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流浪一天  作者: Lotus
第十章
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第十章 三

 婦人は穏やかな表情で超靖を見つめる。婦人は昔、紅門飯店で女中をしており、後に今の居酒屋を始めた。それ故他の者よりも紅門飯店には特別な思い入れがある様だった。そうでなければやはり商いで競合する相手の存在は忌々しいものである筈で、穏やかでは居られない。

「本当は紅葵の名が人を呼んでた訳だが……」

 男がぽつりと呟いた。超靖は軽く頷きながら目の前の皿から小さな肉の塊を探り出して口へ運ぶ。そしてまた次の肉を見つけるべく箸の先を皿へと潜らせた。

「今話してた娘、その子も孤児なんだってねぇ?」

 婦人が再び椅子に腰掛けて足を組み、超靖を見た。

「媛か?」

「そう。私は会った事無いけど、評判良いみたいだね」

「そのうち紅門に梁媛ありって事になるだろう。うん。間違いない」

 超靖より先に男が口を開いて得意げに言う。すると超靖は男を睨む様に見ながら卓上に拳を叩き付けた。

「媛と紅葵は違う! 紅葵の跡目など勝手に押し付けるな!」

 俄かに感情を昂らせた超靖を男と婦人が目を丸くして見つめる。他の客達も一斉に振り返って超靖の方を何事かと見遣っていた。

「別に押し付けるとか……そういう事じゃない――」

「そういう事ではないか。媛は孤児で苦労して都に辿り着いた。偶然にも洪さんに出会ってこの東淵までやって来たがそれは此処で平穏な生活を取り戻す為だ。紅門で働かせるのが目的ではない。紅葵の様になって貰いたいか? 媛自身がそうなろうと考えるのなら口を挟んだりはせん。だが他人がそうなれなどと言える筈が無い! 誰にそんな事を言う権利がある? ……フン、『紅葵の様に』など媛が言う筈が無いがな。媛は紅葵を知らんのだからな」

 超靖は一気にまくし立てると酒杯を掴んで勢い良く呷った。そして大きく溜息を一つ。

「洪さんも本当は紅門に上げるなんて事はさせたくないだろう」

「……じゃあ、何故そう傅の旦那に言わないんだ? あの洪の爺さんが言えば旦那も聞かない訳が無い。そうだろう?」

 男は超靖の顔色を窺いながら声を抑えて訊く。

「洪さんは――」

 話しながら不意に超靖が後ろを振り返る。後ろに席は無く人は居ない。入り口の扉を見ている様だが、既に外は暗いので扉に何かの影が映るという事も無い。

「どうした?」

「洪さんはいつ頃まで紅門で飲んでた?」

「ん? あー、俺達が此処に来る道中に覗いた時には居たな。結構飲んだみたいで卓に突っ伏して寝てた様だったぞ。夕刻……と言ってももう結構暗くなってた」

 男は隣で黙々と酒を飲んでいる連れに確かめるとその男は黙ったまま頷いていた。

「済まん」

 超靖は立ち上がると男と婦人を見遣りながら頭を下げる。

「大声を出して申し訳無かった」

「……大声? ハハ、あっちの連中の方が大声だ。しかも常にな」

 男が店の奥の方に居る客達を眺めて言う。何やら大層盛り上がっており歓声を上げていた。

「どうしたんだい?」

 婦人が訊くと、

「紅門に用事を思い出した。また明日来るよ」

「ああ。いつでも大歓迎さ」

「じゃあまた」

 超靖は男にもそう声を掛けてから、急ぐ様に早足で店を去って行ってしまった。

 男はその後姿を見送ってから婦人の方に向き直って首を竦める。

「何か、怒られちまったな」

「……確かに、今から周りの人間があれこれ言うべきじゃないね。でも……」

「でも?」

「奥様の処へ行ったんならその媛て娘、『並』の娘では居られなくなるのは確かだけどね」

「……そうだよな。先が楽しみで仕方ないが、ま、これは胸の内に秘めとく事にするか」

 

 紅門飯店は通りに並ぶ様々な建物の中でも飛び抜けて高く五層に連なった楼閣である。周辺には多くの明かりが灯され、その朱色が夜の空に浮かび上がって見えていた。

 正面入り口付近には今から入るのかそれとも出て来たところなのかは判らないが、いつも人がたむろしている。建物の一階はほぼ毎日人で溢れており、席が空くのを待つ客も少なくない。しかし今、表に居る者達はこれから入る客という訳では無さそうだ。紅門飯店で働く中年の男が店の正面を塞ぐその者達を追い立てていた。

「またお前達か。入らないなら、ほれ、そっちの端に行っててくれ」

「客が来たらどいてるって」

「来る前にお前達が正面に居ったら敬遠されてしまうわ。んん? せめて着る物くらい綺麗に洗え」

「何だよ。中に居る奴だって小汚ぇのが一杯居るじゃねぇか」

「中で酒なりなんなり注文してくれるのは皆『お客様』だ。お前達は入ろうともせんだろう? 席はあるぞ? 入るか?」

「いや……今日は……」

 男達は急に縮こまって仲間同士顔を見合わせている。今日は持ち合わせが無いので酒が頼めないといったところだろうが、それならわざわざ出て来ずに家でじっとして居れば良いものを、それでもこの男達はわざわざこの紅門飯店までやって来る。酒を愉しむ事は出来ないが、此処にはいつも大勢の人間が居て盛り上がっており、その雰囲気だけでも味わおうというのである。

「とにかく、入り口の真正面に陣取るのは止めろ。ほれ、そっちだそっち」

 男達は店の横の方へと追い立てられ、ぞろぞろと歩いて行く。

 その店の者は入り口に戻って来るなり、通りに向かって声を掛けた。

「靖じゃないか。もう上がりかい? 飯は? そんなとこに突っ立ってないで入ったらどうだ?」

 通りには紅門飯店を見つめている超靖の姿があった。店の中の様子を窺っている。

(かく)さん」

 超靖は声を掛けた店の者に手招きをする。

「ん?」

 郭と呼ばれたその男は首を傾げて超靖を見てから歩み寄った。

「どうした? 何かあったのか?」

 ついこの間までこの紅門飯店に用心棒として居た超靖である。どうやら普段の様子とは違うその姿に郭は眉を顰めた。

 超靖が郭の肩越しに店の中を見つめ、言った。

「あれ、また来てるのか」

 郭は振り返り、超靖の視線の先を確認する。

「……ああ。来てる。北辰な」

 


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