第十章 二十四
「なぁ、此処の住人は皆、北辰教の信者か?」
樊樂が他の客達を見渡しつつ馬少風に訊ねる。
「そうでもない。俺は違う。正式に北辰教信者となっている者は半分も居ないと思う」
「そいつは意外だな」
景北港に近いこの東淵は信者だらけであるという印象を他所の者は持っており、樊樂も同様に考えていた。孫怜が口を開く。
「だが、北辰教を嫌う者はまず此処には住めまい。少なくとも理解が無ければ。此処の傅どのはこの街の実力者だそうだが、さすがに北辰教とは近いのだろう?」
この街でただ暮らすだけならともかく、商いを生業とするならば特に北辰教とは無縁では居られない筈である。
「お、お父様はそんな事無いわ」
答えたのは傅紫蘭だった。だが馬少風にしがみ付かんばかりに身を寄せて孫怜を見ており、声を出すのに随分勇気を絞った様である。
「お嬢さん、名を聞かせて貰っても宜しいか?」
孫怜が丁寧な口調で訊ねる。
「傅紫蘭」
速い返答に孫怜は笑みを浮かべて頷いた。その隣で樊樂がにやついている。
「じゃあこのお嬢ちゃんはお前の主筋というわけだが、随分仲が良いんだな」
「悪くは無い」
馬少風はただそう言って受け流す。『仲が良い』などと思った事は無い。この傅家の末娘のお守りをまかされたまま、やがて傅紫蘭が本来なら守りを必要としない歳まで成長したに過ぎず、しかしながら未だ傅紫蘭は馬少風を放免しようとはしない、ただそれだけなのである。
「そんな事より」
馬少風は変わらぬ真顔で孫怜を真っ直ぐ捉える。
「仕事とは何だ? わざわざこんな処まで来る用とは――」
「おいおい何だってんだよ。もし仮に何も無かったとしても別に来たって良いだろうが?」
馬少風には久しぶりの再会を喜ぶ様子は全く見られず、何しに来たと言わんばかりだと樊樂は感じ、少しむっとして唇を突き出す。この馬少風が満面の笑みを浮かべるなど過去にそんな記憶も無く望むべくも無いのだが、それにしてもこの物言いは無い。
「……何か……取り込み中であったかな? 俺達が来る事を訝る様な?」
孫怜は頬に笑みを残しつつ、馬少風の目を見つめていた。馬少風は自分の胸の内を探るべく自分の瞳を覗き込んでくる孫怜の視線から顔を逸らして俯いた。
「すまん」
「ほう、何があるんだ?」
樊樂が酒杯を呷って空にした後、その太い腕を組んで馬少風を睨む様に見る。その時、馬少風の背後に洪破天がやって来た。
「儂も良いかのう?」
洪破天は返事を待たずに傅紫蘭の隣に座る。
「儂は咸水の出でな。呂州も知っておる。話を聞かせて貰えれば嬉しいのう。それとも、邪魔かな?」
「咸水……ですか?」
孫怜らの視線は洪破天に集まった。
「儂は洪破天というんじゃ」
「怜、洪……破天さんの名、聞いた事が無いか? 咸水の」
孫怜は馬少風の言葉を聞いて見開いた目を一度馬少風に戻すが、またすぐに洪破天に釘付けとなる。その後は洪破天を見たまま言葉を失っている。樊樂の方は劉子旦、胡鉄らと顔を見合わせていた。
「ただの死にぞこないの爺じゃ」
「……で、ではあなたは咸水の……殷さんと……」
孫怜にしては珍しく動揺している様である。洪破天の名は有名であり、初めて会ったのなら驚くのも無理は無いのかも知れないが、長く洪破天と共に暮らしてきた馬少風にはその感覚はあまりよく解らない。
「アッ、それでは此処の……傅どのも、咸水の……?」
孫怜の眼は一層開かれる。咸水の生き残りは殷汪、洪破天、傅千尽の三名。この名は江湖に知れ渡っているがまさか此処で会うとは思わず、先ほど会った傅家の主人が傅千尽であるなど思いも寄らなかった。
「ああ、そうじゃ。儂と傅、そして殷。殷は知っておるかな? あれは元、呂州に居たんじゃが」
洪破天は既に馬少風から、孫怜が馬少風と同じく呂州で殷汪と知り合っていた事を聞いて知っていたがそれは隠した。
「はい。私は若い頃この馬少風と共に殷さんには世話になりました。そうですか……咸水の……」
孫怜は馬少風に顔を戻す。
「その縁でお前は傅どのに雇われているんだな」
「まぁ、そうだ。まだ殷さんも此処に居た頃だ」
「そうだったのか……ハハ、納得した」
孫怜は今まで馬少風が何故、東淵に住み着いたのか解らなかったのだが、それを今ようやく理解した。
「ちょっと、いいか?」
樊樂が態度を一変させて妙に遠慮がちな声を出した。
「洪……さん。実は俺達の知り合いに――いや、仕事仲間なんだが、洪破人てのが居るんだ……」
樊樂はそう言うと隣の劉子旦、胡鉄と共に洪破天の様子を窺う。孫怜も洪破人の事は良く知っており樊樂らと同様の好奇心を持っている。馬少風と傅紫蘭も洪破天によく似た名が出てきたので何の話かと洪破天の方を見た。
「ほう」
洪破天の反応はそれだけだった。表情も普段と変わっておらず、ごく普通に樊樂を見返している。
「いや、もしかして何か繋がりがあったりするのかと……」
「儂はずっと一人じゃ。儂の家族は殷汪、傅千尽、それからこの傅家の者達だけでな。……この少風らもそうじゃな」
「いや、まあふとそう思っただけで……申し訳ない」
樊樂はそう言って頭を掻く。
「でも、ちょっと似てるかも」
胡鉄が劉子旦に身を寄せて呟いたが、皆に聞こえている。
「この広い江湖には全く同じ名前だっていくらでもあるじゃないか。ハハ……」
劉子旦は慌てて、似た名前で顔も多少似ているからといって興味本位でしかも不躾に洪破天に聞くのは良くないと思い、笑って誤魔化してこの話を終わらせようとする。
洪破天はその様子をまじまじと見つめてから、
「そんなに似ておるのかな? ならば……会ってみたいものじゃのう」
そう言って微かな笑みを浮かべ、そして手にしていた酒杯をさすりながらそれをぼんやりと眺めた。




