第九章 十五
「どんな事をしてたのかは聞いてくれるな。頭の悪い餓鬼のする事だ」
劉子旦を見返す孫怜の顔は全くにこりともせず真顔のままだった。そして孫怜は暫く放心したかのように前方を見つめていたが、やがておもむろに口を開いた。
「ある時、俺達は集団に追いかけられて逃げていた時に殷さんに出会った。ハッ、匿ってくれるんじゃなくて俺達を捕まえて奴らに突き出したんだがな」
「悪さしてたんなら当然だな」
樊樂がニヤつきながら孫怜を横目で見ている。
「その後かなり経ってから、皆で殷さんとこに挨拶に行こうじゃないかって盛り上がった。俺達は捕まって散々な目に合わされたんだぞ? お礼に行かねばならんと言ってな。暴れる俺達を簡単に捕まえた男だ。早速俺達は各々得物を用意して殷さんを探し始めた。すぐに見つかったよ。初めて出会った場所の近くで黙々と土を弄っていた」
「本当に農民の出だったんですね……」
「今でもはっきりと思い出す。殷さんは話を聞いているのか聞いていないのか判らないが、ひたすら黙々と作業を続けていた。だんだん俺達は苛立ってきて、そのうち嬋、慕容嬋という女なんだが畑から作物を抜き始めた。あれは何だったか……、そして剣を抜いて刻み始めた。俺達も調子に乗って同じ様にやろうとした瞬間、地面に屈んでいた殷さんの体が急にふわりと浮いた。浮いた様に見えたんだな。気付いたら殷さんが嬋の居た場所に立っていて、嬋は数間先に吹っ飛ばされていた。何をしたのか見えなかったんだが、その嬋は血を吐いて地面にうずくまっていた」
「ひでぇな。女相手にそこまでするか」
「すぐに俺達は殷さんに襲い掛かった。だが……お前達ももう結果は想像がつくだろう?」
「叩きのめされた訳か」
孫怜は少し俯いて笑っている。
「俺達は誰一人まともに剣だの何だのを習ってた訳じゃない。殷さんには赤子の手を捻るどころか指先で突付く程度だったろう。皆、暫く起き上がれなかった」
いつの間にか孫怜の横について進む劉子旦が孫怜の顔を覗く。
「でも、その後は親しくなったんでしょう?」
「すぐには無理だ。それに、嬋の体がやばくてな。本当に死に掛けたんだ。何とか持ちこたえて回復の兆しが見えた頃、どうやって知ったのか知らんが殷さんが俺達の処へやって来た。そして『動けるようになったら四人揃って来い。畑を元通りにして貰う』と言われたんだ。嬋を殺しかけておいて何だと俺は憤慨した。仮に畑の全てを無茶苦茶にしたとしてもそれで殺されるなんておかしいだろう? そう思ったが……結局何も言えなかった。恐ろしくてな。嬋も殷さんを見て怯えてな。知ってるだろう? あの嬋が人を見て怯えるんだぞ?」
孫怜に視線を向けられた樊樂は頷き返し、
「……相当なもんだな。しかし殺されかけたのならあいつでもそりゃ怯えるよな」
「嬋が動ける様になるまでには時間が掛かった。ある日、天佑が『自分が行ってくる』と言い出した。俺は何とか誤魔化して行かないつもりで居たんだが、あいつは行くといって聞かず、もう一人の馬少風って奴も連れて殷さんの処へ行ったんだ。『四人で来い』って言ってたんだから二人だけで行けばまたぶちのめされるんじゃないかと思ってたんだが、聞けば普通に畑仕事をさせられたと言う。それから連日、あいつらは何故か真面目に殷さんの処へ通い始めた。一日を終えて戻ってくる天佑を見てると、『働かされている』といった感が全く無いどころか、むしろ自分で望んでせっせと通っている。どうやら天佑はあのとんでもない強さの農夫に惚れ込んでしまったらしい。自分も手酷くやられたというのにだ。確かに、何処かの由緒ある剣派の者だったならやられるのも当然で深く考える事も無いが、ただの農夫だ。しかも二、三十代と若い。『一体何者だ?』と俺も興味が沸かんでもない。だが嬋がまだ起きられない状況を見ているとやはり腹が立ってな。嬋が動けるようになるまで殷さんの処には行かなかった」
「孫さん、もしかしてそのお二人はまさかあの殷総監から武芸を教えて貰えたのですか? そうでないならずっと畑仕事ばかりでは嫌になる筈でしょう?」
また劉子旦は興奮気味だ。殷汪と言えば江湖では度々『不敗剣』などとも渾名される。それは百槍寨での報復事件の後の事だが、その『不敗の剣』は咸水が襲われてから修行して修めた訳ではなく、その数年前である孫怜と知り合った頃にはもう習得していた筈である。様々な噂が飛び交う江湖、武林に於いて、その武芸を殷汪が誰かに伝えたとは全く聞かれない。太乙北辰教に入ってからも教徒に武芸を教えては居ない。北辰教では七星の武芸が一際抜きん出ているとされているが、それらは七星を名乗った時には既に完成していたもので、しかもそれぞれ全く別の武芸であり、後に入った殷汪とは関係が無い。孫怜の仲間だったという夏天佑、馬少風の二人が殷汪に剣なり何なり教えて貰っていたのなら、今は亡き武林最強と言われた人物の業を受け継いでいるのはその二人だけという事になる。
孫怜は色んな想像を膨らませて楽しげな劉子旦に笑いかける。
「ハハ、羨ましいとでも言う様な顔だな。さぁその頃はまだそんなまともな事は教わってなかった様だな。もっと後になって俺と嬋も殷さんの処へ行った。恐る恐るだったがな。それからだな。色々と教わったのは。やはり嬋がまともに接する事が出来る様になるまでには時間が掛かった。それでも、意外な事に俺達は畑に居るうちにだんだん殷さんに惹かれていった。特に天佑と嬋がな」
「やはり嬋は変な女だな。殺されかけて普通なら顔も見たくないんじゃないのか? 嬋の性格なら絶対殺してやるとか言いそうだけどなぁ」
樊樂は驚いている。どうやら樊樂の印象では慕容嬋という女は相当なすれっからしである様だ。
「……まずそんな気が起きない程、殷さんとの出会いは衝撃的だった。それにもし再び仕掛ければ、次は死ぬ。確かに恐怖だった筈なんだが、……何故だろうな? 今も解らない」
「憎しみが過ぎて、惚れちまったか?」
「ハハ、どう過ぎればそうなる? まぁ近いものがあるのかも知れんが、その後の嬋の殷さんに対する感情はそれとは少し違った様だ。若かったし、憧れみたいなものにはなったかも知れん。惚れたというのはどちらかと言うと嬋よりも天佑だな。あいつは殷さんという存在自体に相当のめりこんだ。一挙手一投足をつぶさに観察する程な」
「でも、畑仕事はさせられたんでしょう? 孫さんも剣とか習ったんですか? 弟子と呼べる程?」
「畑仕事が殆どだった。お陰で俺は今でも自分が食べていけるくらいの物は作れる自信がある。呂州に畑はあるんだ。……やる気が起きなくて放置したままだが」
「でも、今の孫さんの剣術は――?」
「ああ。殷さんから教わったものだ。厳密には『殷さんの武芸』とは違うんだが」
「どういう――」
「お前の様に殷さんの武芸に興味を持つ人間は多い。武林で最強なんて噂になるのだから当然だが……、具体的にどのようなものであったか誰かが言うのを聞いた事があるか?」
「それは……無いですね」
劉子旦は暫く考えてから首を傾げた。