第十章 三十
洪破天も劉子旦の声を聞いてそちらを向く。孫怜は男の方が気になったが洪破天が全く気に留めていない様子なので、一度男をちらっと見遣った後、通りの反対側を振り返った。
やって来る馬が人の流れを左右に裂いていく。
「何で……こんなとこに居るんだよ……」
樊樂らだけでなく、通りに居る者達の殆どが馬上を見つめていた。喪服を想わせる白装束に長い黒髪をたなびかせ、人形の様に美しく、感情の無い白い顔。樊樂、胡鉄、劉子旦は凝視しつつも自分の目を疑う。
「周漣……さん?」
「だよな……」
「洪破天どの」
急に背後のかなり近い距離から声が掛かり、孫怜は思わず体を強張らせた。振り返ってみれば先程の男がすぐ後ろまで来ているではないか。
(何だこの男は! 気配を全く感じなかった!)
孫怜は驚いて僅かに体を退いてしまう。男は孫怜を見る事は無く、洪破天の方を向いている。そして洪破天はのんびりと男の方を振り返った。他の者は皆こちらにやって来る馬の方を見ていて男が近付いたのには気付いていない。
「周が戻って来ましたな。何か土産があるかも知れませぬ」
「誰に、なのかが問題じゃ」
聞こえてきた『周』という名に樊樂が反応する。振り返った樊樂はこの時初めて男がすぐ近くに居る事に気付いて驚いたが、洪破天と普通に話しているの見て、そこに割り込んだ。
「周ってあの、女の事か?」
樊樂はやって来る馬の方を指している。あの馬に乗って進んでくる者はどう見ても、此処に居る筈の無い、城南の周維の屋敷に居る筈の女、周漣であった。
男は樊樂の問いに答えようとはせず、ただじっと樊樂を見ているだけである。変わりに洪破天が口を開く。
「あれは周婉漣。名前くらいは聞いた事があるじゃろう?」
「周……婉漣……」
「樊さん!」
劉子旦がまた樊樂の腕に触れた。向かって来ていた馬が足を止めている。騎乗している周婉漣は顔を真っ直ぐこちらへと向けていた。樊樂らが居る事に気付いた筈だが、表情は変化しておらず、瞳も見えない。
「本当に周漣さんは……北辰七星の周婉漣だったと……?」
劉子旦は周維や洪破人に、城南の屋敷で周漣がかつての同僚、風を切った話をした時の事を思い出す。周漣が剣を使えるという話から北辰教の七星周婉漣の名が出たのだが、殆ど冗談の様なものであり誰も『同一人物か?』と疑うまでには至っていない。しかし劉子旦には妙な妄想癖があり、もしそうだったらどんなにか面白い事になるだろうと、よく想像していたのである。それが今になって本当にそうらしいという状況を目の当たりにし、流石にこれには面食らってしまった。周婉漣が稟施会に近付いた理由によっては『面白い事』どころか、稟施会にとって悪夢が始まっているのかも知れないとまで思えてくる。
男が洪破天に話す。
「急ぎ方崖に戻るという様子でも無い。此処に寄って行くよう言いましょう」
「まあどちらでも良いがのう」
男は歩き出した。あの周婉漣の許へ向かうようである。
「……あの男は周婉漣のお仲間、鐘文維という」
男を見送りながら言った洪破天の言葉に、孫怜は唖然とする。
(あれが鐘文維? ……まずい。北辰教に近付き過ぎている。まさか洪破天どのがこれほど北辰教に近い人物であったとは)
自分達が洪淑華の秘伝書を追っている事が鐘文維に伝わっているのかも知れないと思うと、不安が募る。しかしそれの何がどうまずいのかは、はっきりと把握出来てもいなかった。
今の時点では分からない事が多すぎる。北辰教は真武剣派が動いている事を知っている筈で、それならそれに対抗すべく行動を起こすのが今までの北辰教の姿勢であった。だがはっきりとその様に動いているふしが見当たらない。孫怜らは至東山の近くで北辰教の人間を見た。その者達がやっていたのは真武剣派に対する嫌がらせみたいなものでただの牽制役であったのかも知れないが、洪破天や馬少風が真武剣派の動きを知らないという事は別途に大人数を動かしているとも思えない。北辰教が事を起こしているのならこの東淵で噂にならないという事は考え難いのである。『北辰が人を方々に遣っている』と馬少風から聞いた時には、秘伝書を真武剣派よりも先に手に入れる為かと思ったが、すぐに『殷汪が生きていてそれを追っている』と言い、想像は見当違いであった。この事から北辰教の真武剣派の動きに対する反応については、未だ知り得ていない。
もう一つ。洪破天が七星という北辰幹部と繋がりがあるとは思っていなかった。あの馬上に居る周婉漣と、それを少し距離を置いてじっと見つめる人々の反応。これが北辰七星である。方崖で教主に最も近いとされている幹部で対等に口を利ける人間というのはそうは居ない。教主直属の護衛という立場は方崖の九長老と違いはあるものの、北辰教の中枢でかなりの力を持っている事はまず間違いない。その一人、鐘文維の洪破天に対する丁寧な口調は何を意味するのか。北辰教は殷汪を背信者として追っているにもかかわらず、その殷汪と最も親しかったであろう洪破天とこうして親しげに接しているのはどういう事か? 孫怜にはどうもこの関係が読み取れない。
(我々が何も知らなかった北辰教にわざわざ知らせてしまったのではあるまいな?)
不安を覚える孫怜であったが具体的な状況は全く掴めず、またそれを確かめる術も今は見当たらない。
「怜、あれだ」
樊樂が孫怜を振り返って言った。
「何だ?」
「うちの風を殺った女、周……婉漣か?」
「どういう事だ? 何故、あの女が城南に?」
「そんな事……知るかよ」
また不可解な話が出てきた。孫怜の頭は最早、混乱寸前である。
鐘文維が周婉漣に何やら話し掛けている。その二人を距離を保ちながら取り囲んで見ている通りの人々。誰もが七星二人に注目していた。鐘文維と言葉を交わした周婉漣は、馬から降りた。ひらりと、舞い降りると言っても良いほど動作が美しい。そのまま二人並んでこちらに向かって来る。孫怜や樊樂らは一度顔を見合わせてから、二人が来るのを黙って待っていた。