第九章 十九
遠目には結構な数の馬が迫って来ている様に見えていたが、土煙が治まってきたその中から姿を現したのはたったの三騎。先頭を駆けて来たのは長剣を鞘ごと腰から外して手に持ち、赤い袍をなびかせた婦人であった。後の二人は若い男女である。
北辰教の男達から少し離れた位置で止まり、辺りをしきりに窺う。
「師娘! あそこです!」
若い男の方が真っ直ぐ林の中を指差している。隣の若い女はその方を見るなり驚いた様子であったが、先頭の婦人はちらと見ただけで正面の北辰教の集団に向き直る。
「襄統派は関係無いわ! すぐに解放しなさい!」
婦人は眼に力を籠めて語気鋭く言い放ち、同時に素早く長剣を抜くと老人に向けた。激昂している様にも見えるが老人に向かってぴたりと止まった剣先と揺るがない視線は泰然と構えており、豪胆ささえ窺える。
「はて、我ら北辰教徒はこの五名しか居らぬがのう? 襄統派は何処か?」
老人は馬上の婦人を真っ直ぐ見返し、静かに答えた。
「では、あの者達は? 関係無いとでも?」
婦人の剣が今度は林の中へと向けられた。
「なんだかおっかねぇ女だな。真武剣だって?」
「はい。あの方は郭斐林様。真武剣派陸総帥の直弟子の方なのです」
尼僧の一人、泰正が樊樂に教える。
「もう心配要りませんね。あの北辰教の者達ではあの方には敵う筈がありません」
そう言って泰正は立ち上がり林の茂みを出て行こうとする。妹弟子の泰和も慌てて泰正に続く。
「お、おい……」
「まだ待て!」
まだ身を屈めたままの孫怜が泰和の纏う深衣の袖を掴み、先を行く泰正に向かって言う。
「だから、あの方は味方で――」
「それは解った。だがまだあそこには北辰の者達も居る。下手に出て行ってはあの郭どのとやらの算段を狂わす事になりかねん」
「それは……そうかも知れませんね」
孫怜の言葉を受けて思い直した二人はまた茂みへと戻った。どうやらこの襄統派の弟子二人はこういった場には慣れていない様である。武林に関わらないごく平凡に暮らす江湖の民であったならばこんな状況に出くわす事自体が殆ど無いのだが、襄統派はその長い歴史を見てもまず敵を作らないのでその江湖の民と感覚は近いものがあるのかも知れない。かと言って襄統派は総帥以下全てが武林の荒事に慣れていないなどという事では決して無い。単にこの二人がまだ若い、それだけの事である。ちなみに、過去に北辰教との対立があったのは真武剣派に追随しただけであり、例外中の例外と言えた。
襄統派の門人が二人。林から出て来ようとした処を男達に遮られ、また虜になってしまった。これほど近くに居るのにこの北辰の男達が関係無いなど有り得ようか?
赤袍の婦人、郭斐林は剣を老人に戻す。
「あなた方、北辰は一体何がしたいの? 真武剣派と再び事を構えるのが北辰、方崖の意向であると受け取っても? 湯長老、いかが?」
「ホッ、それはご随意にのう。ただ……儂らは東の地に籠もって居らねばならんのかな? 此処は武慶とは程遠いが、そなたが此処に居るのはどういう訳か? 東に攻め入らんと? 真武剣郭斐林どの、いかが?」
湯と呼ばれた老人は郭斐林の口真似で返し、連れの男達と顔を見合わせて笑っている。
「では、あそこの襄統派の方をお連れしても構わないわね?」
郭斐林は老人の問いを無視して話を変える。
「何処の事を言っておる?」
老人がそう言い終えたその時、老人の後ろに居並んでいた男達が一斉に泰正らのいる林に向かって駆け出した。
「おいお前ら! どけっ!」
男達は林に駆け込むと孫怜らに向かって怒鳴る。襄統派の弟子を拘束して人質にするつもりで、一緒に居る孫怜と他三名は邪魔すれば切り捨てれば良いだけだ。ただの旅の商人である。
「待ちなさい!」
郭斐林は掴んでいた馬の手綱を放り投げるとそのまま馬上から跳び上がり男達を追う。正面に立っていた湯長老は全く反応せず、そのまま主の消えた馬と郭斐林を師娘と呼んだ若い男女の方を向いていた。二人は郭斐林の兄弟子で夫でもある白千風の弟子、孔秦と呉程青である。郭斐林を追おうとしたが湯長老がじっと睨むので動けない。
「下がれ!」
孫怜は泰正と泰和を劉子旦らに預け、茂みから飛び出すと同時に腰の剣を抜き男達の真正面に立つ。劉子旦と胡鉄が泰正らを連れて林の更に奥へと離れ、樊樂が孫怜の後ろ数間離れた位置で剣を構えた。
孫怜は鋭い光を放つ宝剣を前方斜め下に向けて構える。まだ新しい艶やかな青袍に包んだその身を反らす様に立ち、顎を引いて鋭い視線でもって男達を迎えるその様はどうみてもただの商人では無い。しかし北辰の男達は逃げて行く襄統派の二人ばかりを見ていた。
「どけ! 死にたいか!」
先頭の男が剣を勢い良く突き出す。すると孫怜は僅かに半身になり宝剣を男の剣の先に合わせるかの様に位置を変える。左手を伸ばして男の肩を掴んでそれ以外は全く動いていない様に見えたが、男はそのまま突進し低い唸り声を上げる。孫怜の宝剣は襲って来た剣を這う様にすれ違いそのまま男の胸へ到達していた。
次の男がすぐ後ろに迫っている。前の男がどうなったのかは気付いておらず、高々と剣と振り上げている。孫怜は先の男を支えに勢い良く体を跳ね上げ、足でその腹を突く。その男も『ぐうっ』と唸ると後方へ吹っ飛んで更に後ろの二人を巻き添えにして地面に転がった。全てがほんの一瞬である。
孫怜が最初の男の肩を掴んだ手を放すとその男はそのまま膝から崩れ落ち、最後に顔面から地面に倒れこんだ。既に事切れている。
「おっ、お前……」
仲良く地面に転がった三人の男達は呆然と孫怜を見た。
「いかな一介の旅商人とはいえ、降り掛かる災いは払わねばならん。済まんな」
孫怜は男達をじっと見つめる。持っている宝剣の先端から血が滴り落ちていた。
(旅商人? そんな筈がないわ!)
孫怜の視界の外で、男達を追って駆けつけた郭斐林が驚きの表情で孫怜をじっと観察している。湯長老の言ったとおり、どうやら本当に北辰教とは関係が無かった様だが、それならそれで益々この男の素性に疑念と興味を抱いていた。
(今のは一体……。奇妙……だけどあの剣の使い方――?)
孫怜は剣を『振るって』などいない。単に剣を相手に合わせて持ち上げただけに見えたが、郭斐林には何か引っ掛かる処がある様で自分の手にしている長剣を僅かに持ち上げてそれに視線を落とし、何か考えている様だった。