第十章 二十八
紅門飯店では奪われた秘伝書について樊樂が話していた。
「この街に、その徐って奴の縁者が居るらしくてな。肉親か何か……」
「徐……」
馬少風は首を傾げる。
「探せば幾らでも居そうだが」
「知り合いには居ないか?」
「知り合いというか、この通りを北に行った一番外れに宿……いや、今はやってないな。今は馬を扱ってる親父が居る。その親父は徐だ」
馬少風が表の大通りを指し示しながら言うと、
「よし。そこから当たろう」
樊樂は膝を打って勢い良く立ち上がる。すぐ隣の劉子旦が驚いて樊樂を見上げた。
「え、早速ですか?」
「当たり前だ。この先何人当たる事になるか分からねえんだ。さっさと取り掛かる。おい、案内してくれよ」
樊樂はまだ座ったままの馬少風を見下ろして言う。馬少風の仕事については何も知らないが、その都合やら何やらはてんで頭に無い様である。
「俺は一度屋敷に戻らねばならん。今言った徐の親父の家は通りを真っ直ぐ行けば分かる。右側の馬小屋のある家だ」
「そうか。まあ行ってみるか。関係無かったら、別の徐をそこで紹介して貰おう。ほれ、行くぞ」
「皆で押し掛けるのもどうかと思うが?」
孫怜もまだ座ったままで、樊樂を見上げている。
「いや、もし徐の奴が徒党を組んで潜んでたら困るだろ? こっちも全員居る方が良い」
「そうか。では行くか」
孫怜はあっさりと納得して立ち上がり、劉子旦と若者二人も続く。
「ここの酒は良いな」
胡鉄が手に持った酒杯を勢い良く呷って空にしてから最後に立ち上がった。
馬少風を含む七名は店を出て行く。その後姿を、入り口近くに座っていた男が見遣る。先程、洪破天が言葉を交わしていた鐘文維であった。
店先で馬少風と別れた樊樂らは大通りを歩いて北へ向かった。人が多いが通りの幅はそれほど広くは無く、六人全員が馬を牽くと邪魔になる。ぶらぶらと歩きながら甘い良い匂いを漂わせている露天や立ち並ぶ土産物屋などを眺めながら進むが、目的の目印である馬小屋は中々見えなかった。
「何だよ一番端じゃねえか。すぐそこみたいに言ってた癖によ」
「いや、あの馬さんはすぐそこなんて言ってなかったと思いますけど。『一番外れ』って」
馬少風の言っていた馬小屋のある家は、大通りの北の端、街の内と外を隔てる北門のすぐ手前にあった。門の外は遠くに民家がちらほら見えているだけである。樊樂らは馬小屋と家の外観を眺めたがごく普通の馬小屋のある民家で、馬少風は宿をやっていたとか言っていたが建物は小さく宿には見えなかった。
「よし。じゃあ行くか」
樊樂を先頭に、その家の開け放たれた入り口に向かう。すると丁度中から中年の男が出てくるところだった。
「ん? ああ、お客さんかな?」
「えーと、徐さんかい?」
樊樂が訊ねると男は笑顔で頷いた。
「そうだよ。馬が要るのかな? あー、でも今丁度数が居なくてねぇ」
男が樊樂の後ろに居る孫怜らを眺めて言った。全員分の馬は用意出来ないという事なのだろう。
「いや、馬じゃないんだ。俺達は人探しをしてるんだが、ちょいと訊きたい事があって来たんだ」
「人探し、かね?」
男はきょとんとして樊樂を見つめ返している。
(……とりあえず、誰かを匿うとかそういう気配は無いな)
樊樂と孫怜はその男の表情を見て同じ事を考えていた。孫怜が男に尋ねる。
「武慶の徐という男をご存知無いか? 徐騰という者なんだが……」
すると孫怜に視線を移した男の表情が急に硬く変化した。
「徐騰……?」
「この東淵に血縁の者が居るって聞いたんで、徐って人を当たってるんだが、知らないかな?」
樊樂は出来るだけ男に警戒させない様にと声の調子を高くして頬を緩める。
「……そいつは、何かしたのかね?」
男の声は樊樂とは対照的に低くなり、視線も孫怜から逸れて地面をさまよっている。
(いきなり当たりか?)
樊樂と孫怜はほんの僅かだけ視線を合わせる。そして孫怜が男に向かって口を開いた。
「その者は、武慶で強盗を働いて人を殺し、更に人質を取って逃げておるのです。しかし何処へ向かったのかがさっぱり分からない。何処か……行きそうな処が分からないものかと……」
「私の甥に、徐騰という男がいる。だが、都に居た筈――」
「都から、数年前に武慶に移り住んだようですな」
「……そうかね」
男は溜息を洩らして顔を上げた。
「同じ名前の人間はきっと他にも居るんだろうけど、その甥も、そんな事をしそうな奴だよ……。いや、前にもしてたんだ」
「実は我々はその徐騰の顔を知らぬので、あなたの甥がその徐騰かどうかは確かめられない。あなたの甥が仮にそうであったとして、他に身を寄せそうな場所は?」
「さぁ……。私も昔は都に居てね。私一人、こっちに移って来たんだ。親類は皆、都に居たよ。とは言っても皆老いて死んでしまった。あれが行きそうな処なんて、他には分からない」
「あなたを……訪ねてくる事は考えられますか?」
男は首を振る。
「無いと思うね。もう随分前から会ってない。会いたくないね。あんな奴には。向こうもそう思ってるだろうよ」
男は険しい表情で地面を睨みつける。男の甥が武慶の徐騰かどうかは本当に分からないが、どうやらどちらも同じ類の人間の様である。
「向こうは追われて逃げてる。過去の事なんて構ってられずに頼ってくるかも知れないぜ?」
樊樂が言うと、
「……何を盗ったのか知らないが、もし来たらそれと一緒に北辰に突き出すまで」
「北辰? 何で北辰なんだ?」
すると男は樊樂を鋭い目つきで見据える。もう先ほどの馬屋の気の良い親父の顔は何処にも無い。
「もし盗ったのが良い物なら、北辰はそれを懐に入れて、あいつを始末してくれる」
男は淡々と、そう言い放った。