第十章 十五
「……洪破天どの。私は殷汪どのをどうしても探したいのです」
「何を言っておる? そんな事は知って――」
「張新とは違います」
「何?」
半ば睨む様な目つきで洪破天は鐘文維を見遣る。
「捕まえるのではなく、殷汪どのに戻って頂きます。方崖へ」
鐘文維も真剣な眼差しを返す。洪破天はそれを見据えたまま立ち上がった。
「勝手にすればよかろうが。儂を巻き込むつもりか。方崖のごたごたが儂と何の関係がある?」
鐘文維は殷汪を方崖へ戻して張新を抑えるつもりで居る。張新が教主の補佐役と称して出張る事に七星は不満を持ち、長老衆も一部を除いて困惑している――これが本当なら方崖は分裂しようとしている。張新派がどれほどのものかは分からないが現時点で七星を動かせているという事から優位にあるのは間違いない。若き教主は張新の手の内にある――。とにかく、いずれ内紛となるかもしれない火種が燻っている事は確かな様だ。
東淵の傅家と洪破天は確かに殷汪と縁が深い。しかしそれ以外に北辰教と特別な関わりがあった訳では無かった。それがここへ来て方崖のいざこざに巻き込まれるなど慮外な事と言わざるを得ない。
「殷汪どのはあなた方を……放置し過ぎた」
鐘文維は声を抑え、静かに言った。
「……」
「もう少しあなたや傅千尽どのに配慮した行動を取っていれば――」
「黙れ!」
洪破天がこれ以上無いという険しい表情で鐘文維の言葉をはね除けた。
「何が分かるというのじゃ! あれの何が!」
「洪破天どの?」
鐘文維は微かに眉を顰める。
「よいか? あれはただの百姓じゃ! 咸水の貧乏人で、儂もそうじゃ! 方崖なんぞに連れて行って何をさせたかったのか知らんが、何を期待しておる? ハッ! 教主だろうが張新だろうが知った事か! 儂ら二人は余所者じゃ! 放っておいて貰おう!」
洪破天はそう言い放つと袖を翻して歩き出す。鐘文維がその言葉の意を理解する間も無い。
「洪破天どの! お許し下され!」
鐘文維はすぐに追いかけ洪破天の前に立ち塞がると頭を垂れた。
「洪破天どのの仰る通り、私は殷汪どのを理解しておりませなんだ。何分、私が長く接しておりましたのは夏という全くの別人。軽々に物を申しました事、深くお詫び致します」
突然の鐘文維のへりくだった態度を怪訝に思い、洪破天の昂った感情は急速に静まってゆく。普段の悠然と構えた七星鐘文維とは思えない物言い。今度は洪破天の方が眉を顰める番であった。
「ただ私は今一度殷汪どのに会い、話をお聞きしたいと願っておるのです。これは張新の意向とは無縁のもの。七星や九長老の総意でもありませぬ。ただ私一人の願望なのです」
「……それで、殷の居場所を教えろと? フン、知らんわ」
「いえ、そうではなくただ……洪破天どのが此処東淵を出られたのなら、私にはそれを追って此処を離れるという口実が作れます」
「口実? おぬし、追う役目はまた別の者になるとか申しておったのではないか?」
「本来ならばそうですが、そのくらいの事なら私は無視しても構わぬのです」
「ならばいっその事、全てを無視して勝手に行けば良いではないか? 劉毅も周婉漣も出ておるのじゃろうが」
「それは……」
洪破天は溜息をついて鐘文維の顔を眺める。
「そこまで勝手に動くのは気が引ける、とでもいうのか?」
「情け無い話ですが、どうも私は劉毅や周婉漣の様な思い切りに欠けておる様です」
鐘文維は目を伏せて力なく首を振る。こんな弱々しい姿を他で見せた事は一度も無い。
洪破天は殷汪との繋がりから北辰七星とは多少の面識があったが、この鐘文維の姿には驚いてしまった。
「おぬし……一体どうしたというのじゃ?」
「教主の許しを得ず方崖を離れるのは七星としてあるまじき事。しかしながら、今を逃せば今後は動けぬ様になるやも知れませぬ」
「何故じゃ? 教主に言うてくれば良いではないか。張新が探しておるのに教主は了承せんとでも?」
「張新は……我らをも警戒し始めておるようなのです。張新抜きで教主にお目通りする事は困難になってきておりまして」
「……訳が分からん。おぬしらは常に教主の傍にあるのが役目じゃろうが」
「無論、そうでなければならない。しかし張新は――」
「あー、もう良い。儂に理解出来る事ではないわ。方崖の事など知らん」
「洪破天どの……」
鐘文維の眼差しは憂いを帯び、口元はまるで悔しさを噛み締める様に結ばれている。
(これは……余程じゃのう……)
少し聞いただけでは理解出来ないほど北辰教内部が複雑に動いている事自体は、鐘文維を見れば明らかであった。この男が必要以上に気を揉む性質でないのであれば。
「方崖の事は知らんが……殷をこのまま放っておくつもりも無い。いや、違うのう」
「違う?」
「あれは昔と何一つ変わってはおらん。今も何処ぞで気ままにやっておるじゃろう。……儂も暇になってきた。昔の様に殷と居れば今よりは楽しめるじゃろうて。此処ですることも無いしのう……」
鐘文維は何も言わずにじっと洪破天を見る。洪破天はいずれ東淵を出る気でいる――そう感じた。
「しかしのう」
洪破天が大通りに向けて歩き出すと、鐘文維もすぐに付いて歩く。
「北辰が千尽とその家族を監視しておる以上、これも放ってはおけん」
「それは、形だけの事。殷汪どのがこの東淵には長らく近付いていない事は分かっております。いや、そんな事よりも殷汪どのと傅千尽どのは義兄弟であられるとか」
「別にそう決めた訳でも無いが、まあそれに近い間柄と言っても良い」
「それほど深い縁がおありなのですから、張新も手は出せない。ましてや危害を加えるような事は。張新は殷汪どのを恐れておるのです。殷汪どのがその気になれば、たった一人でも方崖の深奥まで容易く押し入って来る。そして……自分の前に立つ」
「フン、もし本当に傅家に手を出す様な事があれば、それくらいはするな。殷一人だけではないぞ。儂も共に乗り込んでやるわい。おぬしら七星が立ちはだかろうが構うものか」
洪破天は顔を鐘文維に向け、不敵の笑みを浮かべる。すると鐘文維は表情を変えずに頷いた。
「張新は『教主』ではありませぬ故、我ら七星の与り知る処ではありませぬな」