって自らの存在の証明を行わなければならない。歴史と伝統を重んじる世界でもあったが当時の三大勢力、清稜派と襄統派、そして丐幇は伝統と共にその実力を維持し続けていたからこそ武林にその名を謳われていたのであり、ただ名前のみで力を失ってしまえばそれは在って無い様なもの。江湖の尊敬を集める事も無い。
人が集まれば力になるとは言っても、長い歴史の中で独自の武術を磨き上げてきた武林の各派に認められるなど簡単な事ではない。ならば太乙北辰教はどのようにして武林への進出を果たし、拡大したというのか?
信仰の集団がどうやって『武』を確立したのか、当時の事を知る術は方崖の外にあっては殆ど無いに等しい。人々は冗談めかして言う。
「きっと、北斗真君を地上に降ろしたのさ。紫微宮におわす教主に出来ない事など無い」
「北斗真君は天皇大帝の僕だ」
「教主自身が天皇大帝になる事にしたんだよ。武林制覇を思いついてな。自分が神様になりゃあ何でもできるぜ?」