第十章 九
木々の隙間を仰ぎ見て
あなたのようだと今夜も想う
天上に燦然と輝く月は
あなたを包む黄金の鱗のよう
わたしはまた地を這いながら
不安に怯えて身をよじる
あなたが天上へと駆け上がるその時に
わたしが今のままである事を
大地を蹴る足は無く
雲を掴む腕も無い事を
少しかすれた微かな歌声が月明かりの下を漂う。傅千尽の屋敷の中ほど、庭を囲んだ回廊に傅紫蘭が一人佇み、肩を小さく揺らしていた。時折月を見上げては息を呑み、それからまた視線を地上に戻し肩を揺らして口ずさむ。
絶望の深い淵にわたしが沈むと
あなたは底に伏していた
わたしは闇に包まれているのに
あなただけが輝いている
月の光は届かないのに
あなただけが煌いている
あなたの足元で揺らぐ穢れた泥でさえ
黄金の鱗に照らされ光を帯びるというのに
わたしの醜い鱗は嫌らしくぬめり
わたしは総身に黒を纏う
ふと遠くの声に耳を傾ける。耳を澄ますと屋敷の正門の方から呼び声が聞こえた。
「少風、来い!」
それを聞くと同時に傅紫蘭は回廊から庭へと駆け下り、建物の角に身を寄せて正門を窺う。門の前に居るのは屋敷の用心棒頭、超謙であった。
「少風、旦那様は?」
超謙は馬少風に話し掛けている様だがその馬少風の姿はまだ見えない。傅紫蘭は首を伸ばして前を窺い、すぐに頭を引っ込める。馬少風は超謙の居る正門に向かって歩いていた。
「呼んでくるのか?」
「違う。少風、洪さんが何処に居るか探して来い」
「店か家だろう?」
「それが居ないから探しに行けと言ってるんだ。今、靖も探してる。俺も後から行くからな。見つかればそれでいい。連れて来なくても良いからな。無事なら良いわけだ」
暫く間が空く。
「いいから行くんだ」
馬少風の返事は聞こえない。だが超謙は建物の方へと歩き出し、馬少風は門を出て行こうとしている。
傅紫蘭は超謙が建物に入るのを見届けると僅かに腰を屈めて正門へと駆け出した。
正門を出ると明かりは無い。だが月明かりで充分だった。門から真っ直ぐ伸びている道の先に上背があり長い腕を揺らす人影が見えている。見間違えようも無い馬少風の後姿である。傅紫蘭は早足で、しかし慎重に足音を消しつつその背中を追う。だが次の一呼吸ほどで、「あっ」と傅紫蘭は声を上げた。まだ幾らも近付いていないというのに馬少風が振り返ってじっと傅紫蘭を見つめていた。傅紫蘭はその場で立ち止まり腰に手を当てて首を傾ける。
「お馬さん。こう……もっと遊んでやろうとかそういう気にはならないわけ?」
馬少風は傅紫蘭の傍まで戻って来ると、
「今は遊べない」
特徴的な馬面を殆ど動かさずにぼそっと答えてから、月明かりを受けて白く浮かび上がっている傅紫蘭の顔を見下ろしている。
「まぁいいわ。ねぇ、お爺ちゃんがどうかしたの?」
「居ないらしい」
「……何処かで寝てるんじゃない? 酔っぱらって」
「かもしれない」
「じゃ、探しに行きましょ」
「紫蘭、今は――」
「お爺ちゃん探すのは遊びじゃないでしょ。ほら、行くわよ」
「何かあったら怒られる」
「私はお爺ちゃんが心配なの。私が探すからお馬さんは護衛ね。さ、来なさい」
傅紫蘭は洪破天の孫同然であり心配するというのは当然であるが、今この場でそう思っているかどうかは疑わしい。鼻歌交じりに大手を振って先を行く傅紫蘭に、馬少風は黙って付いて行く。これが、普段よく見かける二人の光景である。
「紫蘭、店に行ってみよう」
馬少風が声を掛けると傅紫蘭は勢い良く振り返り、ばたばたと袖を振る。
「絶対駄目。叔母様に見つかったら帰れって言われるに決まってるもの。そしてお馬さん、あなたも怒られるんだから」
馬少風はしばし傅紫蘭を見つめてから、
「そうだな。止めておこう」
そう言って長い顔を上下に揺すった。
大通りまで出て来た二人はそのまま東淵湖の畔へと向かう。大通りにはまだ人も多いので洪破天を知る者も多いこの場所で一人危険な目に会う事は考えにくく、人気の少ない場所を先に当たる方が良いと考える。大通りを横断して少し先へ行けばすぐそこが湖畔である。
「あっち」
傅紫蘭は南の方角を指差す。そちらには漁に使う小さな船が何艘も繋いであり、その周辺は漁具を置く納屋などが幾つも建ち並ぶ場所だった。
早速、傅紫蘭は月明かりだけを頼りに、だが全く不安がる様子も無く歩いてゆく。
「紫蘭、先に行くな。横に居ろ」
夜には殆ど人の来ない暗がりで傅紫蘭を好き勝手に歩かせるのは流石に不味いと感じた馬少風は早足で傅紫蘭の真横に駆け寄る。
「お爺ちゃんがこんな処に用がある筈無いわね……。でも事件って大抵そういうものでしょ? 慎重に探さなきゃ」
傅紫蘭は真面目な顔をして正面を見据えながら歩いている。馬少風は低く落ち着いた声で話し掛ける。
「心配するな。洪さんは大丈夫だ」
「お爺ちゃんが大丈夫なのは当たり前じゃないの。もし酔った勢いで誰かと喧嘩でもしてたらどうするのよ。相手が無事で居られないわ!」
引き続き真顔でそう言って歩を早める。馬少風はほんの少し歩幅を広げて傅紫蘭の真横にぴたりと付いて歩いた。