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流浪一天  作者: Lotus
第十章
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第十章 十

 その後は黙々と歩き続けて、整然と並べられている小船の処まで辿り着く。途中、周囲に注意を払っていたのは馬少風だけで、傅紫蘭は相変わらず小声で歌を口ずさみながら歩いていた。

 大通りの賑やかさは全く伝わって来ず、ただ明かりが見えているだけ。此処には人の気配は全く無く静寂に包まれている。今夜は風も無い。

「誰も居ない」

 馬少風が建ち並ぶ納屋の周辺であちらこちらに目を凝らしながら独り言の様に言う。

「そうね」

 傅紫蘭の方はといえば並んだ小船を眺めながらぶらぶらと歩き回るといった感じでただの散歩、人を探しているという様子は全く無い。

「やはり洪さんがこんな所に来るとは考えられん。紫蘭、戻ろう」

 全く洪破天とは無縁の場所と思えるこの船着場におかしな所は無く、それも当然だと思う。洪破天はきっと街の方に居ると最初から考えていた馬少風は立ち止まり、先に居る傅紫蘭を見た。さらに先はずっと湖に面した林が続くだけである。ここまで来ればとりあえず傅紫蘭の気は済んだ筈で、飽きてすぐに戻る気になるだろうと、引き返してくるのを待った。

「夜の湖ってなんだか怖いよね」

 傅紫蘭は遠くの湖面に目を遣って言う。

「そうか」

「この先の水の下って真っ暗なのよ? ずーっと下まで。底も見えないし、何か居るかも」

 馬少風は僅かに首を傾げる。

「『何か』?」

「そう」

 傅紫蘭は湖を眺めたまま、また何かを歌っている様だ。馬少風は待つのを止めて傅紫蘭の傍まで歩み寄る。

「お馬さん」

「ん?」

「お馬さんはもしかしてこの水の上も走れたりする?」

「まさか。沈む」

「……そうよね」

 傅紫蘭の小さな声。普段の明るい声とはうって変わって落ち着いたというよりは沈んでいる様な声音。馬少風はそれを特に意外に思ったりはしない。普段の傅紫蘭を知る者なら「何かあったのか」と慌てるのかも知れない。そんな傅紫蘭の佇まいであったが、こんな傅紫蘭も居る事を馬少風は昔から良く知っていた。

 

 

  何度この身であがいても

 

  淵の底へと沈んでゆく

 

  わたしは水を掴めない

 

  黒い底へと落ちるだけ

 

  そしたらまた這う日々となる

 

  底が確かにあるのなら

 

 

 その後、沈黙が続く。馬少風も傅紫蘭と並んで湖面に見える月明かりを眺めた。暫くしても傅紫蘭が何も言わないので、馬少風はそっと、まだ幼さの残る丸みを帯びた白い頬に目を遣った。

「悲しい歌だな」

 傅紫蘭はようやく湖面から視線を動かした。

「知ってるの?」

「いや、今初めて聞いた」

「……これはうんと長いの。歌なんだけど……物語かな? だから、悲しい時もあるのよ」

 微かに笑うが、どこか物悲しい雰囲気が表情に残っている。

「どこで聞いたんだ?」

「お母様が舞うのを見た事があるわ。もうずっと忘れかけてたけど、最近また思い出したの」

 視線は白い月へと向かう。

「媛に教えてた」

 傅紫蘭は呟く。

「媛? ……そうか」

 馬少風は湖面の方に延びている月光の帯を眺めて納得したように頷く。そしてまた傅紫蘭を見る。

「底で『何か』に出会うのか?」

「え?」

「その歌、底に何か居るのか?」

「底?」

「さっき紫蘭が言っただろう? この水の下に何か居るかもしれない――。その歌の淵には何か居るのか? その沈んでいく奴はどうなる? 底は、あるのか? 水の底で這うとは?」

 傅紫蘭は月から馬少風に視線を移し、その目を驚いたように見開く。

「まさかお馬さんが歌に興味を持つなんて! どうかしちゃったの?」

 笑っている。いつもの傅紫蘭らしい、満面の笑み。

「しかも一度にそんなに訊くなんて! もう疲れたんじゃない?」

「そんなに長く喋ってないだろう」

「ハハッ! ほんと、可笑しいわ」

「そんなに変だったか……」

 ひとしきり笑ってからようやく気持ちを落ち着けた傅紫蘭は微笑みながら馬少風の長い馬面をじっと見つめる。

「この歌の淵っていうのは、実際にある淵じゃないわ。水も無い。でも、そこに沈んでいく様な心境だったって事。沈んでいってるのは……女性よ。彼女は底に向かって落ちていくけど――」

 傅紫蘭はそこで口を噤む。

「どうした?」

「……説明するの面倒だわ。暇があったら媛が歌うのを聞けば? きっと……すぐ覚えるから」

「そうか」

 馬少風は短く応え、それからまた二人揃って湖面に浮かぶ金色の橋を眺めた。

 

 

  わたしは闇に包まれているのに

 

  あなただけが輝いている

 

  月の光は届かないのに

 

  あなただけが煌いている

 

 

 先程の歌の続きの部分ではなかったが、傅紫蘭は馬少風に聞かせる様に小さく歌う。だがそれはすぐに止んだ。

「あれ、何かしら?」

「何だ?」

「ほらこのずっと先に何か……」

 傅紫蘭は湖に移った月明かりから少しはずれた暗い部分を指差す。馬少風は傅紫蘭の白く細い指に顔を寄せる様に身を屈めて、その指の向いた辺りに目を凝らした。

「何処だ?」

「ほら! ずっと先よ! あの明るい処の少し右手に黒いのがあるでしょ」

「んー? ああ……あれは……小船が浮かんでいる?」

 


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