第十章 三十三
樊樂らは周婉漣や洪破天、殷汪の話を続けている。どうしても北辰の事が頭から離れないらしく、話題は変わりそうも無かった。『どうでもよい事だ』と思いながら暫く黙って聞いていた胡鉄は諦めて再び口を開いた。
「周婉漣だの夏天佑だの、その辺の事は周の旦那に聞けば良いんじゃないか? どっちも旦那が招き入れたんだから、何か裏があるんならそれは『旦那に』あるんだよ。樊さんそうだろ?」
「旦那に裏があるだと?」
樊樂は胡鉄を睨みつけたが、胡鉄は構わずに続ける。
「旦那はもう稟施会の当主なんだから、当然、稟施会の敵にはならない。何かしようとしてるんなら多分、稟施会の得になる事なんだろう。という事は、北辰を使って何かするつもりなんじゃないかな」
「何かって何だ?」
「分からない。俺達はまだ聞いてない。知る必要が無いって事じゃないのか? 今はまだ」
「……確かにそうかも。我々が今、疑問に思っている事は全て、旦那の頭の中に答えが揃ってる様な気がします」
劉子旦も胡鉄の話に賛同し、樊樂と孫怜を見遣る。
「ああ、もう止めだ。俺は頭使う役じゃねえんだ。俺達は旦那の言う通りに行動するだけだ」
樊樂の頭の中はいつもより混乱しているのは確かだった。言葉を放り投げるように吐き出して変わりに酒を流し込む。
適当で、単純なのが普段の樊樂であり、若い頃から知る孫怜もそんな樊樂しか記憶に無い。それほど長い付き合いであっても樊樂が努めてそう振舞う以上、深い処にある心情ははっきりとは捉えられない。
(旦那と北辰だと? ……稟施会は今まで北辰に関わっちゃいねえ。先代も、ずっと昔からそうだった筈だ。いや、旦那が今から何かやるというなら俺は従うだけだ。俺は旦那を信じる。いや、そんな事より……今、旦那は攻めてるのか? それとも守ってるのか?)
「ずっと此処にいたら酒ばかり飲み続ける羽目になる。少風に話を訊きに行かないか? 俺達の仕事の為の、だ。とりあえず少風が見つけた死体はどのような者だったのかも訊かないとな。こっちが優先だ。洪破天どのには夜にでも訊くさ」
孫怜が一同を見回すと、樊樂以外はこちらを向いて頷いた。
「樊? 聞いてるか?」
「ん? ああ」
樊樂の耳に孫怜の声は届いてはいたがずっとぼんやりしたままだった。暫くしてようやく孫怜が自分に話し掛けたのに気付いて顔を上げた。
「樊さん、頭使う役は子旦だ。俺達は体動かそうぜ?」
胡鉄が笑いながら言うと樊樂は口を曲げる。
「考えてなんかいねえぞ。酒で眠くなっただけだ。よし、行くか」
樊樂はいつもの仕草で膝を叩いて立ち上がり、胡鉄、劉子旦がすぐそれに続いた。
「そういえば、酒代はどうすんだ? さっきも払ってないよな?」
「訊いてこよう」
孫怜が歩いて行く。その先には店の中を歩き回っている傅英が居た。
孫怜と話す傅英は笑いながら顔の前で手を振っている。声の聞こえていない樊樂らにも、『いらない』と言っているのが判る。
「少風と話してた人だな。此処の女将か?」
「給仕でしょう」
劉子旦は樊樂にそう答えるが、傅英がひっきりなしに客の間を往来するのをずっと目にしていたので単純にそう考えたのだった。
すぐに孫怜が戻ってくる。
「お代はいらないそうだ。少風が此処に居て得したな」
「なら晩飯も此処で世話になろうか」
樊樂らはだんだん増えてきている客の間をすり抜けるようにして店の外に出た。
「紅門飯店か……。そんなに良い店か? 評判になるような……。悪くは無いけどな」
