第十章 十八
鐘文維が去った後、超靖と超謙が洪破天の傍に歩み寄った。
「あの鐘どのは、我らの監視役では無いのですか?」
「……監視しておるじゃろうが。いや一緒におって助かったのう。あれがあの小役人に口を利いたんじゃろう」
超靖は首を傾げたが、すぐに先ほどの死体発見の事かと納得した。馬少風は関係無いとでも言ってくれたのだろうか。何故そんな事が鐘文維に分かるのか疑問だが、とにかくすぐに解放されたのはありがたかった。
「洪さん、私はもっと、こう……北辰は敵なのではないかと考えておりました」
「敵? 敵じゃと? おかしな事を言うのう」
洪破天は眉を顰めて超靖を見返している。超靖はその様子を見て、洪破天と自分たちの北辰に対する意識がはっきりと違うという事を知った。
「傅の家も、そしてお前達も北辰の敵になどならん。向こうにとっても何にもならんわい」
「しかし……連日あの鐘どのが店にやってくるのは――」
「気にするな。お前達は今までと変わらず普通にしておれば良い」
「洪さんはそれで良いのですか? 鐘どのは主に洪さんを監視している様ですが」
「構わん」
洪破天はあっさりと言ってのける。それはよく知った者であるからだろうかと超靖は思った。
「鐘どのと長く話しておられた様ですが――」
洪破天は超靖の言葉を無視して傅紫蘭の方を向き、
「おい、紫蘭。もう目を覚ましても良かろうが?」
そう良いながら傅紫蘭の頬と首の辺りを手の甲で触れる。するとその直後、傅紫蘭は小さな呻き声を上げて顔を顰めた。
「おっ? 本当に目覚めるとはのう。紫蘭、気分はどうじゃな?」
傅紫蘭は馬少風の首の辺りに頬を付けたまま目を閉じて呻いている。ただ寝ていた訳ではないので心地良い目覚めとはいかない様である。超謙、超靖の二人がすぐに傍に寄り、傅紫蘭を囲む。
「紫蘭、洪さんはこの通り無事見つかった。すぐ屋敷に着くから、今日はもう皆休もう」
超謙が明るい声を出して笑顔を見せる。傅紫蘭は暫く黙ったままだったが、ゆっくりと手を伸ばして隣を歩いている洪破天の腕に触れた。
「……お爺ちゃん」
「ん?」
洪破天がその手を取ると、傅紫蘭はやはり黙ったままでぼんやりと洪破天を見つめている。
「何じゃ? まるで幼子の頃に戻ったみたいじゃな」
「何だか……頭が……重い」
「戻ってすぐ横になって休めば大丈夫じゃ」
「私……船に乗って――」
「全く見当違いだったな。洪さんはもっと上の湖畔で寝てたんだぞ? 全く人騒がせな。ハハッ」
超謙が笑って言う。普段なら洪破天の事をこんな風に話したりはしない。洪破天も多少寝かかってはいたものの殆どは鐘文維と話していたのだが超謙の言葉に調子を合わせた。
「フン、悪かったのう。儂はどんな場所でも寝られるんじゃ。囲いも屋根も要らんわい。まあさすがに身体がここまで枯れてくると柔い敷物くらいは欲しいがのう」
「……お爺ちゃん」
「ん?」
傅紫蘭は洪破天と繋いでいる手を小さく揺らす。
「うちに泊まっていけば? ……みんな居るから」
「んん……」
洪破天は言葉に詰まる。だが、傅紫蘭のその小さな声はとても心地良かった。
「……そうだ。私の部屋で寝たらいいわ。ねぇ、みんな私の部屋で寝たらどう? 面白そう」
「面白そうってなんだ? 寝ちまったら気が付けばもう朝なんだぞ?」
超謙が言うと傅紫蘭はゆっくりと顔を持ち上げて超謙の方を向き、また馬少風の背に頬を乗せる。
「いいじゃない。それでも。きっと、良く眠れる……」
傅紫蘭はまだ頭がぼんやりとしている様で、普段に比べるとかなりゆっくりと喋った。
「旦那様に知れたらどうなる事やら……」
超靖は少し大袈裟に肩を竦めてみせる。
「お爺ちゃんが居ればどうって事無いわ。ねぇ、そうしましょうよ。……お馬さん、あなたもよ」
馬少風は傅紫蘭が目を覚ましてからまだ一度も口を開いていない。ただ黙々と傅紫蘭を背負い歩いている。
「ねぇ、聞いてる?」
馬少風からは何の反応も無い。傅紫蘭は頭で馬少風の後頭部を軽く叩く様にゆっくり動かす。
「紫蘭?」
ようやく馬少風が声を発した。
「なぁに?」
「ん? いや……お前が俺を呼んだのかと思った」
そう言うと馬少風はまた黙ってしまう。
「おい少風、紫蘭の話を聞いてなかったのか?」
超謙が話し掛ける。が、返事は無い。
「少風、どうした?」
今度は超靖が馬少風の前に回り顔を覗く。流石にそれにはすぐに気付き、
「ん? 何だ?」
「いや、こっちが聞きたい。何か考え事でもしてたのか?」
「いや……」
馬少風の反応は鈍く、超靖は溜息をつく。
(全く……お前がそんなでどうする? 紫蘭の気分を紛らわせるのはお前の役目ではないか)
「紫蘭」
馬少風がぼそりと言う。
「ん?」
「着いた」
屋敷の門をくぐると傅紫蘭は馬少風の背中から降り、最初は少しふらついたが何とか自室まで歩いた。下男の話によると傅千尽はいつもより早めに休んだらしく、傅紫蘭が出ていた事は知られてはいなかった。