第十章 一
薄く広がった雲に度々覆い隠されながらも、その雲を自らの光で刺し貫きながら姿を現す東淵の月が、昂然と湖面を見下ろす。さざ波が打ち寄せる湖岸に佇みつつ酒を愉しむ人々は夜空と湖面に浮かんでいる二つの月を眺めて盛んに感嘆の声を上げていた。何処からか琴の音が漂ってくる。だが何処で誰が奏でているのかを気にする者は殆ど居ない。昨夜もそうであったし、明晩もそうであろう。
南門から北門まで、この東淵を貫く通りにずらりと並べられた提灯が街を赤く照らし、音曲と人々の歓呼の声が街を満たす。通りを少し外れて東淵の畔にくれば、通りとは対照的に静かな月夜を愉しむ事が出来る。物足りぬなどという事があろうか。各地に名月を謳う地は多くあれども悠久の歴史の中で最も古く詠われたのがこの東淵である。夏を迎えれば此処の気候はこの国で最も過ごし易いと言われ、風光明媚な地に有名な歓楽街を伴い、特に遠く離れた地に住まう者達の憧れの地ともなっている。
ただ、この東淵の住人には月を見上げて改めて感慨にひたる様な暇は無いのかも知れない。中央の歓楽街に居る東淵の人間は空を見上げるよりも客引きに忙しい。夏が終われば訪れる者はかなり減ってしまう為、夏の間だけが貴重な稼ぎ時という訳なのである。冬の東淵湖も美しいとは知っていても、中原から遠く離れたこの街はそう簡単に遊びに来れる場所ではない。
近年になって『東淵に花』という話が国中に広まった。東淵を訪れた遊客辺りが話を持ち帰ったのだろうが、『東淵の月』は聞いた事があるが『花』とは? と、東淵が改めて国中の注目を集める事になった。月ならばとりあえず何処でも見る事が出来る。しかしこの『花』は東淵にしか咲いていない。たおやかな最上の花。噂話などはおおよそ大袈裟になるもので、実際にそれを見るまでは殆どの者がろくに期待などしていないが、この東淵の花は見るものの言葉を失わせる程、麗しく咲いていた。
花は、季節を問わず咲き続けた。しかしただ一輪。行けば誰でもそれを目にする事が出来るという訳でも無い。それでも人をこの東淵に惹きつけ、東淵湖の月と並んで東淵の街の宝となった。ほんの数年の間であったが――。
月が昇らない日があったかどうか、定かではない。月を誰も見ていない日が有史以来一度たりとも無かったと言い切る事は出来ない。それでも月は必ず昇るものであり、未来永劫続くであろうと漠然と思い続ける。山の陰に、雲の上にあると信じる。
終わらない花があるのかどうか、定かではない。枯れない花が今もあると知る者は誰一人居ないと言い切る事は出来ない。それでもやはり花は終わるものであり、未来永劫咲き続ける花など無いと考える。ただ、その生を繋ぎ再び地に萌え出る事を望む。
しかし、その花が生の営みを自然の中に終えるのではなく摘み取られてしまったとなれば、其処に再び花を見る事は無くなってしまうのではないか――。東淵の人々は皆そう考えて肩を落としている。かつて咲き誇った東淵の花はその美しさ故に摘まれ、失われてしまったのである。
通りを眺め、着飾った様な身なりの者は他所からの旅客とみてまず間違いない。飾るとまではいかずとも明らかに普段着とは違う『見せる装い』である。そういった客を相手にする商売人以外で服装がその様でない者は殆どが東淵人であり、それらも数多く通りを往き来している。
客は入っている様だが、着飾った遠方の客とはあまり縁の無さそうな古びた小さな居酒屋には、案の定『東淵人』がたむろしている。月夜である今夜は窓が開け放たれているので、表の琴の音が質素なこの店にも趣を添えてくれている。
「さて、今年はどうなるかな? 紅門の入りはどうだ?」
「変わらんな。他所の人間が増えてきたってところか……。おかみさんは何も言わないが少しばかり居づらいかな?」
「あんた達は大人しくうちで安酒飲んでいくんだね。傅のおかみさんは優しいから何も言わないかも知れないけど、あんたらに酒一杯だけで延々と粘られちゃたまったもんじゃない。おかみさんを困らせるんじゃないよ」
客の男二人と、この店の者らしき中年の婦人が喋っている。客は多いが皆地元の馴染み、懐具合も知れた仲の連中で当然注文もあまり無く、婦人は椅子に腰を掛けて足を組み男二人の会話に混じっていた。
「紅門に人が集まれば周りも儲かる。このぼろい店までその恩恵があるって訳だな」
「そりゃそうさ。他所のお金持ちにたっぷりこの東淵で金を使って貰わなきゃならない。それにはあんたらが席を明け渡さないとね。だからってあんたらは酒を控える事なんか出来やしない。どうだい? 有難い事だねぇ。うちもあんたらも」
婦人はそう言いながら笑っている。古臭い店にしては客が多く入っていて、確かに笑みがこぼれるのも頷ける。
「ま、同じ金であっちの倍近く飲めるからな、此処は。味は……半分か? ハハッ」
男の一人が笑い声を上げると、もう一方の男もそれに合わせて笑う。店の婦人まで一緒になって笑っていた。
その時、店の入り口の扉が開き新たな客が顔を覗かせる。
「おっ、超靖」
「趙さん、いらっしゃい」
「大入りだな」
「此処が空いてる。こっち来い」
超靖と呼ばれた男が静かに扉を閉めて入ってきた。身なりは整っており、腰に長剣を下げている。男二人は椅子をずらして超靖の為に席を空けた。
「最近良く来るなぁ。まさかお前紅門をクビになったんじゃあるまいな?」
男が冗談の様にそう言うと、超靖はじっと顔を見返している。
「仕事が変わっただけだ」
そう言って僅かに微笑んだ。店の婦人が酒を運んで来る。
「趙さん、何か食べるかい?」
「そうだな……少し貰おうか。少しでいい」
婦人は頷いて厨房に戻っていく。適当にあるものを見繕ってくるのだろう。
「仕事変わったって……もう紅門に詰めてなくて良いって事か? 紅葵が居なくなってもう一年が過ぎたが最近までは紅門だったんだろう?」
「まあな」
超靖という男は、紅門飯店という高級料理店に居る用心棒である。東淵一の富豪で紅門飯店の主、傅千尽に雇われている。この超靖には兄が居てこれも同じく用心棒をしているが、そちらは紅門飯店に詰めるのではなく、普段は傅千尽の屋敷に居た。