第十章 二十
「天佑……」
馬少風が呟く。昨夜、『天棲蛇』というこの名が頭に浮かんだ時、真っ先に思い出したのが夏天佑の姿であった。殷汪と名乗り、北辰七星の劉毅と対峙したあの夜。
『穆ご先輩の天棲蛇――』
劉毅に天棲蛇という名だけをを告げ、そして死んだ。
(あの時、天佑は劉毅に、殷さんには敵う筈が無いから追うなと言った。『天棲蛇』は……そうだ……穆ご先輩の天棲蛇剣が失われて、もう殷さんには敵う相手は存在しない。当然、劉毅では殷さんの相手にはならないと、劉毅に言いたかったのだ――)
「少風、どうした?」
洪破天の声で馬少風は我に返った。
「北辰の劉毅が天棲蛇という言葉は知っている筈だ。まだ覚えているなら」
「劉毅じゃと? 何故知っている?」
方崖から逃げてきた夏天佑を連れて、緑恒千河幇の朱不尽らと共に南へ向かった時の事は当然、洪破天にも伝わっていたが、夏天佑と劉毅の会話など細かい事を話した事は無かった。馬少風は夏天佑が『天棲蛇』の名を劉毅に向かって喋った事を洪破天に教えた。
「ただ、死ぬ直前に『穆ご先輩の天棲蛇』という言葉を口にしただけで殆ど会話にもなっていなかったから、劉毅には何の事か分からなかったと思う」
「ふむ。穆ご先輩、か。劉毅は穆どのの事など知らぬじゃろうな。しかし『天棲蛇』と続けば色々と想像は出来るか……」
二人は暫く沈黙し、それぞれ思いを巡らしていた。
「洪さん、ちょっと超謙の処へ行かなければならん」
馬少風が不意に思い出したように言う。
「ん? ああ……」
「それは洪さんが持っていてくれ」
洪破天が頷くと馬少風は再び戻って行った。超謙ら用心棒達はもう起きているのだろう。こんな朝早くから何の仕事があるのかは知らない。
洪破天は手に持っていた紙を懐に仕舞い、傅紫蘭の部屋へと戻った。傅紫蘭が目覚めた時に誰も居なければ寂しがる様な気がして、起きるまで部屋に居る事にする。日が昇っても起きなければ起こせば良いとも思ったが、
(まぁ、好きなだけ寝かせてやっても良いか)
と、傅紫蘭の寝顔を眺めて考え直した。
天棲蛇――この名は全くと言って良いほど知られてはいない。洪破天は殷汪と馬少風以外の者が口にするのを見た事が無い。傅千尽は殷汪が話すのを洪破天と共に聞いていた筈だが、武術に関する事には深く興味がある訳ではなく、今も覚えているかは分からない。殷汪、傅千尽と共に江湖をさすらった際には各地の武芸、門派について知り、渡世を送る武芸者達とも交流があったが、やはり剣技なり諸般の武芸の中に天棲蛇なる名は聞かれなかった。
『天棲蛇というのは親父どのが面白がって付けただけで、正式な名称なんかじゃない』
殷汪はそう語っていた。洪破天はまた寝台に横になり目を閉じ、殷汪と話した時の事を思い浮かべた。
『天の蛇、という話は今でも東涼周辺では聞く事が出来る』
殷汪は天棲蛇剣について話し始める。
『東涼……洪淑華の黄龍門じゃな?』
『東涼で聞けるというその天の蛇の話は単なる物語で、武芸とは殆ど関係が無いな。若かりし頃の洪淑華にまつわる話が伝わってる』
『知らんのう』
首を傾げる洪破天。黙って聞いているだけだった傅千尽が笑い出す。
『洪兄は本当にそういった話には全く興味が無いんだな。洪女侠とかつての兄弟子、可子慮との悲哀の恋物語。有名だぞ? その話だろう?』
傅千尽に頷いてみせる殷汪。
『有名じゃと? 知らんのう』
さらに首を捻る洪破天に殷汪は話を続けた。
『今伝わる天の蛇の話というのはそっちの話で、武芸の事は殆ど出てこない。ちなみに洪淑華の剣と黄龍門の剣は全くの別物だ。それが故に黄龍門の弟子だった洪淑華は安県を追われる羽目になったんだからな。武芸に関しては端折ってあるが悲哀の物語ってのはそのあたりの話だ』
『安県を追われたのは儂も知っておる。ならば洪淑華の武芸の方を天棲蛇と呼んでいるという事かのう?』
『まあそういう事だ。ただ、そう呼んだのは親父どのただ一人で、しかも正式に名付けた訳でもない。他に呼び名は無いから俺もそう言っているだけだ』
『洪淑華自身は自分の武芸に名を付けなんだのか?』
『伝わってないな。武芸書として記した事も無い。親父どのは洪淑華のものを更に発展させたが武林に喧伝する気は更々無かったから名を付けなかった。天棲蛇とは洪淑華と可子慮の話から持ってきたんだ』
『なるほどのう。しかし……東涼黄龍門は既に無くおぬしの養父、穆どのも亡くなられた今、その天棲蛇剣はおぬししか見た事無いのじゃろう? もうどうしようもあるまい?』
『知る者は僅かに居るんだ。親父どのの域に達する事が出来るかどうかは今のところ望みは薄いが』
『誰じゃ?』
『悪いな。名を挙げるのはまずくてな』
『……そうか。ま、別に構わん』
名を挙げられぬというのは自分も知っている様な高名な人物だろうかと考えつつも洪破天は深く追求する気は無かった。この時はまだ殷汪という人物を知ってからあまり時が経っていない。同じ咸水の村に住みながら殆ど接する事は無かったのである。傅千尽の方は咸水の頃から親しくしていたらしかった。
『おぬしが知っておるならおぬしがその天棲蛇剣を修練して穆どのの域まで高めれば良いじゃろうが?』
『……フ、俺はかつての洪淑華さ。天棲蛇の剣は俺も使える。だが俺は親父どのの天棲蛇剣を超える武芸を己の手で創る事を目指している。だが親父どのはもう居ない……。俺の望みは往年の穆汪威と対峙する事。どうやっても叶わんのだがな』
「……お爺ちゃん?」
小さな声が隣の寝台から聞こえた。傅紫蘭が目を覚ましたようである。
「天井見つめてどうしたの?」
傅紫蘭は体を起こし目を擦りながら言う。
「いや、ぼうっとしておっただけじゃ。良く眠れたか?」
「うん。あら? お馬さんは?」
「何やらもう仕事があるようじゃぞ」
「つまんないわ」
傅紫蘭は寝台から足を降ろして座る。洪破天も起き上がると腕をあげて大きく伸びをしてみせた。