第十章 二十七
その時、不意に傅紫蘭が立ち上がった。孫怜に名乗ってからその後は一度も口を開かずじっとしていたが、洪破天の取り出した紙を一瞥した直後である。
「……帰る」
「ああ。大丈夫か?」
馬少風が声を掛けると、
「もちろん」
そう言ってさっさと席を離れて行ってしまった。
馬少風と洪破天が振り返ったまま見送っているので孫怜らも傅紫蘭が店を出るまでその後姿を見ていた。
「……まずかったのう。すっかりあれを忘れておったわい。あの死体の話など……」
洪破天は馬少風と共に頷き合っている。
「俺が後で見て来よう」
「大人しく屋敷に帰るかどうかは分からんのう」
「探す」
「少風、何があったか知らんがすぐ追った方が良いんじゃないのか? あのお嬢さん、気分がすぐれぬ様に見えたが」
孫怜が言うと洪破天が馬少風に向かって、
「儂が行こう。お前達はまだ話があるじゃろう」
そう言って、卓上に置いた紙をさっと取り再び懐に戻す。
「今あるのはこの表紙のみでな。おぬしらの探しておるのは中身のほうじゃろう? そっちは分からん」
孫怜は頷く。
「おぬしら、暫く居るのか?」
「はい。実はちょっとした手掛かりも掴んでおりますので。とは言ってもその手掛かりも当てが外れればまた先を急ぐ事になりますが」
「ほう。ならまた今夜、此処に来るが良い。少風、お前もじゃ。話を聞かせて貰おう」
「はい。お話し致します」
「ではのう」
洪破天も席を離れ、店の出口に向かう。店を出る間際、その近くに居た男と二言三言、言葉を交わしてから出て行くのが見えていた。
洪破天は紅門飯店を出ると大通りをざっと見渡した。が、傅紫蘭の姿は見当たらない。
(とりあえず屋敷か)
深くは考えず、再び傅千尽の屋敷へと急ぎ向かった。
大通りから屋敷へ向かう道へと折れると、すぐに先を行く傅紫蘭の後姿が見つかった。見たところ変わった様子も無く自然に、歩いている。
「紫蘭」
駆け寄って声を掛ける。傅紫蘭は驚いて肩を強張らせ、振り返った。
「あ、ああ、お爺ちゃん。……話はもう終わったの?」
「いや、少風達はまだ店におる。随分久しぶりに会った友人の様じゃ。お前もたまには少風は置いて、まあ家でのんびりするが良い」
「そう。そうね」
二人は眩しさを増す陽光が射す静かな道を並んで歩く。屋敷まで真っ直ぐ伸びているこの道に今は他に誰も居なかった。
「お爺ちゃん」
「ん?」
「媛の処に行ってないでしょ?」
「んん? ……そうじゃなあ」
洪破天は急に梁媛の話が出てきたのを意外に思った。傅紫蘭が先ほどの話の場から逃げ出す様に出てきたのは恐らく昨夜の件を自分が話したからで、きっと聞きたくなかったからに違いない。
(別な話題なら気が紛れる――か)
梁媛の事をこの傅紫蘭と話す事は今まで殆ど無かった。故に傅紫蘭が梁媛の事をどう思っているのか聞くことも無かった訳だが、梁媛が傅紫蘭の母、王梨に、恐らくは芸事を学ぶ為に共に生活する様になって王梨は梁媛に付きっ切りになっている状態であり、傅紫蘭がこれをどう感じているのか知っておく必要がある。自分と梁媛が『傅家』を乱す様な事は、決してあってはならない。
洪破天がそんな事を考えているほんの僅かな沈黙に、傅紫蘭は溜息と同時に肩を竦めた。
「言っとくけど、私、媛を嫌うとか全く無いから。みんな私がお母様を取られて媛を嫌ってるとか思ってるんでしょ?」
「……そんな話は聞いておらんが、そうなのか?」
「時々耳にするわ。有難い事に、頼まないのに勝手に私の胸の内を斟酌してくれちゃって、そこら中で噂してくれてるの。知らない?」
「儂は知らんのう」
「お爺ちゃんには言うわけ無いか……」
傅家の人間、若しくは特に親しい者以外からは、洪破天が他所で拾ってきた娘を傅家に遣って育てさせているといった程度の理解しかされていない。間違いではないのだが、傅紫蘭の言う話を洪破天に面と向かって言える者は居ない。
「私はね、子供じゃないんだからそんなの気にする訳無い。お母様が私にあまり関わらないのは昔からだしね。紅葵姐様が居た頃もそうじゃない。でも、私は一度も紅葵姐様を憎んだ事なんて無い。ほんとよ?」
洪破天は微笑を浮かべて頷く。傅紫蘭の言葉に偽りは無いと洪破天は感じていた。
傅紫蘭は傅紅葵が好きだった。それは傅紫蘭の彼女に対する振る舞いを見ていれば誰にも分かる事である。誰よりも美しく聡明な義姉を、人に自慢するくらいであったのだ。そしてその傅紅葵を育てたのは、母、王梨。王梨と傅紫蘭は普通の母娘とは少し違ってその距離が少しばかり離れていたかも知れないが、その母も義姉と同様に憧れる存在であったというのはあながち無いとは言えない。
傅紫蘭は長女である傅紅葵の事を『姐様』と呼ぶが、次女、傅朱蓮の事は『姐さん』である。僅かな違いだが、傅紫蘭の気持ちの中に某かの区別があるのだろう。だがそれは別に傅朱蓮を傅紅葵と比べて敬わないという事では無い。傅朱蓮とは血の繋がりがあり、傅紅葵とはそれが無い。今でこそ傅朱蓮は東淵を離れている事が多くなり接する機会が減ったが、幼い頃はどちらかというと傅朱蓮はやんちゃな娘であり、傅紫蘭と性格に近い処もあって共に遊ぶ事が多かった。一方、傅紅葵は歳の差に加えて傅紫蘭の物心つく頃には既に王梨の許での芸事の修行に入っていて接する機会はあまり無かった。かなり事情の込み入った三姉妹ではあったが、それぞれ互いにうまく付き合ってきていた。特に末娘の傅紫蘭はこの家庭環境に不服も言わず、『素直な良い子に育った』と評判であり、現に今も馬少風を連れまわして遊んでいようとそれに眉を顰める者は父である傅千尽くらいであとは叔母の傅英が少し注意する程度である。
「媛は妹。妹がいつもお母様と一緒に居たって何もおかしく無いわ。姉である私がそれに文句なんて言うわけ無いじゃない」
傅紫蘭はそう言って小さく鼻を鳴らす。全てが本心という訳では無いのかも知れないが、その傅紫蘭の言葉が今の洪破天には有難かった。
「確かに妹じゃが、一つしか――」
「一つだろうとれっきとした妹だわ。私が、上」
傅紫蘭がそう言って胸を張って見せたので、洪破天は笑った。