第十章 五
超靖もよく見掛けていた常連数人の処に、傅英は居た。笑顔で言葉を交わしている。超靖は洪破天を振り返り、目を閉じて眠っている様なその顔を見てから、そっと離れた。
「あら? 今日は『お客様』かしら?」
歩いてくる超靖を見るなり傅英の方から声を掛けてくる。とりあえずこの紅門飯店での仕事から離れた超靖が今此処に居るのは客として来たか、それとも傅千尽から何か命じられたのか。ともかく傅英はにこやかな表情を浮かべていた。結構細身の女性なのだが、常に店の中を忙しなく動き客を取り回す様が中々の逞しさを感じさせる。まさしく東淵一繁盛している店の女主人といったところである。
周りで客達の歓声が上がる中、超靖は傅英の耳元に顔を寄せる。
「洪さんが随分酔っている。まだあの二人も居る事だし……」
超靖がそこまで言うだけで傅英はその了見を理解し頷いて見せた。
「そうね。媛はまだ嫂さんの処? あっちも泊めて貰わないと」
「俺が今から行ってくる。洪さんは媛はこれから奥様の処で暮らすと言ってるんだが、どうなってるんだ? 旦那様とそう決めたらしいんだが……」
「えっ? 聞いてないけど……急ね」
超靖は頷いた。
「とりあえず行ってくる。奥様の処が準備が整えられない様ならこっちの屋敷に媛を連れて帰る」
「ええ。そうしてあげて」
超靖は再び頷き傅英の傍を離れて店の入り口へと向かう。北辰の男二人が正面に見えているが特に変わった様子は無い。歩みを緩める事無くそのまま外へと出て行った。
傅英はすぐに洪破天の処へ向かった。ずっと店に居て飲んでいたので何処に居るのかは分かっている。
「洪兄さん」
傅英が洪破天の肩を揺すって声を掛けると、超靖の時と同じ様に低い唸り声が返って来る。
「洪兄さん、起きて」
傅英が洪破天を『兄さん』と呼ぶのは単に昔から傅千尽が『洪兄』と呼んでいるのでそれに倣っているだけで、本来なら兄と呼ぶには少々歳が離れている。しかしそう呼んでもおかしくない程の、長く親密な付き合いであった。
「……どうした?」
やはり頭を卓上に乗せたままで洪破天は傅英を見る。
「上で休んだらどう? 媛は嫂さんの処だし、泊まっても良いでしょう?」
傅英は梁媛の事を詳しく訊こうかとも思ったが、目を開けただけでぼんやりしている洪破天とまともに話せる様にも思えず、今は触れない事にした。超靖が行ってくれたので何も問題は無い筈である。
相変わらず動くのが億劫だとでも言う様に脱力していた洪破天が、傅英の言葉を聞くとすぐさま体を起こした。
「帰る」
顔を洗うように両手で擦り、その両手を勢い良く下ろして膝を鳴らす。
「帰るぞ」
洪破天はそう繰り返して立ち上がる。その時、僅かばかりふらついた。
「ほら、危ないわ。わざわざ戻らなくてもうちにも部屋はあるんだから良いじゃない。今夜何かあるの?」
「……無い。無いが家に帰るのがそんなにおかしな事か?」
「今までもよく泊まってたじゃないの」
洪破天は傅英の言葉を聞くと視線を床に落として力無く首を振った。
「お前達に面倒を掛けてばかりであったのう……」
「え?」
傅英がすぐに聞き返したが洪破天は何も言わずに歩き出す。時折、近くの客の肩に手を突きながらゆっくりと広間を進む。
「洪兄さん? 大丈夫?」
洪破天は後ろを付いてくる傅英を振り返って小さく頷いただけで、そのまま店の入り口へ向かって進んで行く。
「洪兄さん、待って。今誰か呼んで――」
「いらん」
洪破天は短く答えた後立ち止まり、黙って広間の一角を指差した。客数人がこちらを向いて傅英を呼んでいる。
洪破天は傅英を見て微かに笑った。
「また来る」
傅英は近くを通った郭を呼び止めて先程の客の処へ行くように伝えてから、洪破天を追った。
店の入り口近く、北辰の男二人が酒を飲んでいる。この二人の事は洪破天は勿論、傅英も承知している。
「英よ。もう仕事に戻ってくれ。儂は大丈夫じゃ」
洪破天は手振りも交えながら『もう行け』と言う。
「そう? なら良いんだけど……?」
「本当に何も無いからのう。明日も来る」
「……そう? ええ、分かったわ」
洪破天の表情が、眠そうなのを除けばいつもと変わらないところまで戻った様に見え、傅英はこれ以上引き止めはしなかった。今度はそれよりも――北辰の二人が視界に入り、そちらの方が気になってしまう。あの二人は付いていくだろうか? それともいつもの様に関係ない振りを続けるのか?
不意に広間の何処からかまた傅英を呼ぶ客の声が聞こえた。傅英が洪破天の表情を確認すると黙って頷いている。
「気をつけて」
「ああ」
傅英は洪破天の傍を離れて声のした方へと向かうが、やはり気になって入り口の方を時折振り返っていた。
洪破天は視線を傅英から北辰の二人の方へと移す。それから真っ直ぐそこへ向かい、何も言わないまま長衫の男の隣に立つといきなり片膝を曲げて卓上に腰を引っ掛ける様に座った。長衫の男は酒杯を持ったままゆっくりと首を廻して洪破天を見上げ、その向かいの黒衣の男も洪破天をじっと見つめた。
「何か分かりそうか?」
洪破天は長衫の男に向かって言う。二人を微塵も警戒していない様子でとろんとした目つきのままだった。