第十章 三十二
紅門飯店の中ではいつの間にか客達が入り口を中心に半円状に群がって様子を窺っていた。洪破天はこの店で見慣れているし鐘文維もこの東淵に滞在し始めて、ある程度経っている。注目はやはり周婉漣である。
北辰教の勢力圏に居てもその姿を拝む事は滅多に無く、大抵方崖に籠もっているとされていて、実際そうであった。太乙北辰教と敵対する者には当然であるがこの街の人間にとっても七星周婉漣は謎が多く、美しい女で凄まじいほどの武芸の持ち主という噂によって人々の妄想は勝手に膨らんでいく。この場合、『凄まじい武芸』というのは単なる想像だが、北辰七星の一人に数えられているというたった一つの事実――それだけでその裏付けとするには充分だった。その彼女が突然目の前に現れた。客達は好奇と不安が入り混じった視線を向けている。
周婉漣が店に入ると、客達は何やら小声で言い合いながら後ろに下がり道を空ける。周婉漣は数歩進んで立ち止まり、まるで音でもって周囲の様子を探るかの様に静止して小首を傾げた。その間に洪破天が前に出て階段の方に向かうと周婉漣も歩き出して鐘文維と共に続き、そして孫怜らも後を追う。
階段のすぐ手前まで来た時、洪破天は振り返って孫怜を見た。
「あー、おぬしらは此処で休んでおれ。少風もそのうち顔を出すじゃろう」
「洪どの、もし殷さんの話ならば私にもお聞かせ願いたいのですが」
「遠慮して下さい」
孫怜の言葉に応じたのは周婉漣。孫怜を振り返りじっと見つめ返してくる。
「方崖の夏という者の話です。あなたには――」
「関係がある。あなたは私をご存知の様だ。それに馬少風も。ならば、我らが夏天佑とも旧知である事も聞いておられるのでは? 殷……総監から」
「今、総監の役にある人間は居りません」
周婉漣はそう言って後ろを向く。だが洪破天が前に居て立ち止まっているので、孫怜に背を向けたままその場に立ち尽くした。孫怜はその後姿を睨む。
(……そんな見当違いの台詞を吐いて話を逸らすつもりか。沈着なのが身上の様に振舞ってはいるが、何という事は無い、普通の女だな)
「洪破天様。参りましょう」
「儂がこの孫に話すかも知れんじゃろうが? それでも良いのか?」
洪破天は動かず、周婉漣に訊ねる。すると、
「話しても良いと判断されたなら、それは構いません。私からは、この者達を知りませんので話しません」
と言い、洪破天の横を抜け一人先に階段を上って行く。洪破天は肩を竦めて孫怜を見た。
「とりあえず儂が聞くわい。まあ、待て」
「……はい」
孫怜らを残して洪破天と鐘文維も先を行く周婉漣を追った。周婉漣は純白の深衣の袖を揺らしながら音を立てずに上って行く。その後姿を鐘文維が見上げて、僅かに笑みを浮かべた。
(フッ……周よ。そなたらしくもない。これは本当に……殷総監を見つけたか)
「つっ……何だってんだよ!」
樊樂は卓を拳で叩いて声を荒げる。すぐ近くに居た客達が何事かと恐る恐る樊樂らの居る方を振り返っていた。その者達にとっては、鐘文維や周婉漣と共に居ただけですでに樊樂らはただの客ではない。
「樊さん」
劉子旦が樊樂の名を呼ぶが、後が続かない。普段なら『落ち着け』と言うところだが、劉子旦自身も周漣が名を騙り正体を隠していた事に衝撃を受けており、胸がざわついて落ち着かない。
「とりあえず……飲もう。もう此処でする事なんて無いだろ?」
胡鉄が酒壷を引き寄せて掴むと、樊樂に差し出した。樊樂は膝をがたがたと揺らしていたが、胡鉄を一瞥してから酒杯を手にとって腕を伸ばす。酒は溢れんばかりに注がれた。
「洪さんが話してくれれば良いが……」
孫怜が酒を一口飲んでから半ば独り言の様に言い、樊樂はそれを聞いて『フン』と鼻を鳴らす。
「どうだかな。本当は仲間だったりしてな」
「周……北辰の、ですか?」
「あの周婉漣の態度からしてそうだろ? それに殷総監をあいつらと一緒に探してるって事はやっぱり北辰教の仲間だろう」
「どうかな?」
孫怜は手にした酒杯を両手で包んで、それをじっと見つめ続ける。
「洪破天どのが殷さんを探すのは、何もおかしくはない。咸水に居た頃から知った仲な訳だからな。北辰教にも殷さんを探す理由はある。ただ、完全に協力しあっているのかどうかは何とも――」
「なぁ」
一人、手酌で酒を呷っていた胡鉄が少し強い口調で孫怜の言葉を遮った。
「そんなの俺達に関係あるのか? 俺達は周の旦那の命令通り、秘伝書と人質を探せば良いんだ。他の事は放っておいたら良いじゃないか」
確かに、この東淵に来るまで洪破天の事も知らなかったし、北辰教も秘伝書を探しているだろうとは既に考えていた事である。実際には探してはいない可能性も出てきたが、しかし自分達のやるべきは探し続ける事であり、誰がどうであろうとやる事は同じである。
「関係無けりゃそれでいいさ。しかしあの女は城南まで行ってたんだぞ? 怜、さっき夏の事をあの女に訊いたな? あの女、今、旦那の処に居る夏を、俺達の知ってるあの夏天佑だと思ってわざわざ城南まで行ったという事か? 馬公の話じゃあいつも北辰に関わってたみたいだしな」
「そうでなければあの周婉漣と稟施会に接点など無いだろう? 夏天佑……全く同じ名の男が城南に居るとなれば調べるだろう。何をしたか知らんが、殷さんとは近しい男な訳だから殷さんが逐電したのなら天佑も共に行動したのだろうな。……少風の『死んだ』という話と合わんが」
「何ていうか、どいつもこいつもはっきり物を言わねえって感じだ。誰かすぱっと解る説明してくれ」
樊樂は椅子の背に体を預けて脱力し、顔を天井に向けた。そしてそのまま、
「洪の奴……あの洪破天どのと本当に何も無いんだろうか。本当は……親子かなんかで、実はあいつも北辰教に繋がってるんじゃあるまいな?」
「まさか……」
劉子旦が頬を引きつらせて笑みを作るが、否定する言葉は出ない。
「あいつ、あの女に惚れてたよな……」
「はっきりとそうだとは言えないと思いますよ。あの態度は……」
「洪の奴があの女の正体を知ってて俺達に黙ってたなら……」
「洪……破人の事を言っているのか? 内通しているとでも? 何の為にだ? 樊、今は何も解らない。そんな時に色々考えても碌な事は無いぞ? 確実な事を、少しつづ詰めていくしかない。フ、俺もだな。考え過ぎた」
孫怜は背を伸ばして深呼吸した後、酒杯を口に持っていった。樊樂が体を起こして孫怜に寄る。
「怜。絶対にうちにいる夏はあの夏天佑じゃねえぞ? 俺達より若いし、顔も違う。全くの別人だ。ちゃんと素面の時にもそいつの顔を見たんだからな」