第十章 二
傅千尽の雇う用心棒達は皆古参ばかりで、若者と呼べる者は一人も居ない。大きな屋敷を構え、多数の客が詰め掛ける人気の店を持っていればやはりそれなりに人を置いておかねばならず、確かな腕を持つ者達を傅千尽自身が選び必要最小限の人数で確保している。『確かな腕』とは何も武芸などに限る訳では無いがそれ相応のものは必要で、出来れば何でも任せられる人間であれば頭数を少なく出来るし、給金も抑えられる。今現在、傅家の用心棒は足りており、新たに雇い入れる必要は無い様だ。
「じゃあ、屋敷に戻ったのか?」
男が超靖に酌をする。歳も近く親しい仲であった。
「下の昔の屋敷だがな」
「昔の? 傅夫人の別荘か?」
傅夫人とは傅千尽の妻、王梨の事だ。
「別荘……まぁ、そうだな。どうやら今度はそっちに行く事になりそうなんだ」
「あっちにも人は居るんだろ? まさか夫人は全くの独りで暮らしてる訳じゃあるまい」
「……紅葵は居なくなった。長い間俺はお付の用心棒役だったが、居なくなったらする事が無くなってしまった。屋敷に戻れるかと思いきや、どうやら旦那様は紅門に花が無いままでは困るらしい。次の花を用意するつもりの様だ。紅葵と同様、王梨様の許で……」
超靖が酒を呷る。
「なるほどな。それが、媛だな?」
男がそう言ってニヤリと笑ったので超靖は驚いて男を黙ったまま見つめ返す。
「紅門の客の連中の間では多分そうじゃないかって話で持ち切りだったぞ? あの娘が店で働き出した頃から客は増えてただろ? あっと言う間に人気者だ。それなのにぱったり店に出なくなった。でも何処かへ行った訳でもないと言うしな。あの器量だ。紅葵に次いで紅門を上がるのはあの娘だろうってな」
「……洪さんは何か言ってるか?」
超靖は持った酒杯をじっと見つめながらそう訊ねた。洪とはいつも紅門飯店で酒を飲んでいる洪破天の事だ。
「全く。その話を振っても完全に無視だ。内心、反対してるんじゃないのか? 一応、洪の爺さんの娘って事になってるんだろう? 傅の旦那が勝手に決めて良い訳無いよな」
「勝手に決めてなどおらん。旦那様は洪さんと何度も媛の事は話している筈だ」
「ま、紅葵の後を受けて紅門の花を名乗るのに不満など無かろうがな。紅門の舞姫ってのはその辺の妓女とは格が違う。東淵の至宝だよ」
「大袈裟な」
「大袈裟なものか。国中から一目見ようと押しかけて来るんだぞ? 幾ら金を積んだってそう簡単には見れないのにな。紅門の花はただ一輪。縁が無ければ近付けない。……彼女は東淵の誇りだった。再び咲く事を皆が望んでる。あの媛が傅夫人の弟子になったのならきっとこの望みは叶うと俺は信じるね。あの娘は幾つだ?」
「確か……十四かそこらだったかな?」
男が訊くと超靖は今度は店の天井の隅辺りに視線を投げつつ考えている。男が続ける。
「紅葵はもう少し若い頃から夫人に付いて芸の修行をしてたそうだな。しかしまぁ少しの差だ。昔を思い出すよ。紅葵が紅門で酒を運んでた頃をな。良く働くし機転も利く。その頃から本当に愛らしくてな。この辺の常連は皆が紅葵を守る用心棒のつもりで居たよ。お前だけじゃ不安でな」
男がそう言って肘で小突くので超靖は苦笑いを浮かべてから酒を口へ運んだ。超靖もその頃の事は良く覚えている。その頃から紅門飯店に行くよう傅千尽に命じられており、いつも真面目に働く傅紅葵の姿を眺めていた。当時、傅紅葵は今の梁媛よりも若く自分の娘の様な歳でもあるので、それ以来本当に近しい存在として接してきた。その傅紅葵が東淵を去り寂しさを感じたものだが、今度は新しくやって来た娘、梁媛を傅紅葵の後釜に据えるべく王梨の許で育てるという。超靖は梁媛の傍に付く様にと命ぜられたのだが、どうも釈然としない気持ちを感じていた。
(『紅門の花』とは傅紅葵の事だ。それ以外の誰でもない。東淵の誇り――それは同感だ。だが、彼女が一流となったが故に『紅門の花』と呼んだまでの事。客寄せに花を作った訳じゃない。勿論、媛が紅葵の様に大きく咲く事が出来たならそれは素晴らしい事だが……紅葵になれというのでは媛が辛すぎるではないか)
店の婦人が湯気の立っている皿を一つ運んで来た。見ればほんの少しだけ肉らしきものの姿が見えている野菜炒めだった。何もおかしな事は無い。適当なものと言えばいつもこれなのだ。
「趙さん、紅門飯店はどう? 昼間おかみさんに会ってねぇ。なかなか厳しいみたいな事言ってたけれど……」
この婦人が『おかみさん』と呼んでいるのは紅門飯店の営業に関する殆どを取り仕切っている傅英、傅千尽の妹である。店の所有者は傅千尽であるが、紅門飯店を兄から任されている傅英が実質的な女主人と言っても良い。
「厳しい? そうは見えんよな」
男が意外だという様に少し高めの声を出す。
「だからあんたらみたいな安酒しか頼まない連中が押し寄せるからじゃないか」
「分かってるよ。だから此処に来てるんだろうが。ほれ、結構あっちで見かける顔が居るじゃないか」
男が店に居る客を見回す。紅門飯店でも良く見かける連中ばかりであった。
『どう?』と訊かれても咄嗟に何も思い付かない超靖はとりあえず口を開いてみる。
「客の数に変化は無い様に思う。ただ……」
「ん?」
「いや、まだ何とも無いな。変わらない。うん。大丈夫だ」
超靖は一人忙しなく自分の言葉に頷きつつ酒を煽ってゆく。
「何だよ。言えよ。紅門に何かあったらこの街の商売という商売に影響が出るんだぞ」
「……大袈裟な」
「大袈裟とは言えないね」
今度は店の婦人が真面目な顔で超靖の言葉に反駁する。
「うちも紅門飯店と同じ様に酒を出して料理も作る。でも、違うのさ。あそこは」
「見りゃ分かる」
「あんたは黙ってな」
男は軽く往なされて首を竦める。
「普通は商売仇って事になるんだろうけど、趙さんも知っての通り、私はあそこでおかみさんに仕込んで貰ったお陰で自分の店を持てた。うちが旨くやっていける様に気を掛けて貰いながらね。紅門は大きい店だからうちみたいな小さい処は商売仇なんて言うだけでも恐れ多い事だよ。それだけ余裕があるから他所まで気に掛けるんだって思うかも知れないけど、そうじゃないよ。同業だけじゃない、この街を豊かにしようっておかみさんも、もちろん旦那様も働いてらっしゃる。今、東淵にあって紅門以外に江湖に名を馳せるものがあるかい? 此処は良い処だけれど何処から来るにしたって遠い。それでも行ってみようと思わせるのは紅門飯店の名に拠る処が大きいだろうね。とにかく、『私らの東淵』の稼ぎ頭なんだから、永遠に安泰であって貰いたいよ」