第九章 二十四
樊樂ら一行は至東山を通り過ぎ、更に東へと向かう。至東山近辺には特に怪しい人の動きも見当たらず、本当に北辰教徒は今のところは来ていない様である。この先の大きな街と言えば金陽から続くこの街道の終点、東淵しか存在しないが、一向に『秘伝書』や『徐』という名は聞く事が出来ず、樊樂らには為す術も無い。
「おかしいよな。何故こうも話が出てこない? 『そんな事があったらしいなぁ』くらいの事を言う奴が居てもおかしくない筈だろ? かと言って、皆何かを隠してる様子は微塵も無い。全く伝わってねえのか? こりゃあ恐らく北辰も全く秘伝書とかに気付いて無さそうだぞ?」
樊樂は半ば呆れている。行く先々の街の住人が何も知らない事と、今まで全くの無駄足を運び、これからもそうし続ける事になるかも知れない自分達に、である。
孫怜が答える。
「それは無い筈だ。真武剣派が秘伝書を一旦手に入れて、それを持ち主に返した途端にその者は殺されて秘伝書が奪われた――これは江湖に知れ渡ったのだろう? 真武剣が元の持ち主から秘伝書を取り戻す為にその様な芝居を打ったというあらぬ疑いを掛けられる事を恐れるが故に総出で行方を追っている。この一連の流れが知れ渡ってしまったが故に真武剣派は動き続けざるを得んという訳だ。北辰は常に中原を張っているだろう。とりわけ武慶を中心としてな。そういう噂が流れたという事くらいはとうに知っているさ」
「じゃあこの手応えの無さは何だ?」
「……北辰が知ったからといって末端の教徒や街の住人も知る事になるとは限らん。樊、真武剣派は随分と思い切った行動に出ている。俺達の仕事もそれどころではなくなるかも知れんぞ」
「どういう事だ?」
「あの郭斐林をはじめ、既に北辰の縄張りにまで乗り込んできた。どういう算段で居るのか不明だがこれはとんでもない事だぞ? 本気で遣り合う覚悟は出来ているな」
「それもおかしいだろ? 昔、北辰と喧嘩した時は真武剣だけじゃなくてあの襄統、清稜、その他の北辰傘下以外を全て巻き込んで何とか五分に持っていけたんじゃねぇか。あれから真武剣は多少は拡大しただろうが、それでも勝てるとは思えねえな」
「まぁ、昔の様にまともに正面から向かって行く必要も無い。今の処はまだ秘伝書と人質探しだからな。しかし北辰から見れば、何しに来た? って事になる。とりあえず人を遣って様子を見ようというのがあの湯長老とやらの仕事だったんじゃないのか。そして襄統派も交えて火種が燻り始めた。何でもない探し物だったのがその本来の目的は何処かへ忘れ去られる事も可能性としてはある」
ここで皆黙り込む。先行きは暗く、周維に命じられた任務を達成する目処が立たない。元々人の捜索というのは計画通りに進むどころかその計画自体まともに立てられる様な物ではない。そこへ更に遂行を遮る大事が起こるかも知れないとなれば、誰でも憂鬱になるというものだ。
「樊さん、もしそんな事になったら、城南に戻った方が良いですよね? 城南で稟施会がどうするのか決めない内に俺達が変にそんな揉め事に絡んだら不味いですよ」
劉子旦の言葉に、
「そりゃそうだ。そもそも旦那は俺達を偶然見つけて、『城南を離れるならついでに探して下さい』みたいに言ったんだぞ? 危険を冒してまで何としても――なんて命令じゃない」
「『ついでに』とは一言も言ってませんけどね」
「おい、そんないい加減な仕事だったのか? 本当に『お使い』だったとはな」
孫怜は今になって周維の命令がそんなものだったと知り、呆れ顔である。
「指示が『略式』だったってだけだ。可能な限り秘伝書と人質を追って見つけ出す事に努力する、という仕事だ。おかしくない」
樊樂は孫怜に向かって言い、胸を張る。成程その『略式』というのが樊樂を気楽にさせる原因であったかと孫怜は納得した。
「なぁ、樊さん東淵でも何も分からなかったらどうする? まだ先に行くのか? 長いな」
今度は胡鉄が訊く。流石に延々と進むだけの日々に疲れてきている様である。
「そん時考える」
劉子旦が胡鉄に向かって、
