第九章 二十三
泰和が泰正に歩み寄り顔を近付けて何やら話していたが、二人で頷き合ってから泰正が再び孫怜に話し掛けた。
「孫様。出来れば至東山にお越し頂いて礼をさせて頂きたいのですが……」
「いや、我々はすぐまた旅を続けねばならないのでね。気になさらず」
泰正は大きく頷いてから横の泰和に顔を向けると、泰和が小さな紫の巾着を差し出し、それを受け取った。
「これを、お持ち下さい」
泰正から差し出された巾着を孫怜は手に取り、その紫色を眺める。
「これは?」
そう訊ねたのはいつの間にか孫怜の背後から覗き込んでいる劉子旦だった。樊樂と胡鉄も居る。
「真広散創痍丹と言いまして、我が派が作っている傷の丸薬です」
「おおこれがそうですか!」
またも劉子旦の方が感嘆の声を上げた。郭斐林が泰正の説明を補足する。
「これもまた伝統ある襄統派の誇る霊薬の一つ。その効能は江湖一で、非常に貴重な品と聞いているわ。なんでも、内力の運行にも作用するとか」
「確かにこれを生成するのはとても難しいのですが、霊薬という程の事は……」
泰正は顔を孫怜に戻し、
「孫様程であれば容易に刀傷を受ける事は無いかも知れませんが、旅をお続けになるなら何が起こるか分かりませんから、どうかお持ちになって下さい。他の種類も出来ればお渡ししたいのですが、あいにく今はこれしか持っていないので……。浅い傷であればこれは必要ではありません。しかしもし傷が思わしくなく膿んでくるような事があれば、傷の直接の手当てとは別にこれを二粒服用して安静になさって下さい。体内から傷を癒してまいります」
「なるほど。それは有難い。しかし、本当に貴重であれば我らに頂くのは気が引けるが……」
孫怜は巾着から視線を上げ、泰正を見る。噂に聞く霊薬、妙薬というものは非常に希少な薬草を数十種、中には百種以上を用いて調合、長い年月を掛けて作り出す物があるという。また大抵、その調合の法は一流の薬師達によって受け継がれ門外不出である為、その価値は他とは桁違いである。襄統派のそれははたして『江湖一』かどうかは定かではないものの、確かに最高の霊薬の一つとしてその効能を謳われていた。
ちょっとした傷を軽視して運悪く命を落とすというのはわりと聞く話である。すぐに医者に見せればどうという事は無いのだが、江湖を渡り、しかも刀剣を携える旅とは得てしてそんなちょっとした事が困難になる事もあり、実際に命を落とす者があるのだ。霊薬とまではいかなくてもこういった薬は必携の品であり、そして襄統のこれはまさに『宝』とも呼んでもおかしくない貴重な物であった。
泰正は一度泰和の顔を見て再び頷き合ってから言った。
「長い時を経て作り出すこの丸薬は、人の傷を癒す為にこの世に生まれた物。霊薬と崇められてただ眺める為に持つ物ではありません。皆さんは恩人です。このご恩に報いるには今の私達にはこれしか無く、そしてこれが最大の物です。どうか受け取って下さい。もしこんな薬を惜しんだなどと我が派の総帥や師父が聞けば私共はとても厳しいお叱りを受けるでしょう。皆さん。もしまた至東山の近くにお越しであれば、今度は是非我が派をお訪ね下さい。受けたご恩は未来永劫、襄統派は大事に致します」
「それはまた……ハハ、随分大袈裟だな。しかしまぁ、これはお言葉に甘えて頂こう」
孫怜は泰正と泰和に笑い掛けながら、小さな巾着を懐にそっと差し入れた。
「んじゃ、さっさと行こうぜ。此処にあまり長居するのもなんだしな」
樊樂が急き立てる様に言う。この場所は街からは距離があるが此処で剣で切り合う程の騒動があった事は通行人に知れているので、役人等を連れて来られては厄介だ。
「北辰は他にこの辺には居ない?」
孫怜は郭斐林に向かって訊いた。郭斐林は首を振り、
「今は居ないかと。しかし湯長老が消えたと知るのは時間の問題。我らも至東山に寄った後、東へ向かうので我らが北辰を引き付けて襄統派には手を出させない様に出来る筈」
「……真武剣派三名で?」
孫怜は僅かに眉を顰める。今居る真武剣派は郭斐林と二人の弟子しか居ない。北辰教は湯長老が消されたと知れば報復に人を増やして遣すに違いない。真武剣派の二人の弟子がどれほどのものかは知らないが、たった三人ではどうしようも無いのではないか。
「いや、他にも我が派の者達が今こちらに向かっていますからご心配無く」
「ほう、真武剣派は皆で東に? 何があるのか知りたい処だが……ゆっくり聞いても居られないので諦めよう。くれぐれも用心なされよ」
「……ええ。あなた方も」
その後すぐに孫怜らは再び街道まで戻った。まだその辺で足を止めている旅人達が林から出て来た者達を怪訝な表情で眺めていたが、それらを無視しながら至東山に向かう郭斐林らと別れた。真っ先に馬の処に戻った胡鉄が言う。
「あいつら呼んで来るよ」
「あいつら?」
「うちの若い衆だよ」
「ああ。忘れてた。ハハ」
胡鉄は街道に残してきた可龍、比庸を呼びに馬で駆け出した。樊樂らも馬に戻り、胡鉄と若者二人が戻るのを待つ。
「おい、怜」
「ん?」
「この先、もう北辰とは関わらんぞ。少なくともこっちからはな」
「ああ、そうだな。真武剣も東へ行くなら、向こうに目が行くだろう。俺達は遣り易くなる。色々とな」
「お前……剣を抜いたのは久しぶりか?」
樊樂は孫怜の顔色を窺うように横目で覗き見ながら訊ねる。
「何故だ?」
「あーいや、何となくお前、さっきの爺さんと遣り合うのに夢中になってたみたいだからな」
「夢中だと? そんな事あるか」
「そうだ。あの爺さんは到底お前の相手じゃない。すぐ終わる筈だった。でもそうしなかったろ?」
「……ここ数年、剣は一応持っていたが使う事などさっぱり無かったが、お前達が来て、それから殷さんの話をしたせいかもな。剣を使うという事を体が思い出し始めた。あとまだ使えるのか、不安もあった」
孫怜は腰に戻したかつて呉琳が用意した宝剣に視線を落とす。
「お前の剣は全く変わってなかった。昔通りだよ」
樊樂は真顔で言い、そして続ける。
「頼むから次からは控えめにいこうぜ。と言うか、次が無い様に注意して進まんとな」
孫怜は樊樂に視線を戻し、苦笑いを浮かべて頷いた。