第十章 十七
「儂を探す? 何故じゃ?」
「それは……店を出られた後、家に戻っておられないので何か……」
超靖はそう言いつつ、傍に居る鐘文維の様子を肌で窺う。視界の端にある鐘文維の身体は全く動かず、気配に変化は無い。
「何処へ立ち寄ろうと儂の勝手じゃ!」
「まぁ……そうですが」
「馬少風!」
不意に背後から声が掛かる。先程この場に到着した役人で、顔の下半分を髭で覆い、既に酒が入っているのか赤ら顔で胴間声を響かせている。何処の街にも居そうな、典型的な小役人といった感じの中年の男である。
「お前、あの死体には触れておらんだろうな?」
「……ああ」
馬少風は立ち上がり役人に応じる。いつも通りの寡黙さで何も変わってはいなかった。
「お前は何故沖の船を見に行こうと思った? この暗さで、わざわざ船を漕いで行くとは随分と物好きだな。そもそも此処から見て船だとよく気が付いたものだ」
「丁度、月明かりの真下で見えた。船の様に見えただけではっきりとは分からなかった」
「普通、放っておくのではないか? お前は漁師でもないのにそこまで気になったか」
役人は明らかに不審を抱いている様子で、先程から疑いの眼差しで馬少風の表情を観察している。だが馬少風の長い顔は全く変化しない。そしてそれがいつもの馬少風である。役人も馬少風の事は知っているのでこの様子については特に変には思わないものの、とりあえず他にする事が無いので馬少風への尋問を続けるしか無い。死体の方には全く手掛かりとなるものを見つけられなかった様である。殺されたのは東淵の者では無く、それはまず間違いないであろうというのがこの場に集まっている者達全員の見解であった。
鐘文維が死体の載った船の方へと歩き出す。そこで初めて鐘文維が居る事に気付いた役人は驚いた様子で馬少風を放ってすぐに後を追った。
「鐘文維様ではありませんか! まさかこのような処にお見えになるとは――」
「見せてもらうぞ」
鐘文維が歩きながらそう告げると役人は追従の笑みを浮かべた。
「どうぞどうぞ。そりゃもう惨いもんですよ。腹を掻っ捌かれて、首は胴から離れてます。全く酷い」
役人はへらへらと愛想笑いを浮かべ、態度と言葉が全く合っていない。
北辰の縄張りと称される街にも当然の事ながら朝廷から官吏が遣わされている。ただ、実質的にその街を支配しているのは北辰教である。役人の数は少なく形だけの配置であり、果たして朝廷と太乙北辰教のどちらに仕えているのか分からないという程、派遣された役人達は北辰教に対してへりくだり、定期的に景北港方崖へ挨拶に伺う事も欠かさない。北辰七星鐘文維は方崖の幹部であり、役人などよりも遥かに偉いという事になっていた。ちなみに本拠、景北港に至っては今では朝廷の影響は皆無である。この国で最も特異な場所となっていた。
鐘文維は役人には目もくれず船の傍らに立つと腰を屈めて死体を検分し始め、船を取り巻いていた者達は邪魔にならないように身を退いて鐘文維のする事を観察する。
「何も持っておりません。あ、腰の剣以外は。これでは何も分かりませんなぁ。誰も見た事の無い奴でして――」
役人が一人で喋っている。鐘文維は黙ったまま死体の血に触れたり衣服の中を覗いたりしていた。
「殺されてからかなり時が経っているし下手人は隠す気が無い。馬少風は偶然発見しただけだな」
「はぁ……そうですな。船で殺したならその場で沈めれば良いだけですからな」
「……早々に持ち帰って検分するのだな。恐らく何も分からんだろうが」
鐘文維は屈めていた上体を起こし、馬少風らを振り返る。丁度、洪破天がこちらに向かって来るところだった。
「……知らんのう」
洪破天は船の中に置かれている首を一瞥すると呟いた。
「他所で殺され、捨てられたのでしょう」
「さも意味ありげにここまで傷つけた遺体を船に載せて流した……どうせ気の触れた奴が一人面白がっておるだけじゃろうが。見せびらかすのにこいつを知る者が一人も居らんでは話にならんではないか。フン、馬鹿な奴じゃ」
洪破天はこの死体に興味はあまり持てなかった様で、それだけ言うとまた戻って行く。
「ほれ、さっさと帰るぞ。紫蘭を早う――」
洪破天が集まっている傅家の者達に言うのと同時に、鐘文維が役人に告げる。
「何かおかしな事が分かれば報告しろ。馬……あれはあの傅紫蘭と共に居たのだな?」
「はい。そう言っておりますが……」
「おかしくは無いな。馬少風はただの発見者で、関係は無い。これが本当に此処の者で無いのかを確かめてから、後は適当にこの件も死体も早々に処理するのだ。良いな?」
「ああ、分かりました」
何度も頷く役人とその他の見物人を置いて鐘文維は傅家の者達を追った。
周りに居る者達、そして役人自身も鐘文維の命令口調に違和感を感じたりはしない。此処ではそれが普通の事なのだ。鐘文維の言葉から『何でもない事だからさっさと片付けろ』という意味合いを聞き取った役人は早速周りの男達を使って死体を運ぶ算段を始めた。
「えらくあっさり解放されたな」
超謙が後ろを振り返りながら言うと超靖も役人の方を眺め、
「さっさと行こう。これ以上面倒なのは御免だ」
「そうだな。後は屋敷に戻るまでに紫蘭が起きてくれれば良いんだがな。旦那様には知られないように……」
「すまん」
馬少風がぼそっと謝る。未だ目を覚まさない傅紫蘭を背負って歩いていた。
もっとしつこく役人の尋問を受ける事になると予想していたが何故か役人はそうはしなかった事を皆、疑問に思っていた。だがとりあえずこの場はさっさと離れてしまうに限る、と傅千尽の屋敷へと先を急いだ。
「少風、今後は紫蘭が何と言おうとこんな夜に出してはならん。良いな?」
洪破天は傅紫蘭の白い顔を見つめつつ馬少風に言う。先ほどは馬少風を怒鳴りつけたが、本当は傅紫蘭の方が駄々をこねて馬少風を連れまわしていたという事は分かっていた。今までが常にそうであるし、沖に船を見つけそれを見に行こうなどとは、いかにもこの傅紫蘭の言いそうな事である。
「洪破天どの」
追って来た鐘文維が洪破天に声を掛けた。
「ん……世話になったな」
(世話?)
超靖は洪破天の言葉を聞いて二人の様子を窺ったが、そこには何も読み取れない。
「私はこれにて。……是非またお話を」
鐘文維がそう告げると洪破天は黙って頷いてみせる。鐘文維は拱手して礼を施すと、暗い夜道を一人帰って行った。