第一章
一
都、金陽から東へと遥か彼方、東淵と呼ばれる街の大通りで一際目立つ楼閣に人々が出入りしている。この街で一番の華やかさを誇る料理店、紅門飯店。非常に豪華な建築で、他所からきた旅人などは入るのを躊躇ってしまう程だが、中の様子は他の街にもある同種の店とは少々趣を異にしていた。開け放たれた正面の入り口から一歩入ると建物の装飾に比べて粗末にも見える卓が所狭しと並んでいて、比較的身形の良い者から薄汚れて破れた着物を纏った者まで、みな一様に酒を飲み、話し込んだり歓声をあげたりしていた。
この大広間の左右の壁に沿って二階に上がる階段がある。歓声はその二階からも溢れ出していた。二階に上がると明らかに一階とは空気が違った。皆、上質の着物を身に纏い、それぞれの前には豪華な料理が並んでいる。調度品も華やかな色彩の物、或いは年季の入った艶を持つ、いかにも高価であろう品々。この店は間違いなく高級料理店だと思わせる雰囲気があった。此処に比べると一階は大衆居酒屋と言ってもよい程の違いがある。
やはりここにも左右の壁沿いに更に上階へと至る階段が付いている。ただ一階と違うのはそれぞれの階段の手前に、剣を帯びた男が一人ずつ立っている事だ。兵士という感じではないが、その眼光は鋭い。服装もこの二階の客と同様、若干華やかな着物で、この場に溶け込んでいる。
階段を登った先、つまり三階に上がった事のある客は殆どいないと思われる。二階に居たこの店の上客たちの中にも居ないのではないか。一階と二階の客達はただ、上の様子について噂するだけである。この店は一階から中央部分が吹き抜けになっており、見上げれば上の階の中央に面した欄干くらいは見る事が出来た。時折、その豪華な装飾の施された欄干を皆で揃って見上げながら「今日はどうだ」「いやまだだ」などと何らかの符丁でも交わすかの様な会話がなされる事がある。
この紅門飯店の名は広く国中に轟いていた。そしてこう言われる。
「もしも東淵に赴く機会があったのならば、何を措いても見ておくべきものが二つある。それは東淵湖に下りる月と、紅門に上る花である」
春が近づき街のあちらこちらで花の蕾が膨らみ始め、都である金陽の街では喧騒の中にもどこか緩やかな時が流れている様にも感じられる。しかしこのような平穏はこの都や官府が強力に支配する一部の大きな街のみで、それ以外は経済的にも貧しく、治水もままならずに毎年天災の被害に遭う。疫病に苦しみ、飢饉に見舞われる無残な街が数多く存在していた。そういった街から逃げてきた多くの難民が都を目指すが、余りにも数が多くその全てが受け入れられる筈も無く、殆どは強制的に追い出されていった。稀に都に住み着く事が出来て浮浪者として生きる者も居るが、果たして彼らの置かれた状況は好転したなどとは、とても言えない。
西門の大通りから程近い路地に、二人の子供が寄り添うようにうずくまっている。間違いなく都の人間ではないだろう。まるで泥で姿を偽装しているかの様に汚れた着物を身に付けている。一人は十より少し大きいだろうか。もう一人は五つ六つほどの子だ。家を持たない子供は珍しくなかった。大抵は物乞いをして生きている。中には窃盗などを働いて役人に捕まる者も少なくないが、そういった子供達は役人に痛めつけられて命を落とすこともある。もともと死にかけているほど飢えているのだ。まさに彼らの命はどこに居ても風前の灯火だった。
二
深夜、西の外れにある酒楼から二人の男が出てきた。酒を飲んでいたようだが、足取りはしっかりしている。店の者が顔を出して覗いていたが、しばらくすると顔を引っ込め扉を閉めた。やっと二人の客を追い出せたのだろう、程なくして店の明かりが消えた。と、次の瞬間、
「泥棒だ!」
先ほどの店から大声が響く。しばらく中でがたがたと物音がしてから今しがた閉まったばかりの正面の扉がはじける様に開け放たれた。黒い二つの人影が躍り出る。
「発! 走って!」
