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流浪一天  作者: Lotus
第十章
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第十章 六

 長衫の男は無言のまま顔を正面に戻して酒杯に口を付け、それからゆっくりと戻す。そしておもむろに口を開いた。

「いや、全く」

 低く落ち着いた声。離れて見れば青年の様にも見える風貌であるが近付くと思ったより深い皺が顔に刻まれている。その落ち着き払った佇まいの中に鋭く精悍な眼差しを持ち、何も言わずとも武林の人間である事を窺わせる、そんな雰囲気を漂わせていた。もう一人の黒衣の男はこの長衫の男よりも歳は大きい様だが、長衫の男の部下である事はまず間違いない。

 超靖らが不安を覚え警戒しているにも関わらず洪破天はこの二人に対して自然に接している様に見え、眠そうな視線を辺りに漂わせながらとつとつと長衫の男に話し掛ける。「ならば今、北辰は相当暇なんじゃのう。おぬしが、こんな役回りとは」

「……確かに暇でしょうな。しかし私としては気楽で喜んでいるのですが」

「此処には、何も無いぞ? おぬしらが探す様な手掛かりも全く無い。こっちが知りたいくらいじゃ」

「ならば……何か分かったら洪どのにもお伝え致しましょうか。他にも散らばっているのでね」

 長衫の男は洪破天を見上げて笑った。洪破天もニヤリと口を曲げて応える。先程から周囲の客達が洪破天と北辰の二人の様子を気にしているが、どう見てもただの知人同士が親しく話しているという風にしか見えなかった。

 全く武林に縁の無い、酒を飲みに来るだけの客でさえこの北辰の二人が何故この紅門飯店に通っているのかを知っている。東淵はさして大きい街ではない。街中の人間が知っていると言っても過言では無く、何か『事』が起きるのではないかと皆が注目している程である。

 この街に北辰の人間が居るというのは何も変わった事ではなく住人に北辰教徒も大勢居る。それ以外でもこの東淵では太乙北辰教は頼れる隣人と捉えている者が少なくない。非常に近しい存在なのである。それは変わらず続いているが、今、紅門飯店に居る二人の男は普段とは全く違う理由で此処に来ている。それは超靖や傅家の人間が理解している通りであり、街中に話は広がった。殷汪と繋がりがある人間を監視する――。特殊な、ただならぬ理由である。

 ただ、街の住人達は事の次第を把握しきれていない。傅家の人間、それに洪破天が殷汪と深い縁があるのは知られている事だが、殷汪は死んだにも関わらず何故にまだこだわるのか? まさか生きていると思っている? だとしても殷汪たった一人をいつまで追うのか? 何か別に理由でもあるのか? と、解らない事だらけで話は尽きる事が無く、特に酒の席では重宝する。

 殷汪の話はこの東淵では特に盛り上がる。その理由は、殷汪もかつては長くは無いが傅千尽、洪破天と共に東淵の住人であったという事だ。言葉を交わした事のある者も居る。突然北辰教の総監となり方崖へ行ってしまったが、太乙北辰教を悪く思う事が無いこの街の住人にすれば『出世した』という感覚の方が強かった。流れ着いただけとはいえ、その時には既に名を知られていた殷汪を街の人々は歓迎し、そして北辰の総監へ――。『あれは我らの仲間も同然』という、少しおかしくはあるが『誇り』の様なものを感じるのは人情というものである。

 洪破天と北辰の者との意外にも穏やかなやり取り――話す内容は全く聞こえていないが――は、見る者を少しは安堵させた。街の誇りであった殷汪が突然北辰を出て今度は一転して追われる者となったと聞いた時には皆、大層驚いた。そして一様に不安を感じる。

(殷汪が北辰に敵対したとなれば、昔から親しかった者はどうなる?)

 親しかった者といえばやはり傅千尽とその家族、それから洪破天だが、同じ東淵の住人として殷汪に期待と誇りを勝手にではあるが抱いていた東淵の多くの者達も実際はともかく身近で親しい様な感覚で居たのであり、北辰の東淵という地に対する印象が変化したりはしないかと嫌な気分になったものだ。北辰教が東淵という街を具体的にどうこうするなどという事はまず無いだろうが、この街にも多く出入りする教徒の素行に影響が出るなんていう事も考えられるのである。今になってみればそこまで考えるのはただの取り越し苦労であった訳であるが、今、洪破天はごく普通に北辰教徒と接している。しかも監視役と、である。とりあえず殷汪に生きている可能性があるのならば調べようとするのは当然の事だし、そしてそれ以上の意図は北辰には無い様だ。そうでなければ洪破天とあの様に接する筈が無い。洪破天にしても基本的に普段から気性の荒い性格である。関係が本当に悪くなっているのならば『事』はとうに起こっている筈。したがって、今はそんな悪い状況にはなっていない――それが今、周りに居る連中の考えであった。洪破天と話す長衫の男を眺めながら、中には完全に安心しきっている者も居る。

(全然関係は悪く無いんじゃないか? だってあいつは北辰の下っ端なんかとは違う。あれは――)

 

「おぬしら、儂がこの東淵を出たら……付いて来るのか?」

 ただ酔っているだけとも思えない妙な雰囲気を醸しながら、洪破天は呟く様に言う。長衫の男はその様子を訝しみ、首を傾げた。

「何処かへ行かれるおつもりですかな?」

「さぁ。いや、おぬしらはどうするのかと思うてのう」

「何処かへ行かれるのなら、気になりますな。何処なのか。そこに誰が居るのか。しかし、あなたを追う役目が私に廻ってくるかは判りませぬ」

「ハ、それでは面白味に欠けるわ」

「ハハ。無論、洪破天どのに当たらせるとなれば適当に選ぶ訳には参りませぬ。恐らく、我ら六人の内の誰か……」

「フン、本当にする事が無い様じゃな。おぬしらは。六人とは? いつから減った?」

「……ご存知ではありませんでしたか。まだ一年も経ちませぬな」

「知らん。六人か。格好がつかんな」

「フ、確かに。私はその辺の事はどうでも良いのですがね」

「ま、とりあえずその『六星』あたりが来てくれれば飽きずに済むやもしれんな」

 洪破天は浅く腰掛けていた卓から離れ、ゆっくりと腰を伸ばして立った。長衫の男が振り返る。

「本当に此処を離れると?」

「まだわからん。とりあえず家に帰って寝る」

「そうですか」

 洪破天はそのまま店の外へと歩き出した。北辰の二人は席に着いたままで動こうとはしない。長衫の男は再び酒を自らの酒杯に注ぎ、黒衣の男だけが通りに消えていく洪破天の背中を見つめ続けていた。

 

 洪破天と北辰教の二人の様子を窺っていた他の客達は、仲間達との雑談に戻る。

「何でも無さそうじゃないか?」

「いや、でも最近の洪さんはちょっと変だぜ? 何か塞ぎこんでる様な……」

「あの人が? しかし北辰がらみって事じゃないだろうな。さっきの雰囲気からして」

「じゃあ何だ、梁媛か?」

「多分、北辰よりもそっちだ」

 各々が乾き始めていた酒杯に酒を満たしてゆくと同時に、彼らの口は徐々に滑らかになっていった。

 


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