「都ならもっと大きい処がありますね」
「上にも席がある様だったが? 階段の下から覗いただけだが雰囲気が違った。おそらく、『紅門の花』が健在だった頃は特別な宴席でも設けたんだろうが」
「目玉を失ったんじゃあ、此処も先行き不安だな」
「下にこれだけ客が居るんだからそれでも儲かっているんじゃないですか?」
胡鉄が辺りを見回している。
「あーなんだかこう、がっかりだ。美人を拝みたい……」
胡鉄の思う美人は周辺には見当たらないらしく溜息をついた。陽は中天に差し掛かり、通りは既にごったがえしている。着飾った若い女も多く見受けられたが胡鉄の注文は余程厳しい様である。
紅門飯店の横に馬を置いたままで、通りを南下していく。左手に並ぶ店と店の間から東淵湖が見え、子供達が泳いだり水辺ではしゃいでいる姿があった。
「遊んでくるか?」
樊樂が後ろに居る可龍と比庸を振り返る。この二人は東淵に着いてからは紅門飯店の酒に口を付ける以外は殆ど口を開いておらず、樊樂や孫怜の話には入るどころか何の話なのかもよく掴めていない。ただついて歩くだけの存在であるのが当人達も正直なところ苦痛ではあったが、まだ何も出来ない事も良く分かっている。だからといって孫怜と離れて好き勝手やっていてはいつまで経っても役立たずのまま。今は何も理解出来なくても孫怜の話やする事を見聞きして少しずつ学べる筈だと、二人だけでそんな事を話しながら黙々とつき従っていた。
「そんな……子供じゃないですよ」
比庸は少しむっとして樊樂に言う。しかし流石に樊樂の大きな眼を真っ直ぐ見て言う度胸は無く、すぐに隣の可龍の方へ視線を投げた。樊樂は東淵湖の方を眺める。
「ほう、そうかい。俺は水浴びして遊びたいけどなぁ」
「子供しか居ませんよ。でも気持ち良さそうだなぁ。城南で泳げる処なんてそんなに無いですからね。近くにあるのは汚い沼ばかりだ」
皆、足を止め、水しぶきを上げて走り回る子供達の姿を眺めた。
「無邪気なもんだ」
「そりゃそうでしょう」
「戻れねえかなぁ?」
「子供に?」
「おう。しかも此処でな」
「夏は良いけど、冬がちょっとねぇ」
「樊。城南組はこの季節にこんな良い処に来れるなんて滅多にないだろうから水浴びしていっても構わんぞ?」
孫怜が真顔で言っている。樊樂は顔を顰めた。
「冗談だよ。俺も餓鬼じゃねえ。残念だけどな」
樊樂らは最も南の城南から遥々と東北のはずれとも呼べる東淵までやって来たが、周維の命を受け、まず武慶を訪れたのがもう三ヶ月以上前の事である。秘伝書はともかく、人質の方はとうに解放されたか、或いは殺されたかのどちらかであろうと考えるのが妥当なところであり、それが厳しい現実というものだ。何か手掛かりは無いかと探しながらの旅だったが此処まで何も得られなかったのは全くの予想外であり、己のしている事は物見遊山にしかなっていない様に思えて虚しい気分に苛まれる。
七星周婉漣が城南まで行って何をしたのか、それも不可解で気がかりな事であるが自分達の任務についての手掛かりがこうまで出てこないというのも、もはや謎としか言えない程、不審極まりない。東淵に至ってやっと秘伝書に関わりがあるかも知れないという話を馬少風から聞けた訳だが、はたしてそれが目当てのものであるのかはこれからである。
人々が遊ぶこの歓楽街と東淵湖に映る鮮やかな青を眺めていると、通常なら高揚するはずの気分が逆に重石を吊り下げられて沈んでゆくかの様に感じるのだった。
第十一章へ続く