第十章 十三
麻布の下から転がり出た死体の頭には流石に驚いてしまったがすぐに平常心を取り戻す。胴から離れた人の頭部を目にするのは初めての事では無い。
「紫蘭?」
馬少風は傅紫蘭の傍に戻ってもう一度肩を揺さぶったり頬を軽く叩いてみるが依然として反応は無く、脈が多少乱れてはいるものの呼吸は正常であるのを確かめると再び死体の船の方へ近付いた。
(急いで戻らねば。これはどうする? 放置は……不味いか)
馬少風は周辺をざっと見渡した。他に船の姿も見えず、此処は街から見える程の位置でもない。つまり誰も見ていない訳だが、恐らく明日にはこの船と死体は誰かに発見されるだろう。今、馬少風らが此処に居る事を誰も知らなくても、夜に船で出て行った者がいる事に気付く者がいないとは断言出来ない。やはり役人に届ける方が良さそうだ。
(……ほぼ毎日、漁の船が出ているのに昼間発見されていないという事は、船で流されてまだ間もないという事か?)
馬少風はふと気付き、再び周りに目を凝らした。死体を載せて湖に流した者が何処からか見ているのではないか――。そんな不安を感じる。だが、変わった様子は何も無く、微かな波の音がいつまでも漂ってくるだけで、少なくとも馬少風の視界の範囲に別の眼は存在していない様に思われた。
馬少風は持ってきた縄を手に取り、自分達の船と死体の載った船に両端を括り付ける。結び目の不恰好な、ただ引っ掛けただけと思える括り方であったがとりあえず引っ張れれば良いだけと思い、すぐに括り終えた。
それから馬少風は死体の船の方に乗り移る。転がっている頭部を無造作に両手で拾い上げ、胴の傍に戻すべく足で麻布の端を捲る。だが麻布は厚く硬いので少し捲ってもすぐに戻ってしまう。いらついた馬少風は足を麻布の奥の方まで無理やりねじ込み、乱暴に蹴り上げる様にして麻布を死体の胴から剥いだ。船は揺れているが片足で立つ馬少風は全く平気な様子でそのまま足で麻布が戻らない様に折り曲げた。
胴の部分が露になった死体は思ったよりも酷い状態であった。衣服をちゃんと身に着けているので先程櫓を使って横から覗き見た時には気付かなかったが、身体の中心に付けられた長い傷はかなり深く、もう少しで背に届いて完全に縦に割れるのではないかというほど刃物が奥まで入れられた様だ。戦いの最中にここまでなったのでは無く、恐らく死後に遺体に対して再び刃物を使ったのだろう。どういう意図があるのか不明だが、下手人はかなり悪辣な性格な様だ。
馬少風は脇の辺りに頭部を下ろしてまた転がり出る事が無い様に位置を確かめる。それから麻布を元に戻そうと腕を伸ばしたところ、ふと死体の傷に違和感を感じて手を止めた。死体の腹に顔を近づけて見てみると、本来あるべき臓物が取り除かれて代わりに丸められた毛皮の様な物が入れられている。馬少風は躊躇する事も無く死体の腹に手を入れた。
血がこびり付いた黒い毛皮だったが、血は完全に乾いている。ふと死体の全体を眺めてみるがどこの血も殆ど乾いていた。船に載せられたのはごく最近でも殺されてからはかなり経っているのかも知れない。
再び手に取った毛皮に視線を戻してゆっくりと手の上で開いてみる。中から出て来たのは皺だらけになった古い紙を巻いた物だった。少し厚手の質の悪い物で、端がぼろぼろになっていた。
(これは一体何だ?)
毛皮を死体の上に置き、紙だけを取り上げて月明かりに晒す。少し小振りの本の表紙だったのだろうか、紐で綴じる為であろう穴の跡が窺える。そして文字。しかしかなり薄くなっていた。
「秘笈……」
比較的濃く残っている題字らしき中央の一文の一番下を読む。それからその上の部分に顔を近づけた。
「天……秘笈……」
馬少風は題字を読み取ろうと持った紙の角度を変えながら目を凝らす。
「天……蛇……秘笈?」
一番上が『天』であるのは読めた。一文字分空けて『蛇』ではないかと思える文字。そして『秘笈』と続く。二文字目はどうしても読めなかった。だが馬少風は目を見開いて呆然と見つめていた。
(天……棲蛇! まさか『天棲蛇』の秘笈だというのか? 何故こんな物が此処に……いや、何故これが存在している? 誰が書いた……?)
紙を裏返す。だがそこには何も書かれていない。これが元々書物であったとしても此処にはこの表紙しか無く、内容は全く知る事が出来ない。
紙を手にしたまま死体の周辺を探る。覆っていた麻布を全て端に遣り、死体の衣服の中から体の下までくまなく調べる。だが他には何も見つからなかった。腰にある剣まで手に取って眺める。その剣もごく普通の物で何の細工も無さそうだった。
(無いか。これは……洪さんに見せてみよう)
紙を丁寧に折り畳んで懐に仕舞う。麻布を元に戻して死体を完全に覆うと傅紫蘭が寝ている方の船に戻った。
(目覚めるのは帰ってからの方が良いな。……誰かに見つかったら何と言おうか?)
誰にも見つからずに傅紫蘭を屋敷へ連れ帰るのは困難なので目を覚まして欲しいところだが、死体が近くにあるというこの状況のままでは怯えてしまうかも知れないと考えた馬少風は静かに櫓を手に取り、そっと漕ぎ始める。進みは遅い。だがどうしようもなく、馬少風は陸を目指して黙々と漕ぎ続けた。
「洪破天どの?」
大通りの中心から北に少し行った処の、とある屋敷の裏手で波が静かに打ち寄せる音を聞きながら目を閉じている老人に男が声を掛ける。男は北辰教の鐘文維、老人は超靖や馬少風らが探している洪破天である。人の心配をよそに気持ち良さそうに眠っているところであった。
「フフ、洪破天どのが見当たらないと探している者が居りますぞ」
「……うん? おぬしらでは無く……か?」
「傅千尽どのの用心棒です。我々があなたに何かするとでも思っているのでしょう。まあ無理も無い事ですが」
「のう、鐘よ」
洪破天は薄目を開けて正面の東淵湖を見遣る。
「方崖の居心地はどうじゃ? 此処でこんなつまらん役を任されるよりはましか?」
鐘文維は洪破天の傍らで立ったまま同じく湖面を見ている。紅門飯店で一緒に居た黒衣の男は今は一緒では無い様である。
「ハハ、何かありましたかな? お悩みが?」
「いやなに、少しばかりじっとしておるのが嫌になってきてな。おぬしらは退屈じゃろう? 他所へ行きたいとは思わんか?」
「……我らの存在意義は教主と共に在る事こそにあるのです。方崖に教主が居られるのなら方崖に。他に行かれれば従うまでの事」
「今、此処に居るではないか? 教主は方崖じゃろう?」
「私としては不本意ですが。殷汪どのに教主の身を脅かすつもりなど更々ありますまい。ならば我ら七星が動く仕事ではありませぬ」
「……教主の命では無いのか」
「フ、張新どのです」