「惜しいなぁ。東淵には紅門飯店という処があってすごい美人が居るので有名だったけど。きっと帰りたくなくなるんだろうなぁ。そこに行けば」
「本当か? 凄い美人て、どんなだ?」
「当然俺も見た事は無いけど、国中で噂になるくらいだからね。鉄じゃなくても夢中になるだろうね」
劉子旦は笑っているが、胡鉄の方は目を見張って見返している。慌しく樊樂の横に付くと、
「樊さん、是非見て行こう。そんな美人を見れば皆やる気を取り戻せるってもんだ」
「別にやる気は無くしちゃいないんだが……」
「それにその美人とやらは今は――」
孫怜が言い掛けた言葉を樊樂が腕を伸ばして即座に遮る。
「俺達はこっちは初めてだからな。色々と見れる物もあるだろうし、東淵は避暑地だ。俺達城南の住人にとってはこの時期に来られるのは幸運だな。ま、気楽に行こう」
樊樂は胡鉄に向かってそう笑って見せた。
(秘伝書はともかく、人質が居る。急がねばならんが……仕方ないな)
孫怜は樊樂の言葉を聞いてそう思いながら小さな溜息をついていた。
周維に劉建和の息子と秘伝書の行方を探れと命じられたのはこれから春を迎えるという頃であった。そして今、夏になろうとしている。傍目にはのんびり構えている様に見える樊樂でも時折、安県に程近い古い廟で会った劉建和の顔を思い出す事がある。
(諦めるなんて出来ないだろうな。なんたって息子だ。周りの全てが『もう生きてる訳がない』と言ったとしても、『その姿』を見るまでは。もし見つけて連れて帰ったらどんな顔すんだろうな? 泣いて喜ぶか? 息子か……。泣くだろうな。……そんなの見たら俺も泣くな。たまにはそんなのも良いな)
「樊、どうした?」
「あ?」
「あ? じゃない。何か妙案でも浮かんだか? 頬が緩んだぞ?」
孫怜はニヤリと笑い横目で樊樂を窺っている。
「怜、景北港はまず無いと俺は思う。どうだ?」
「ん? ……そうだな。北辰に秘伝書を献上にでも行かぬ限り有り得んだろうな。そんな物を持って景北港に行くのは危険過ぎるからな」
樊樂は頷く。
「東淵でも何も無かったら、南へ行こう。うちの支店に寄れるし城南からも人を出しているかも知れん。他の場所はどんな感じか知りたい」
「東淵に支店は?」
「無い。北辰の周りには一切無い。うちは北辰には関わらん」
「そうか。とにかく、東淵だな。ここからなら三、四日程か?」
「知らん。お前らもこっちは初めてだよな?」
樊樂は胡鉄らを振り返る。胡鉄が首を縮めて、
「全く分からねぇ。此処がどこかもさっぱり」
「私も良く分かりませんが、至東山の先はもう北辰のお膝元とか言われてますし、割と近いのかも知れませんね」
劉子旦の答えに樊樂は大きく頷く。
「お前を信じよう。という事で、そのもうすぐの東淵まで一気に行くぞ!」
「樊さん、寝不足は不慮の事態に対応出来なくなるから夜は寝たほうがいいって」
胡鉄が顔を顰めて樊樂に訴えれば、
「当たり前だ。『一気に行くぜ!』という意気込みを維持しつつ、粛々と進むって意味だ」
樊樂はそんな事を言いつつ真顔を正面に戻した。
孫怜は前を向いたまま樊樂らのやり取りを聞いている。
(こいつらはいつまで経っても相変わらずだな。相変わらずで居続けるのも中々難しいものだが……。フッ、洪が来ていればかなり早く進んでいるだろうが、今更言っても仕方の無い事だ。さて、東淵で何か出て来るか? ……少風に会えるだろうか? 天佑は――)
都を出る時には東淵に向かうと言ってもまさか本当に東淵まで行く羽目になるとは皆思っていなかった。それまでに徐騰を見つけられると考えていたからでは無く、そんな遠くまで行くのは正直勘弁して貰いたいからである。徐騰を見つけるか、他所で捕まったという話を道中で聞くか、それらの方が確率が高いという見込み――詰まりは希望であった。それがもう既に東淵まであと数日。今までの行程を考えればもう目の前と言ってもおかしく無い。
(ああ、遊びで来てんならもっと気楽なんだがなぁ)
樊樂は何度そう独り言ちたろうか。東淵の街はこの国の多くの人間にとって物見遊山に行く街である。辿り着けば樊樂は更にそれを繰り返す事になるのはまず間違いない。
第十章へ続く