第十章 八
長居する必要は無い。中に人の気配は無く、洪破天は帰ってはいないのだ。そう考えて超靖は紅門飯店へと向かう。
大通りに近付けばまだ多くの人々が出歩いており、また一気に別な世界へと舞い戻った様な気分になる。先程までは暗がりの中である程度は好きなように物思いに耽る事も出来たが、此処まで戻ればそういう訳にはいかず、周囲の人間に注意を払わねばならない。外にあって完全に安心出来る場所など何処にも無い。だがそれを常に意識するでもなく、視線が自然にその様に動くようになっている。これは用心棒稼業の超靖に限った事ではなく、通りを行く者全てがそうであろう。人が集まる場所とはそういうものだ。
紅門飯店に辿り着き店の中に入った超靖は、誰も居ない入り口近くの席を何となく眺めた。
(今日は終わりか。よく毎日飲めるものだ)
北辰の男達はもう引き揚げている。北へ少し行った処の宿にあの者達は居るらしい。また明日の午後には此処に戻ってくるのだろう。いつもの事である。毎日酒を飲んでいるのは洪破天も同じである事を超靖も知っているが、それは今、頭には無い。
視界の端に、傅英がこちらにやって来るのが見えていた。
「どうなったの?」
「どうやら今夜から奥様の処らしい。だが……奥様は洪さんが迎えに来るのを待っていたみたいだった。今夜からとは思っていなかったんだろう」
超靖がそう告げると、傅英は顔を顰めて額をさすった。
「兄さんと喧嘩してから本当に疎遠になってしまってるから。こんな重要な事もちゃんと伝えてないなんて、兄さんもどうかしてるわ。意地っ張りだから嫂さんの処には全く近寄らないし」
「喧嘩してるのに、媛は奥様の処に遣るんだな」
「自分の処に置いててもあの子の面倒を見られないからね。紫蘭が二人になっても困るじゃないの」
傅英が不意にそんな冗談を言ったので超靖は笑ってしまう。
「ハハ、それは困るな。しかしまぁ、媛はもう少し大人しいだろう」
「分からないわよ。どうなるか」
そこで何となく会話が途切れたので二人は店の広間を見渡した。一時の騒がしさは治まっていたがそれでもまだ客は多い。今日は二階にも客が結構来ている様だった。
「洪さんは? もう休んだかな?」
超靖が訊ねると傅英は首を振る。
「帰ったわ」
「帰った?」
超靖は怪訝な表情を浮かべて即座に聞き返してきたので傅英は少し大きく目を見開いて、
「ええ。泊まるように言ったんだけど聞かなくて。あ、それからあの北辰教のお二人様、洪さんと何か話してたわよ? こう……知り合いみたいに」
「知り合い? ……そうか。そうかも知れないな」
「どうしてそう思うの?」
「ん……洪さんは顔が広い」
「まぁそうでしょうね。でも……」
「あの北辰の青い衫を纏った男、あれは方崖の鐘」
傅英は意味が分からないという様に黙ったまま超靖を見続ける。
「あれは鐘文維だ。知らなかったのか? 北辰教七星の一人」
傅英はやはり黙ったままである。だが意味は飲み込めた様で、目には驚きの色が表れていた。この紅門飯店の客達は最近良く見かけるあの北辰の二人の話をよくしている様だったが、傅英はあまり聞いてはいない。とりあえずただの客ではないとは思っていたので他の客が彼らの話で盛り上がるのを止めさせる方だった。だがまさかそのような人物が遣わされているなどとは思いも寄らない事である。方崖の人間がわざわざ監視役に来るということは、考えていたよりも傅家は危うい状況にあるのではないかという不安がよぎった。
「でもどうして……そんな人が?」
「やはり、殷さんの消息はそれだけ重要な事と考えているのだろうな。それに張る相手はうちと洪さんだ。洪さんの事は向こうも知っているだろうからいい加減な人選はしない。あの鐘文維なら洪さんの相手が出来るという訳だ」
「ねぇ。北辰は殷さんが生きていると思える何かを手に入れたのかしら? 証拠というか――急に態度を変えて探し始めるなんて、そうでないならきっとうちなんて放っておく筈よね?」
「分からない。洪さんは何を話していたんだろう?」
「さぁ? そんなに長くは無かったけど、ただの挨拶って程短くも無かったわ」
「とにかくだ。洪さんを探してくる」
超靖がそう言ってすぐに店を出て行こうとするので、傅英は少しばかり驚いて後を追う。
「探す? 何かあったの?」
「俺は今、洪さんの家に寄ってから此処へ来たんだ。途中、会ってない」
超靖は足を止めて振り返って言った。
「洪さんも何処かへ寄ってるのかも」
「どちらにしろ洪さんは随分酔っていた。何処へ行ったのか確認だけでもした方が良い。北辰が帰ったのはいつ頃だ?」
「ほんの少し前だわ。洪さんが出てからも暫く居たから、追うつもりは無いんだって思ったんだけれど」
超靖は頷き、また歩き出す。
「兄さんに伝えた方が良いかしら? あなた一人で何かあったら――」
普段なら洪破天一人探すくらいどうという事も無いが、今は北辰の存在も気になる。そしてそれが北辰七星となれば尚更不安が募るというものだ。傅英は傅千尽に伝えて洪破天を探す人手を増やしてもらおうかと考えていた。
「そうだな……。旦那様に伝える必要はまだ無いかもしれない。兄貴に言って数人来て貰えれば充分だと思う」
「分かった。屋敷に人を遣るわ」
「頼む。俺はとりあえずもう一度、洪さんの家に向かってみる」
超靖はそう言い残し、大通りの雑踏にまぎれていった。
規則正しく寄せる波が闇に僅かな音を染み渡らせる。街が賑やかであろうと、人々の寝静まった深夜であろうともそれは変わらない。月が湖面に敷いた光の帯は街から真っ直ぐ東の水平線まで伸びており、光の橋の様に見えて風情があった。
渡るには長すぎる。たまに雲が月の前を通り過ぎて下に掛かった橋を寸断させるのだ。ほんの僅かな間でもその途切れた場所では足場が消えて、異界の口のような底の知れない漆黒の水が獲物が落ちてくるのを待ち構える。
そんな危うい場所に、かろうじて飲み込まれずに済んでいる一艘の小船が浮かんでいた。岸からは遠く、その存在にはまだ誰も気付いていない。幻の光の橋と死の縁。その間を彷徨い続けていた。