第十章 七
大通りから西に入った、明かりの殆ど無い小道。超靖はやや小走りになりながら先を急いでいた。街の中心とはうって変わって聞こえるのは虫の鳴き声と小さな水の音ばかり。人とすれ違う事は殆ど無かった。
暫く進んで超靖はようやく一軒の屋敷の前に辿り着く。王梨の住まう傅家の旧宅である。古く、そして周辺の民家とさして変わらぬ大きさで、街の者は当然知っているが他所の者なら此処が傅家の屋敷であったとは思うまい。
超靖はまだ開け放たれていた門に足を踏み入れた。すると直後、「わっ!」と、男の驚いた声が聞こえ、超靖も思わず身構えた。
「あ、ああ、超靖さんですか。あーびっくりした」
中の暗がりから姿を見せたのは此処の使用人で、超靖も良く知っている若い男であった。
「ハハ、こっちが驚いたわ。どうした?」
「いえ、門を閉めに。超靖さんは? 何か忘れ物でも?」
「あー、媛はまだ此処に?」
「ええ、居ますよ。洪さんがまだ来てないので」
「洪さんは来ない」
「え?」
「奥様も居られるな?」
「はい」
「分かった」
超靖は軽く手を上げて屋敷の中へと歩き出し、若い男はほんの暫くその背を黙って見送ってから門を閉めに向かった。少ししてから門の軋む音が辺りに響いた。
「お迎えは無しの様ね」
まるで待っていたかの如く、王梨は入り口に立っていた。超靖の心の中を読み当てて得意げな小娘の様に笑みを浮かべていたが、すぐに痩せた体を柱にもたせ掛けて腕を組み、溜息をつく。
名妓として鳴らした王梨もすでにいい歳であり元々細かったのもあって今ではやつれた様にも見えてしまう。実際、傅千尽と別居し始めてから疲れの様なものが表情に一層出てくるようになった。そう簡単に一人のんびりと暮らすという訳にはいかない様だ。
王梨は再びゆっくりと超靖に顔を向ける。
「洪さんはどうしたの?」
「紅門に居られました。媛はこちらで暮らす事になったと言っておられましたが、ご存知ですか?」
「……そう」
王梨は黙って宙を眺めながら呟いた。
(知っておられたのか……)
超靖は王梨を見つめ、言葉を待った。
「……洪さんも大袈裟ね。他所の街に行く訳じゃあるまいし、すぐ近くなのにね」
「奥様。媛は今夜から此処に? 支度がまだでしたら私が旦那様の処へ――」
「いいえ、結構よ。あの人の処に遣る必要は無いの。全くね。ありがとう、もういいわ」
王梨はもたれていた柱から体を起こし、超靖に体を向ける。
「もう戻って休んで頂戴。あと、此処に毎日来る必要は無いわ。他に何も仕事が無い訳ではないのでしょう?」
「いや、旦那様から此処に居るようにと……」
「何故かしら?」
王梨がじっと見つめてくるので超靖は何故か焦ってしまう。
「それは……やはり奥様や媛に何かあっては……」
「……フ、そうね。私はともかく、媛は大事な娘。洪さんから……取り上げておいて何かあったら大変」
「……取り上げた?」
超靖には意外な言葉だった。洪破天から梁媛を取り上げたなど想像し難い。洪破天と傅千尽や王梨は昔から本当の家族の様であり、喧嘩したという話も一切聞いたことが無い。洪破天があれほど荒っぽい性格なのにも関わらず、である。そしてその洪破天がとにかく大事にしている梁媛を取り上げるなどという事が可能だろうか? 洪破天は怒り狂うのではないか? ならば先程の洪破天の様子はどういう事だろう。随分塞ぎこんでいる様には見えるので梁媛を王梨に預ける事は正直なところ『不本意』なのだろうが、それでも黙ってそうせねばならない事情でもあるのか。
「そんな感じになるじゃないの」
王梨は溜息をもう一つ。
「洪さんに、媛に顔を見せに来るよう伝えて頂戴」
「はい。……それでは」
超靖が拱手すると王梨は微笑を浮かべて頷き、そして別れた。
超靖は再び紅門飯店に向かう。少し前までは紅門飯店に寝泊りしていた訳だが今は傅千尽の屋敷に移っており帰るならそちらなのだが、戻って寝るにはまだ早い。洪破天に王梨の言葉を伝えておこうと考えた。
(大人しくおかみさんのいう事を聞いただろうか? あの洪さんの事だ。気が向かなければさっさと帰ってしまうに違いない。……一応家の方に廻って行くか)
洪破天が紅門飯店に泊まらずに家に帰るかも知れないと思った超靖は、大通りに向かう道を逸れて洪破天の家のある集落の方へと行き先を変えた。そこから紅門飯店に向かえば洪破天が帰宅途中であっても出会うだろう。
洪破天の住まいは王梨の居た屋敷とは少し離れた別の小さな集落にある。東淵は東の湖とそこに迫っている西の山との間にある細長い土地で、山の麓にはいくつもの谷があってそれぞれに集落が作られており、歓楽街となっている大通りとは対照的に静かで質素な生活がそこにはあった。
洪破天の家は周辺に比べてひときわ質素、というよりかは粗末なぼろ屋といった処で、明らかに傾いている柱に穴の開いた屋根、正面の入り口付近を除いて雑草がぐるりと家を取り巻いている。近所の者が「蛇が棲みつくから草を刈ってくれ」と言いに来た事もあるそうだが洪破天は全く聞く耳を持たなかったらしい。「蛇なら儂が退治する」と長剣を片手に家の周りをぶらついて数匹の蛇を仕留めるが、そうやって外をぶらつく度に蛇を退治するという事はすでに蛇たちの棲みかとなっている訳で、毎日退治してくれるならまだ良いが洪破天がそんな事をするのは月に一度あるか無いか。「もうすぐ冬が来るからもう大丈夫じゃ」と夏が終わる頃には言い出す始末で近所の人も諦めかけていた。その諦めかけていた近所の者達が再び洪破天に言いに来たのは、梁媛がこの家に来た頃だった。
「洪さんは蛇などどうという事はなかろうが、あの娘が蛇にやられたら何とする? 娘を家に閉じ込めるのか? 蛇が入る隙間などいくらでもあるこの家に?」
その話を聞いた洪破天はさすがにそれは良くないと考えたらしく、翌日には家の周りを埋め尽くす雑草を全て刈り取った。腰をすえて草を抜き取るところまではやらなかったそうだが、鎌ではなくやはり長剣で綺麗に刈り取り、それを十日に一度はやる様になったという。一度刈れば十日かそこらではそれほど伸びたりはしないものだが、それでも剣を振るって僅かに伸びた葉を細切れにする。
ようやく近所の者達の願いは聞き入れられた訳だが、
「洪さんは変わったお人だ……」
皆そう言って頑固で単純な洪破天を噂していた。
超靖は洪破天の家の前に立つ。僅かな月明かりの射すその周辺には、雑草が生い茂り始めていた。