少し大きな人影が叫ぶ。一方の小さな人影は少しもたついていたが、路地を北に向かって走り出した。それを見届けると大きい方は南へ走り出す。
「くそっ! あの餓鬼どもが!」
続いて店の者が飛び出したが、二つの人影はどちらもすでに遠のいていた。追いかけても捕まえるのは難しい。この辺り一体は都の中心から離れた民家の密集している場所だ。路地も複雑に折れ曲がり、隠れる場所はいくらでもある。店の主人が役所に届けるだろうが、おそらくどうにもならないだろう。
発と呼ばれた人影が通りを一目散に駆けていると先程店から出てきた二人が通りの脇にある大きな立ち木の根元に座り込んで話している。こんな夜更けにまだ喋り足りないのか、或いは帰る家がないのか。発は、彼らを気に留める余裕はなかった。というより見えていなかった。ただ、前に道が続いているかどうかだけを確かめられる程度にしか目を開いていない。全く速度を落とさずにその前を通り過ぎたが、少し行った辺りで急に頭を低くして、躓きそうになるのを堪えながらもそのまま倒れこんだ。
「ん……? 何か、すっ転んだか?」
一人の男は髪も髭も伸び放題の老人で、顔を向けて目を凝らしている。
「野良犬か? いや、この通りを真っ直ぐ走ってすっ転ぶとしたらその犬はかなり間抜けだな。何も無い所でつまづくのは人間くらいのものだ。しかしこんな夜中に何だ?」
もう一人の男はまだ若そうだ。夜中に走る者も怪しいかもしれないが、それを言うなら二人も同じだ。二人して地面に跪くようにしている人影を見ているが、ただ見ているだけだった。老人は若い男の方に向き直り、何も見なかったかのように再び話し始めた。
「今回は他にどこもまわらんのか? 宮廷に参るのは明日だったな? 赤い顔して行く訳にもいかんだろうに」
「別にかまわんさ。赤い顔だろうが青い顔だろうが文句は言うまい」
「しかしご苦労な事だ。わざわざお前が出向かんでも長老衆から適当に見繕って使いにやればよいものを。どうせ報告……というより他愛も無い世間話だろうが」
「いや、この事は内部の者でも知るものはおらん。俺と奴、二人だけの話だ」
「おう、そうだ。儂は都に来るのはかなり久しぶりだからな。しばらく留まろうと思うんだが」
「あてがあるのか?」
「そんなもんはどうとでもなるわ。昔はここに住んでおったんだからな」
「まぁ俺もしばらく居ることになる。都は広い。遊んでいけばいいさ」
話が一段落したところで老人が再び通りに顔を向けた。
「ふむ、まだ生きておるようだな。見てみるか」
そう言って老人はゆっくり腰を上げて、うずくまる人影に近づいていった。
三
「おい、お前何をしておるのだ?」
老人がうずくまった人影に歩み寄りながら声をかける。が、返事をしない。
「ん? 口がきけんのか?胸がどうかしたのか?」
どうやら右手で胸を押さえたまま細く細く息をしている。今まで気付かなかったが子供だ。顔が汚れているが良く見るととても幼い。
「おい坊主、いや、坊主かお嬢ちゃんかは知らんが、こんな時間に何をしておる。お前幾つだ?」
「……うっ……うっ」
子供はただ時折小さく呻くだけだ。
若い方の男はしばらく座ったままだったが立ち上がって近寄った。
「どう見てもおかしいだろう。病気じゃないのか」
「このまま死ぬかもしれんなぁ」
「……そうだな」
「見なければよかったのう」
「……そうかもな」
二人はしばらく黙ってただ眺めていた。
不意に民家の影からもう一つ、人影が飛び出した。また子供だ。今度のは少しばかり大きいようだが。老人と若い男は、さっと視線を送ったが身体は動いていない。口を開くのは老人の方が速かった。
「お前、これの知り合いか?こんな夜更けに遊んでおるのか?」
子供はうずくまっている方の子供が苦しそうにしているのを見て驚いて駆け寄った。
「発! 発!」
「こっちは発というのじゃな? で、お前は?」
「発、しっかりして!」
