第十章 二十六
樊樂が孫怜の肘の辺りを突付いた。
「怜……あとで俺達にもさっきの話、説明しろよ」
単に秘伝書の捜索と武慶の商人、劉建和の息子の救出に手を貸すよう依頼して孫怜はそれを請けたが、その孫怜は偶然にも目的の秘伝書と無縁ではなかった。しかしただそれだけの事と理解しており、最初はそうであった筈だが今の孫怜はどうやら自分達の全く知らない何かを動機として行動している様である。話がさっぱり解らなかったところからかなり複雑らしいが、孫怜が今まで一度も詳しく話そうとしなかった事が少し癪に障る。
「して、北辰が人を動かしているというのは……?」
孫怜は話を戻す。北辰が動いていると聞いてやはり秘伝書の奪い合いになっているのかと考えてしまったが、話した馬少風も洪破天も、真武剣派の動きについては知らなかった訳でこれは別な何かが起きているという事であろう。
「怜」
馬少風が体を起こして背筋を伸ばし、居住まいを正す。
「何だ? 改まって……」
「天佑は、死んだ」
「えっ?」
孫怜は突然の事に耳を疑った。馬少風をじっと見つめ、そのまま動かない。
「もうじき一年になる」
「……」
「病だった」
「……病? あいつはこの、東淵に居たのか? ずっと?」
「いや、違う。景北港に居た」
「そう……そうか。死んでしまったとは……。しかし、病とはな」
孫怜はそう言って力無く項垂れた。
「まだ若いのにな……」
樊樂がぽつりと呟く。多分孫怜に言ったのだろう。慰めになど到底ならない言葉であるのは言う前から分かっているが、他に思い浮かばなかった。樊樂も夏天佑とは互いに面識があったが孫怜ほど長い付き合いではない。だが孫怜、馬少風、夏天佑、慕容嬋という呂州の四人組は幼い頃からよくつるんで多感な少、青年時代を共に過ごしてきたのを知っている。彼らは、間違いなく家族だった。
離れ離れになってから久しいが孫怜はいつも昔を思い出しては考える事がある。かつて殷汪が言った。
『過去の全ての縁が、今の我が身の全てを形作る。無駄じゃないとか意味があるとか、そんなものは改めて言う程の事じゃない。俺の縁した全てが、俺だ』
人との出会いと別れのみならず、あらゆる出来事、縁した全てが自身を作っているのだという。既に去ったもの、そう思い込んでいるもの、既に消えたと考えている存在までも全て、自分なのだと。
人と出会う。別れる。そして忘れる。死ぬまで一度もそれを、その人を思い出さなかったとしても、今の自分はその者と出会って出来たのであり、話して出来たのであり、別れて出来たのだ。更には存在を知りながら近付こうとしなかった事によって、或いは出会いそのものが無かったが故に。それらが今、余すところ無くこの身を構成している。
(一瞬の縁とてそうなのだ。まだ幼かった頃から共にあった仲間だ。俺は、夏天佑と共に生きた。この先お前を居なかった事にしたくてもそんな事は出来やしない。俺の全てはお前の影響を受け続ける。例え忘れたとしてもそれは俺の頭がどうにかなってるだけでお前は俺の中から消えたりはしないのだ)
「天佑が死んだのは、殷さんが死んだとされているその日――」
馬少風が立て続けに孫怜を驚かせる。馬少風はとんでもない事を言い出した。そう、何か重大な事を。どういう事なのかすぐには理解出来なかったが、その突拍子のなさだけは耳にした直後に感じ取った。
「同じ……日だと?」
「怜、死んだのは天佑で、殷さんじゃない」
「……?」
孫怜だけではない。樊樂らも同様に驚きの表情を見せていた。
「殷さんが……生きている?」
馬少風は頷いて暫し孫怜をじっと見てからおもむろに口を開く。
「北辰が動いているというのは、殷さんを追う為だ。今は何処に居るのか分からない」
「本当に……生きているのか……」
「殷総監が生きているなんて、凄い」
劉子旦が声を弾ませて言う。殷汪を直接知る孫怜らとは違い、江湖の噂によって殷汪を信奉しているらしい彼にとっては一度死んだとされた英雄が実は生きていたなど、これほど血が沸く様な話は他に無い。
「凄いって何だよ? まぁ……驚きではあるがな」
樊樂の方はまだ比較的冷静である。
「て事はだ。夏は殷総監……というか北辰と関係があるのか? あいつが死んだ日に殷総監が死んだ事になるなんてよ。本当に、病だったのか?」
「関係はあった。病は本当だ」
孫怜が樊樂に顔を向ける。
「まあそれはそうだろう。天佑が呂州からこの東北に来たのは多分、殷さんが居たからだ。殷さんが北辰に入れば自分もついて行くと言い出しても不思議は無い。……それほど殷さんに惹かれていたんだ。憧れと尊敬――」
孫怜のこの話を聞きながら洪破天は夏天佑の事を思い出している。
『――感謝していたと伝えて欲しい』
夏天佑は洪破天と最後に言葉を交わした時、そう望んだ。
(利用されたという考えは最後まで微塵も持ってはおらなんだのう。殷はあれのそういう処を利用したとも言えるが……)
孫怜らの話が途切れた処ですかさず洪破天が話し出す。
「話が長くなってしまうわい。儂はそろそろ戻らんといかんのじゃ。天棲蛇秘笈の表紙とやら、見ておくか? おぬしらの追う秘伝書の一部かどうかは知らんが」
孫怜は感傷に浸る間も無く現実に引き戻された。
「今、お持ちなのですか?」
洪破天がおもむろに懐に手を入れる。
「今、此処にある。前に置くが、覗き込むな。書かれているのは題字のみでしかもかなり薄い」
覗き込むな、とは如何なる事かと皆が首を傾げたが、孫怜はすぐに気付いた様で、
「今、我々を見ている者が居るかも知れない、と?」
「まあ……そうじゃ。周りを見回すな」
「分りました」
孫怜が答え、樊樂らも頷いている。洪破天が今持っているという天棲蛇秘笈の表紙、それをこの東淵に持ち込んだ者が今、こちらの様子を窺っているかも知れないと思うと緊張が走る。
(……まぁ、誰でも良いわ。鐘の奴に知られるのはまずいかも知れんからのう)
実は洪破天の考えているその『見ているかも知れない人物』は孫怜らの考える者ではなく鐘文維の事である。店に入って来る時には見かけなかったが今も居ないとは限らず、居るかどうか確かめる為に見回す訳にもいかない。いずれにせよ何人にも知られない方が良い訳で、鐘文維の事をわざわざ孫怜らに説明する必要は無い。
洪破天は懐から一枚の紙をそっと取り出すと、卓上の中央へ置いた。それを孫怜と樊樂が注視する。劉子旦らからは少し遠く、何が書かれているのかは全く見えなかった。
「天……蛇……」
「これかも知れねえな」