第九章 十二
孫怜と沈斉文は、周漣という者がどんな人物であるのか全く知らない。樊樂の突飛な勘ぐりがどの程度のものであるか、周漣を知る劉子旦や胡鉄の反応で量る。
「……有り得なくは、無い?」
「んん……少なくとも歳は釣り合いそうだなぁ。でも今まで旦那は周漣さんに気があるようなそぶりを見せた事あったか?」
胡鉄が唸りながら劉子旦に言うと、劉子旦も頭を捻った。沈斉文が笑い出す。
「あの若旦那の事だ。お前達にすぐばれるような振る舞いなどするまい? 若い娘なのか?」
「……三十は超えてますね。俺より二つかそこら……若いと聞いた様な。しかし美しい女性です。凄く控えめで。剣を持たなければ、でしょうけど」
劉子旦の説明に樊樂が小さく頷いている。劉子旦は用心棒の中で一番若く三十代も丁度半ば、周漣が嘘を言っていなければ三十を超えているのは間違いない。
「なるほど。ならば若旦那がその気を起こしてもおかしくは無い訳だな。しかし……何も倚天の剣でなくても良かろうに」
「あの風をたった一手で倒すとは、相当なものだ。何処で習得したのかもわからないのか?」
孫怜は風の腕の程を知っており、あっさりとそれを片付ける女は到底只者では無いと考える。武林の名のある門派の出なのか、或いは野に伏せた名手の弟子か――。何の為に周維に同行して城南まで行ったのか? 孫怜は周漣という謎の女に興味を引かれていた。
「私達も直接現場を見た訳では無いので、どの様な剣筋であったかも知りません。剣が持てるという事自体、初めて知りましたし」
「どうだ? 俺の読みはかなりいい線いってないか? 俺達が戻る頃には嫁に、いや、長引けば子が生まれてるかも知れんな」
樊樂はそう言って得意げに皆を見回した。
「まぁ、あっても不思議ではないですけど、そこまで想像するのは気が早いですよ」
「そうなってくれた方が良いかも知れんな。若旦那もいい加減落ち着いてこの稼業に専念して貰えればいう事は無い。太史どのも大喜びだろう」
沈斉文や城南の太史奉など、長年稟施会を切り盛りしてきた者達は周維の当主としての能力については特に異存は無いものの、若さ故か腰を据えてその責務に当たる自覚がまだ足りないと感じている。妻を得て子でも成せば、この前の様に気まぐれでふらりと都までやって来たりする事も無くなるだろうと沈斉文は考えた。
樊樂らが沈斉文と話している間、孫怜は黙って物思いに耽る。
(旦那が来たのと合わせて倚天剣がこの都に現れる……偶然だろうか? 客人で城南に居るという夏天佑という男、まさかあの天佑では? もしそうなら……まだ、殷さんの影を追い続けているのか……)
「今、他は誰も居ないのか?」
樊樂は沈斉文に訊ねた。依然として此処に居る筈である他の連中の姿は見えない。
「ああ、商いの方も忙しいが、ほれ、徐騰探しが厄介だからな。かなり範囲を広げて調べているがそろそろ限界だ。真武剣派が調べた跡を追っかけて取りこぼしが無いかを探る様なものだ。まったく……これも結局は若旦那の遊びの一つだろう?」
稟施会の商いとはまず関係の無い命令であり沈斉文は正直うんざりといったところだが、城南から届いた命令は太史奉が出したものである。周維の思い付きを商いと絡める算段でもあるのかも知れないと考え、大人しく従っている。
「徐騰? それが徐の名か? 武慶の?」
「お前達そんな事もまだ知らなんだのか?」
樊樂らは此処へ来てようやく追う人物の姓名を知る。
「昔、この都に居た者らしいな。だが当時の徐騰を知る者はかなり少なくてな。何故武慶に行ったのかも判らない。東淵に血縁関係のある者が居るそうだが、その他の地名は我々が探った中では出ていない。今はそこまでだな。これ以上の事はこの都近辺ではこの先出て来るとは思えん」
「城南には?」
「もう伝わっているだろう。たったこれだけだが報告しない訳にはいかん」
「ッ……東淵行きは決定かよ」
樊樂は椅子の上で体を仰け反らせてから両手をだらりと下げ、脱力する。予想していた事ではあるが、城南からこの都までと同じ程の行程を今から往かなければならないと改めて考えると辟易してしまう。
「真武剣派だが――」
沈斉文は続ける。
「早々と武慶からこの都近辺は捜索を終えている。これはもう東方しかないと見ている様だが、思う様に進んではおらぬ様でな」
「何故だ?」
樊樂はすぐに体を起こして沈斉文に見入った。捜索を妨げる何かがあるのならば自分達にも関係してくる事は十分に考えられる。
「北辰が邪魔をしているらしい。東方に近付かせぬ為だな。向こうはあからさまにそう言っている訳では無いが、真武剣派の者達が東へ向かおうとすると何だかんだと言って絡んでくるそうだ。実際やりあって怪我人も出ている。真武剣派のみではやはり人が少ない。それらを掻い潜って例えば東淵まで至ったとしても北辰の真っ只中で孤立する事になるからな。無理には進めないという訳だ」
「北辰は、真武剣派が何故東へ行こうとしているのかを知っているのでしょうか?」
孫怜が沈斉文に訊いた。
「確実に知っておろうな。そうなると北辰はすでに徐騰を捕まえたか、或いはまだ捕まえてはおらぬが邪魔になるであろう真武剣派を排除して自分達が先んじようとしているか――どちらかだな」
「いや、待って下さい」
沈斉文の話を聞いて劉子旦が声を上げた。
「まだ捕まえてはいないのでは? もし既に徐を捕まえているなら秘伝書を奪ってすぐに放り出せば良いのです。真武剣派に捕まるなり逃げ延びるなり好きにすれば良いと考えるのではありませんか? 徐が真武剣派に『秘伝書は北辰教に奪われた』と言ったとしても、真武剣派はどうすることも出来ませんし、北辰もそれを解っている。真武剣派が来てもしらを切り通せば良いだけです。真武剣派のみで北辰の相手は出来ません。きっと東へ行くのを妨げるのは自分達が捕まえるから手を出すなという事かと思います。勿論、そんな事を北辰は言わないでしょうけどね。真武剣派は一応表向きには武慶で人殺しをした犯人を捕まえる為に動いている。なぜ北辰が首を突っ込んでくる? という事になりますから。狙いが秘伝書なのはみえみえですがね」
劉子旦の話の後、暫く沈黙が続いた。全員真剣な表情で考え込んでいる。可龍と比庸の若者二人は話をあまり良く理解していないが、孫怜に倣い神妙な顔つきで黙っていた。
「じゃあ……真武剣は今は足踏み状態なんだな」
樊樂が顎をさすりながら顔を上に向けぼんやりと天井を見上げる。
「少しづつは進んでいるぞ。千河幇を動かしているからな」
沈斉文はそう言って再び皆の視線を自分に集めた。