「儂らはこいつを見つけただけだからな。何かしたわけではないぞ」
老人は、必死に発に声をかける子供の顔を覗いた。若い男は黙って発を見ている。
「お前、もう少し声を落とせ。役人が聞きつけて来るぞ。面倒は御免じゃ」
「役人……役人は駄目!」
子供は大きな目を開いて老人を見るなりまた甲高い声で叫ぶ。
「嫌なら少し黙れ!」
うずくまっている発は相変わらずだ。老人は若い男の方を向いて『困った』という顔をしたが、若い男は黙ったまま表情を変えない。
「こんな夜更けにお前達は何をしておったのだ?」
「……」
「お前、名前は何だ?」
「……媛、私は媛です……発を医者に……」
「ほう、媛とな」
再び老人は若い男をみる。男はチラッと老人の顔を見たがすぐに発に視線を落とした。男が口を開く。
「この都で医者を知ってるか?大勢いるだろうが、俺は知らんな」
「ふん……医者のう……」
四
しばらく時間は経っていたが、まだまだ闇夜は深く静まり返っていた。そんな中一軒の屋敷に明かりが灯る。
「なんだなんだ。やっと平穏な日々を手に入れたというに、またおぬしか。今度はなんだ?」
屋敷の奥から現れたのは白い老人だった。顔も白いが、頭も長く垂れた髭も見事に白かった。そして露骨に嫌そうな顔をしている。
「医者に用があるといえば病か怪我に決まっておろうが。それ以外に何がある?」
「おぬしが今まで病で儂の所に来たことなどなかったわい。今度は何だ? 金か? 飲みすぎて金が足りんようになったか? 酒の匂いが屋敷に充満しておるわ」
「儂が用があるのではない。これだ。これを診ろ」
そう言って連れて来た子供を見せる。子供をおぶって来たのは若い男であったが。
「で、金はあるのか? こんな夜中に叩き起こしおって。儂も商売をしておるのだからな」
医者の老人は、医術は商売と言って憚らない。子供には目もくれなかった。
「こいつは平大生といってな、都では随一の医者だ。皇帝を診たこともあるくらいじゃ」
「何を言っても診んぞ。金を見せろ」
「金などもう蔵にたんまり貯め込んであるだろうが」
「この都で金を取らずに人を診たなんて噂になってみろ。儂はごまんと居る病人に全てを毟り取られてしまうわ」
子供を連れて来たほうの老人は平老医師に少し待てというように手のひらを見せて、もう一人の子供に尋ねた。
「おい媛とやら。金はあるのか?」
「……ありません」
媛は発の手を握り締めながら消え入りそうな声で呟いて俯く。発の方は先程よりは幾分落ち着いてきたようだがまだ顔をしかめている。
「金が無くて死んでいくものは大勢居る。そういう世だからのう」
平は全く人の情など持たぬといった風で、よくその歳まで医者でいられたものだが余程の腕があるのだろう。
「俺が出そう。とりあえず診てもらえないか」
今まで黙っていた若い男が口を開く。そう言って懐から金を一分取り出した。
「足りなければ言ってくれ」
「ほう……なんじゃおぬし、新たな金づるを見つけたのか。まぁ仕方ないな診てやるか」
平は老人に向かって言うと子供に近づいた。
「おい小僧、どこがどうおかしいんじゃ?」
発が口を開こうとしたがすぐに声が出ない。
「それを調べるのがお前の仕事じゃろうが。ボケて診かたがわからんようになったか?」
「素人は黙っておれ!」
ぶつぶつ言いながら平は発の身体をあちこち触れたり押したりしていた。媛はずっと発の傍を離れなかったが、老人と若い男は部屋の隅の長椅子に腰を掛け、診察の様子を眺めていた。
五
平大生が繰り返し具合を尋ねるが、発はどうしても声を出せない。
「何とか言わんか小僧!」
媛が代わって言う。
「弟は胸を患っているんです!」
「お前達は兄弟か」
「なんじゃ、おぬしらこの子供らを知らんのか。どこの子だ? 親はどうした?」
「そんなもんは知らぬわ。ほれ、はよう診んか。金は渡したのだからな」
「おぬしの金でもないのに偉そうに抜かすな!追い出すぞ!」
