第十章 二十二
洪破天は一度、傅紫蘭の部屋へと戻るが、予想通り中はもぬけの殻だった。昨夜運び込んだ寝台は無くなっており、恐らく誰かを呼んで片付けさせたのだろう。
(全く……じっとしておらんのう)
洪破天は独り言ちたが、傅紫蘭はいつも通りであり心配する必要は無さそうである。
屋敷を出ようと正門に向かうと、門の処に客であろうか旅装束の男数人に、傅千尽と屋敷の下男、そして傅紫蘭の姿が見えた。
(ハ、紫蘭の奴、千尽に見つかりおったか)
洪破天はにやつきながら門へと近付いていく。すると傅千尽と下男は客の横を通り過ぎて門を出て行ってしまった。
(ふむ、千尽の客では無かったか?)
「あっ、お爺ちゃん」
傅紫蘭が歩いてくる洪破天に気付いて駆け寄る。
「どうした?」
「あの人達、お馬さんに用があるみたい。ずっと遠くから来たんだって」
傅紫蘭は不躾に堂々と客人を指差している。
「少風に?」
洪破天は眉を顰めた。先頭の男がこちらに向かって恭しく礼をする。
(少風の知り合いのう……)
本来何でも無い事なのだが、過去、馬少風を訪ねて来たという人間を見た事も聞いた事も無いのに加えて馬少風が意味深長な紙切れを腹に持った死体を発見したばかりなのもあって、洪破天の目には僅かながら警戒の色が宿る。
(六人……皆、少風の知り合いとでも言うつもりかのう?)
「お爺ちゃん?」
「ああ、少風は何処じゃ?」
「お父様はお店だろうって言ってたけど」
「そうか……」
洪破天は男達の方をじっと見据えながら歩み寄った。先頭の男は背筋を伸ばして抱拳し、再び洪破天に向かい礼を施す。
「私、呂州の孫怜と申します。こちらにお世話になっている馬少風とは昔馴染みでして、彼が呂州に居た頃、親しくしておりました。所用がありこの東淵まで参りましたので訪ねた次第にございます」
「ほう、呂州とな。後ろの方々も、同じかの?」
洪破天は後ろの男達にも目を遣りつつ応じる。馬少風の昔の知り合いにしては明らかに若すぎる男が二人居る様だ。
「この者達は私の仕事仲間。この者も――馬少風とは面識がございます」
孫怜は後ろに居る大きな体躯と褐色の肌を持つ男を指し示す。
「それがしは樊樂と申す」
「……南方より参られたか?」
洪破天はその肌を見遣りながら訊ねた。樊樂と名乗った男とその両脇に居た二人は着ている服は普通だがかなり日に焼けた肌をしており、この辺りでは殆ど見る事の無い風体であった。呂州ではこれほど日に焼ける事は無い筈である。
「……ハハ、いや、方々で商いをしておりましてな。南に長く滞在していたのでこんなに日に焼けてしまいました」
樊樂はそう言って笑顔を作るがそれにしてもいかつい顔つきである。それを洪破天はじっと見つめたままだ。
「ねぇ、お爺ちゃんも一緒に行きましょ」
傅紫蘭が袖を引っ張った。
(本当にただの知り合いなら良い。しかし違えば……? 少風にしか確かめられんな。先に知らせておくか)
「ん、ああそうじゃな。……少風は別の処に居るようじゃ。付いて来られよ。紫蘭、お前は先に行って知らせて来るが良い。呂州の……」
「孫でございます」
「ああ、孫どのが訪ねて参られたとな」
「どうして? 一緒に行ったって変わらないじゃない」
傅紫蘭は口を尖らせる。
「店に居らなんだら手間ではないか。先に行って居るかどうか確かめてくれ。居ればそのままお前も向こうに居れば良い。居なければ戻って知らせてくれ」
洪破天は小声で、しかし何かを隠すそぶりには見えない様に気を使いながら傅紫蘭に話す。
「……分かったわ」
傅紫蘭は洪破天の肩越しにちらっと樊樂の方を窺う。すると丁度、樊樂の大きな眼もこちらを向いており傅紫蘭は慌てて洪破天の体を盾にするように身を引っ込めた。
「じっ、じゃあ、行くわ」
「ああ、頼む」
傅紫蘭が駆け出して行くのを見てから洪破天は振り返る。
「では参ろう」
「お願い致します」
洪破天は少し遅めに歩いて行こうかとも考えたが、孫怜をさりげなく観察しつつ、止めた方が良さそうだと判断した。
(ふむ、……呂州か。少風の知り合いなら殷も知っておるやも知れんな。それにしてもこの男、商いがどうとか言うが、一体何の商いじゃ? やたら気が満ちておるな。僅かな所作がまで明らかに違う……。ただの商売人ではあるまい)
こちらが何らかの警戒の色を見せればすぐに気付くに違いないと判断した洪破天はごく普通に振舞いつつ、紅門飯店へと向かった。
洪破天は孫怜らを連れて大通りへ出る。陽が昇るにつれて徐々に人が増え始めている。
「ほれ、この先に朱の楼閣がせり出しておるじゃろう? あそこに居る筈じゃ」
「おお、あれが紅門飯店ですか」
「おおすげえ。これはまたでかいな。派手だし」
「樊さん! ……余計な事言わないで下さいよ」
孫怜、樊樂らは洪破天の指差した方を眺め、感嘆の声を上げている。すると洪破天がつと足を止めて振り返る。
「それほどかのう?」
「ハ……」
「他にもあんな楼閣はいくらでもあろう?」
洪破天はにこりともせず真顔で訊く。樊樂らはへつらいのつもりで言った訳でも無いのだが、返答に窮してしまう。
「いや、東淵の紅門飯店と言えば有名ですから、是非とも見ておきたかったもので」
樊樂の後ろに居た男が愛想笑いを浮かべつつ答える。
「ふむ。じゃが勝手に期待されて勝手に落胆されても困るからのう。普通の料理屋じゃ」
「ハハ……」
洪破天はまた歩き出す。
(俺達何かおかしな事言ったか?)
樊樂と孫怜は顔を見合わせて洪破天の僅かだが妙なそぶりを訝しみつつ後に続く。少し進むと紅門飯店の前で傅紫蘭がこちらに向かって腕を振っているのが見えてくる。その隣には馬少風が立っていた。