第十章 十四
「ふむ、張新か……」
洪破天はゆっくりと顔を持ち上げ傍らに立つ鐘文維を見上げた。
「儂は会った事が無いが、どんな奴じゃ?」
「それは……」
鐘文維は洪破天を見返しながらしばし考え込む。
「難しい質問です」
「難しい? 何故じゃ?」
「いや……教主を補佐し太乙北辰教を取りまとめる事に熱心であるという事は確か。元々教主の教育係の様なものだったので方崖でも比較的強い立場にあり、色々と精力的に動いておるようですな。それ以外はこれと言って特徴の無い、教主に従順である様に見える男です」
「……難しくはないのう。意外じゃな」
洪破天は鐘文維の瞳を更に覗き込む様に首を伸ばす。鐘文維は眉を持ち上げ、
「意外、とは?」
「その張新、教主に次ぐ地位にある訳ではないのか? おぬしは今、張新の命に従っておると言うが、その口振りでは心外な様じゃな」
「……心外ですな。私だけではなく七星は今の状態を快く思う者は一人も居りますまい。九長老も一部を除いて戸惑っている事は確か」
「儂が聞いても良い話かのう? 後で口を塞がれねば良いが」
洪破天は笑いながら顔を正面に戻して目をしばたかせた。鐘文維はじっとその様子を見つめている。
「洪破天どのには……話しても良い様な気がしたもので」
「ほう?」
「深い意味はありませぬ。今は……」
「思わせ振りじゃのう? 何じゃ? 儂と殷の関係からか?」
鐘文維は黙ったまま洪破天を見つめ続けている。その視線に気付いた洪破天は眉を顰めて手をひらひらと舞わせる。
「何じゃ何じゃ。儂は今酔うておるからのう。頭が回らん」
「ハハ、私も多少酔うております」
鐘文維はようやく視線を洪破天から外し、湖に移る月に向かって目を細めた。
「張新は――」
洪破天は酔っていると言いながらも話を止めようとはしなかった。腕を組み、正面を見据えている。
「殷を嫌っておったか?」
「……恐らく。しかしそれほど強い感情を抱くまでには至らなかったとは思いますが。殷汪どのが方崖に在ったのは最初の二年程」
「ハッ……皆、ばれておったのか。殷も詰めが甘かったか」
洪破天が言うのは殷汪が夏天佑という替え玉を用意して方崖を降りた事である。張新も知っていて殷汪に北辰で幅を利かせる様な意思は無いと判断し、それからは殷汪を思い煩う事は無かったと、鐘文維の言葉を解釈した。だが、鐘文維はすぐにそれを否定する。
「いえ、知ったのはつい最近の事。故に『殷汪を探せ』と言い出したのです」
「ほう? どうやって知った? 千尽の屋敷で夏天佑を匿った事に気付いたか?」
鐘文維が既にその事を知っていると考えているのか、洪破天は隠す事無くそう言って訊ねた。
「それよりも先に、劉毅が張新に話したのです。劉毅だけは、気付いていた」
「……劉毅か」
「あれはかなり前から知っていた様ですな。殷汪どのが先主に招かれて方崖へ来た時からあの者の興味は殷汪という人物のみに絞られていった……。余談ですが、今、劉毅は方崖に居りませぬ。殷汪どのを探しに出ておりますので」
「殷が『もう北辰には関わらん』と言ってもやはり捕まえるつもりか?」
「劉毅だけは北辰の事など頭に無いでしょうな。あれはただ、殷汪どのが何処に居るのか分からなくなる事だけが心配なのでしょう」
「おかしな事を……。まさか男の癖に惚れておるのかのう?」
「そうでしょうな」
鐘文維は即答する。洪破天は面喰らい、
「本当か? いや、まあそういう話は江湖にいくらでもあるのだろうが……」
「ハハ、そういった情愛とは違うものです。恐らく。ご存知かと思いますが我ら七星……いや、当時はその呼び名は無く六名でしたな。先主が殷汪どのを招いた折、腕試しと称して殷汪どのと武芸の勝負をさせました。しかも我ら六名同時に殷汪どのの相手をする様にと。果たしてどちらの腕を試すおつもりであられたのか……。結末はご存知でしょう?」
洪破天は頷く。殷汪がこの鐘文維を含む教主陶峯選りすぐりの六名を同時に相手しながら難なく下したという話は瞬く間にこの東淵周辺までも広がり、そしてそんな人物が新たに太乙北辰教に加わると聞いて大いに盛り上がっていた。
「我々は屈辱を感じたのは確かなのです。しかし、あそこまで力の差を見せ付けられれば流石に認めざるを得ず、対抗しようなどという意識はすぐに潰えました。殷汪どのも我らを圧倒したからといって見下す様な言動はしなかった……。そんな中、劉毅だけが少しばかり往生際が悪かったと、まあそういう事なのです」
「ふむ、いつか遣り返す為には居なくなって貰っては困るという事か」
「そういう事です」
「しかしまぁ、分からんでも無いか」
「それからもう一人、周婉漣も方崖を出ておりますな。こちらは張新の命のある前から。今思えば彼女も殷汪どのと夏天佑という男の違いに気付いていたのかも知れませぬ」
「七星はばらばらじゃのう? 教主を放っておいて良いのか?」
「良い訳が無い」
鐘文維は項垂れて頭を振った。
「今の状態は決して良く無い……洪破天どの」
「ん?」
「あなたとこうして話す機会が訪れたのは私にとってはこの上無き幸い」
「何の事じゃ?」
不意に変わった鐘文維の態度に、洪破天は怪訝な表情を浮かべる。鐘文維は改めて洪破天に向かい正対する。
「洪破天どのは此処にじっとしているのが嫌になってきた――と仰られましたな?」
「うん? ……まあ、そうじゃ」
「この東淵を出たとして、どちらへ?」
「そんな事は……分からん」
洪破天は厳しい表情を作り正面を睨む。そもそも出ると決めた訳ではなく、そう言ったつもりも無い。実際、そう簡単に決められる事ではない。決められない今の状況が洪破天を思い悩ませていたのである。
(媛児……)
ふと洪破天の脳裏に梁媛の姿が浮かぶ。王梨が用意したという今まで着せた事の無い様な華やかな衣装を纏い、満面の笑みを溢れさせていた。