第十章 十二
「……何か言ってよ」
「……人だ」
馬少風は短くそれだけ答えたが、少し間を空けて付け足す。
「洪さんじゃない」
「当たり前でしょ! 馬鹿言わないで!」
「すまん」
傅紫蘭は馬少風の背後から前へと出て来たが、まだ真横にぴたりと張り付く様にして船べりに並ぶ。
「それ、剥いで」
「その必要は無いだろう。この船を曳いて戻って役人に届けるだけだ」
傅紫蘭は馬少風を睨みつける。
「私が怖がるから? 馬鹿にしないで。こんなの何度も見てるんだから。さあ早く!」
何が出るか分からず不安だったが、人だと分かればもう別にどうという事は無い――。馬少風は傅紫蘭の言いそうな先程までの態度の説明を想像する。
(慣れる程何度もは見てないだろう?)
船の中にあったのは麻袋に覆われた人間の死体であった。馬少風が櫓を使って持ち上げた麻袋の下に見えたのは乱れた黒い髪と黒っぽい額。それだけであったが、ただ眠っているのではない事はすぐに分かった。
傅紫蘭は今までにも人の死体を見た事がある。今の江湖では毎夜何処かで数十人は殺されているなどと言われる程、治安は悪化している。程度の差はあれどそれは国中の何処も同じ様なものである。
ただ、傅紫蘭は毎晩出歩いて常に死体を発見している訳ではない。東淵は歓楽街を中心とした生きている街であって、そこかしこに放置された白骨が散らばっている様な荒涼とした土地とは違う。殺しにしろ行き倒れにしろ、それらは速やかに処理される。話を聞いて飛んでいけばたまにだが見る事は出来るが、それは本当に『たまに』であった。そして傅紫蘭を含む街の住人は大抵、『たまに』人の死体を目にしている。
馬少風は傅紫蘭を見返しながら、ふと思い出した。一年程前に傅千尽の屋敷に運び込まれた十数人にのぼる無残な死体。体中が切り刻まれ、臓物が溢れ出した見るに耐えない異様な光景。それを傅紫蘭は目にしている。どう思ったかを傅紫蘭の口から聞いた事は無かったが、かなりの衝撃を受けた事は想像に難くない。
あの時も傅紫蘭は強がって見せていた。何でもない、という振りをして。だがあの時は屋敷の人間が皆集まって周りに居た。今はこの暗い湖の上にただ二人だけだ。こんな処で死体と対面するなど、馬少風でさえ『怖い』という感情とは少し違うが動悸の高まりを覚えるのだ。
見せて良いものでは無いと分かりきっている事だが、
(無視してこのまま戻るか――)
そう考えていると傅紫蘭が口を開いた。
「どうせお役人だって大した事も掴めずに処分するだけじゃない。だったら見ても良いじゃないの。船でこんな処を漂ってるって事は殺されたのよね? 切られたのか、殴られたのか、あ、毒盛られたとかだったり。何か持ってるかも知れないし、手掛かりがあるかも」
傅紫蘭は普段からよく喋る方だが、目の前の麻袋の下を覗いてから若干饒舌さが増した様だ。
「ほら、こっち。下の方よ。他に何か載ってないかしら?」
傅紫蘭は死体の腰辺りを指差している。なるほど、何も顔を見なければいけない訳ではない。馬少風は場所を変えて麻袋の別の場所に櫓を差し込んだ。掛けられている麻布はかなり大きな袋を開いたものであり、死体の足よりも下、船の艫の方まで掛かっている。だが先程覗いた頭の方はまさしく布団を被せている様な感じで髪が完全に隠れるといった辺りまでしか覆われていなかった。
先程と同様に櫓を持ち上げる。死体はごく普通に衣服を身に着けていた。だがどうやら全身が濡れている様で黒い。暗くてはっきりしないが、血が衣服全体に染み込んでそう見えている様である。
「変だな」
馬少風が呟く。
「何? どうしたの?」
傅紫蘭は努めて平常の声を出していたがその手はしっかりと馬少風の着ている短衣の腰辺りを掴んでいた。
「剣を持ってるが腰の鞘に入れてある」
「おかしく無いわ」
「殺されたのにか?」
馬少風が傅紫蘭に顔を向ける。直後、互いの鼻先がかする程接近しているのに気付き、馬少風の方が思わず仰け反るように避けた。普段ならその様子を見て傅紫蘭が笑うところだが、傅紫蘭は急に遠ざかった馬少風の馬面をじっと見つめている。少し間をおいて「あっ」と小さく声を出す。
「そうよね。剣を持ってるならそれを使って抵抗するに決まってるし、剣を戻したのは殺した奴にしか出来ないわ。そいつは剣を腰に戻してやってわざわざ船に載せて流した……。何故かしら? 隠すどころかすぐに誰かに見つかるわ」
「俺達が見つけた訳だが、見つけさせる為――か」
傅紫蘭は馬少風の腕を取ってしがみ付く。
「……私達に?」
「いや、違う。多分」
馬少風は櫓を掴んだまま死体の載る船を見つめている。
「このまま俺達は役人に届けに行く。死体が船で流れて来たという話はすぐに広がるだろう。どういう死体だったかも噂にのぼる。それを聞く奴の中に居るんじゃないか? この者を殺した人物が、『殺した事』を知らせたい者が……。見せ付ける為、か?」
「ややこしいけど、解ったわ」
「想像だ」
「続けましょ」
馬少風が再び櫓を動かし傅紫蘭はその先端を注視して検分を再開する。馬少風は当初、傅紫蘭にあまり見せまいとして櫓を僅かずつしか動かさなかったが、死体は特に惨い状態では無いらしいのと明かりが無い事もあって徐々に麻布を大きく持ち上げるようになる。そうして中に月明かりを導いた。
「身体の正面を派手に切られてる」
「見えないわ」
「腹の処から衣服が避けている。ずっと上まで――」
馬少風は櫓で死体を撫でる様に頭の方へ向かって動かしていく。
「本当ね……胸の辺り、凄い血が溜まって――」
どん! と不意に船底を槌か何かで叩いた様な音が鳴る。傅紫蘭は不意に鳴ったその音に思わず身体を仰け反らせた。声は無い。そのまま仰向けになって倒れそうなところを馬少風が咄嗟に肩を抱き止めた。
「紫蘭!」
傅紫蘭は目を閉じている。馬少風が身体を揺するが全く反応が無く、完全に気を失ってしまっていた。馬少風も音は聞いた。何の音だったのかと周辺を見回すが、自分達の乗ってきた船には櫓と縄しか積んでおらず、櫓は今も馬少風の手にあるのだ。音を出す様な物は何も無い。死体の載った方の船をもう一度見る。死体は相変わらず麻布が覆ったままである。ふと舳先を見ると、何やら黒く丸い物が転がっているのが見えた。
(あれが転がったのか? この人物の持ち物だったのだろうか?)
馬少風は傅紫蘭をそっと船底に寝かせ、その転がった物の方へ身体を寄せて目を凝らす。直後、先程の傅紫蘭程ではなかったが馬少風も不意に身体を強張らせて固まってしまった。
転がっている黒いそれはまさしくこの人物の持ち物であり、先程までは正しい位置にあった筈の、人間の頭部であった。