第九章 二十
「儂らは北辰であると教えたばかりではないか? 東淵での商いは……いや、北辰に仇を成しては無事では居られんぞ?」
湯長老が近付いて来ていた。孔秦と呉程青はすぐに郭斐林の許へ駆け寄り、孫怜に蹴り飛ばされた男らは湯長老の背後に逃げ込んだ。
孫怜は湯長老をじっと見つめ、
「……あなた方が本当に五人だけなら、何とか口を封じる事も出来ましょう」
「フン、ただの商人では無い様じゃな。大した自信。北辰の恐ろしさを分かっておらぬのう」
「確かに北辰教は恐ろしい。しかしあなたを消せばそれも無いに等しい」
孫怜の声がにわかに低く変質し、普段の様子からは全く想像出来ない薄く浮かべる笑みと同時に敵愾心を露にした様な鋭い眼差し。
(怜……)
孫怜の後方で構えている樊樂にはその表情は窺えなかったが、孫怜の身に纏う気の変化は感じていた。
郭斐林はそれをこの場に居る誰よりも強く感じ取る。
「師娘……あの人達は一体?」
呉程青が不安げな声を出して郭斐林の傍に歩み寄ると郭斐林はそれを手で制し、引き続き孫怜を観察する。
(北辰とはどういう関係なのかしら? また得体の知れない――)
ふと郭斐林の頭に一人の男の姿が思い浮かんだ。それは真武剣派が催した英雄大会、それに清稜派木傀風道長と共にやって来た武大という男であった。
(……私は一体どうしてしまったというの? 何故今頃になってこれほどまでに気に掛かる?)
郭斐林は孫怜が一人目の男を始末したその動き――ほんの僅かな動作でしかなかったが――に見覚えがある事を思い出す。武大の時もこれと同じ感覚を覚えたのだった。
(似て非なるもの? この人は歳は私と近い様だけど……我が師と接点があるのだろうか?)
シャッと勢い良く剣を抜く音が聞こえ、郭斐林は我に返った。湯長老が剣を手に孫怜と郭斐林を同時に警戒しながらも話し掛けてくる。
「郭どの。襄統派など儂らは知らぬ。連れて行くが良い。ただ……この男の仲間が素直に応じればのう」
すぐに孫怜も口を開く。
「真武剣派の郭斐林どのですな? 先程、襄統派のお二人にあなたのお名前を教えて頂いた処です。我らがこの者達に襄統のお二人が絡まれているのを見掛けて割って入った処にあなた方が来られた。願っても無い事です。すぐにあの二人をお連れ頂きたい」
郭斐林は『なるほど』と合点がいった。孫怜は既に一人の北辰教徒を殺しておりその仲間である筈がない。もし仲間割れの類であったならば湯長老もその様に言うに違いない。襄統派の弟子に絡んだのはその者らで自分ではないと。
郭斐林はすぐに孔秦、呉程青を連れて泰正と泰和が入って行った林の奥へ向かおうとする。しかしすぐに足を止め、湯長老を振り返った。
「湯長老。剣を抜くなら相手を良く見てからにした方が良かったわね。あなたに、そちらの方の相手が務まるとは思えないわ」
「ホッ、それはどうかのう?」
「まぁ、遣ってみるがいいわ。あなたの腕がこの武林で如何ほどのものか――」
そう言った後、顔を戻そうとした郭斐林の視界に樊樂の姿が入る。先の男、孫怜は襄統派の二人を連れて行けと行ったが、その仲間は同意しているのか? そう思い樊樂の様子を窺う。すぐに樊樂は郭斐林の視線に気付き、腕を上げて林の奥を指し示す。郭斐林は樊樂に小さく頷き返し、再び歩き出した。
「郭斐林様!」
襄統派の弟子二人はそれほど奥まで逃げては居らず、茂みを少し分け入った辺りに身を隠していた。傍に劉子旦と胡鉄も居る。泰正と泰和が郭斐林の姿を見るなり飛び出した。
「二人とも無事? 怪我は無い?」
「はい! この……こちらの方々が来て下さらねばどうなっていた事か……」
泰正が劉子旦らの方に腕を伸ばして郭斐林に引き合わせる。
「あなたが真武剣派の郭斐林どのですか。ご高名は予々(かねがね)」
劉子旦が恭しく礼をするので胡鉄も合わせる形で拱手する。郭斐林もそれに礼で応えた。
「旅の方々を巻き込んでしまい、申し訳ございません。元々あの北辰の者達は我ら真武剣派を目の仇にしておりまして、ずっとこの辺りにたむろしていたのです」
「そうですか。しかし、向こうが少人数で良かった」
「今もあなた方とご同行のお二人があの湯という北辰の者と対峙して居られます。すぐ戻りましょう」
郭斐林は劉子旦と胡鉄を見遣って言った。郭斐林は孫怜の剣技をほんの僅かしか見ておらず近くに居た樊樂については全く知らないが、まずあの湯という老人は孫怜の敵ではないと踏んでおり何の心配もしていなかった。郭斐林も武林の名門真武剣派の高弟で三十年近い武芸の修養があり、彼我の優劣を見極める眼力は並ではない。しかし劉子旦らの手前、放っておく訳にもいかなかった。すると、
「孫さんならあいつらが数倍居たってどうって事無いんじゃないかな」
胡鉄が誰にともなく言う。それを聞いた郭斐林は胡鉄をまじまじと見つめた。
「あなた方は一体?」
劉子旦が慌てて、
「えっと、私達は旅の商人でして……あ、でもあの孫さんという人はその、用心棒として雇っているのです。かなりの剣の腕前で……って、真武剣派の皆さんに比べればそれは、まぁ、その……」
孫怜が用心棒であるというのは間違いでもない。ただ本当は全員が用心棒なのだがそれでは少しばかり変わった集団と思われかねない。やはり旅をする商人あたりが用心棒を付けているとした方が無難である。
「そうですか」
郭斐林は頷いた。用心棒だと言うのなら剣の腕が立つのは当たり前。そうでなければ稼ぎは無いのである。
「とにかく、戻りましょう」
皆再び街道の方へ向かって歩き出す。少し行けば孫怜と湯長老の様子が見える筈である。すると突然、郭斐林が語気鋭く言う。
「此処に居て!」
剣を手にいきなり向きを変え左手奥へ跳躍する郭斐林。
「えっ?」
「師娘!」
残された者達が慌てて視線で追うと、その先には林の奥に向かって駆ける孫怜とそれを追う湯長老の姿が見える。
「何処まで行く! もう良いだろ!」
更に後方で樊樂も二人を追いながら何やら大声を出していた。