見た所この医者はかなり歳をとっている。ここまで怒りっぱなしでよく事切れないものだ。会話の様子から察するに、二人は古くからの知り合いであるようだ。仲は悪そうだが。
「ふむ、この子は肺を病んでおるな」
「さっきこの娘が申したであろうが」
「胸としか言っておらんわ!」
媛はハッと身を強張らせた。老人が自分のことを「娘」と言ったからだ。しかしよく考えてみれば、ただ酷く汚れているだけで、男の振りを特別気を使ってやっているわけでもなく、ばれるのは当たり前だ。今までは男か女かを気にする以前に、誰もこの姉弟に近づこうとしなかっただけだ。
「とりあえず薬を出してやる。この病は時折発作を起こすがしばらくすれば治まり、それを繰り返す。ひたすら安静にするしかない。家はどこだ?」
平大生が媛に尋ねる。
「安県……」
「何? 安県!? 安県からわざわざ旅をしてこの都まで来たのか?お前ら二人だけか?小僧の病は安県に居た頃から患っておるのか?」
「……はい」
「馬鹿なことを……。死出の旅じゃ!わざわざ命を縮めに来るとは!」
平大生は呆れた様に溜息をつく。
安県はここ金陽から遥か南に二千里。子供だけで来たというならおそらくふた月以上かかったのではあるまいか。
「まぁ都一の医者に診せたんだからな。どうだ、直るのか?」
「直らんわい!」
「え?」
媛が驚いて老医師を見た。
「この病は直らん。薬で進行を遅らせて、後は死ぬまで安静にするだけじゃ」
「そんな! ……発……発!」
発の身体にすがり付いて媛は泣き出した。
「すぐ死ぬわけではないのだな?」
「そうだ。しかし幼い子供は進行がはやいからのう、何とも言えん」
「なんじゃ。それでよく都一の名医と言えるな」
「わしが名乗ってるわけではないわい! もしこれが直せるようになったらわしは医神を名乗ってもよいわ」
その後誰も口を開かなかった。ただ媛の泣き声だけが屋敷に響いた。
六
「もうじき夜も明ける。どこかその小僧を休ませる家でも探して連れて行くんじゃな」
平大生はそう言って部屋を出て行こうとする。
「何じゃ病人を追い出す気か? 行く所など無いに決まっとろうが」
「ここに居てもどうにもならんじゃろうが! この都に留まって、たまに薬を取りに来い! 金を持ってな!」
「あーわかったわかった! おい行こう。これ以上あの爺と居ると儂らまでおかしくなってしまうわい!」
老人は勢いよく立ち上がって一人さっさと部屋の外に出て行ってしまった。じっと発の手を握って傍に付いていた媛はどうしていいのかわからない。
「薬がなくなったらまた来ればいいのか?」
ずっと黙っていた若い男が発を抱きかかえながら尋ねた。
「そうじゃ。ちゃんと飲ませんとすぐ死ぬかもしれんからな。忘れるなよ。死ぬまでな」
もう媛は言葉も無い。涙も枯れてしまっていた。ただ、呆然と老医師を見送っていた。
「おい、行くぞ」
若い男は発を負ぶって部屋を出る。媛は力の無い足取りでついて行った。
「全く……こんな所に来た儂が馬鹿であったわ! あんな爺の顔を思い出すとは! あー腹の立つ!」
先に表まで出ていた老人が門の前の立ち木に蹴りを喰らわせている。高さが門の倍以上ある巨木だが見れば先端まで激しく揺れている。尋常な力ではない。
「どうする?」
若い男は老人の怒りを無視するように短く聞いた。
「ふぅぅ……。そうだな、……おい、お前達、今日までどこにおったんだ?」
「……どこかわかりません。夜遅くなったら民家の傍で寝てました……」
「……そうか」
老人は白髪を撫でながら黙ってしまった。
「しばらくこの都に居ると言ってたが、どこに泊まるつもりだったんだ?」
と、若い男が老人に聞いた。老人は口をへの字に曲げてしかめっ面をしている。
「考えとらん。わし一人ならなんとでもなるが……病人ではなぁ」
「とりあえず都は離れられんな。薬が要る」
「あれの出す薬が効くものか! 毒でも盛ってあるかもしれん!」
「都一の医者じゃなかったのか?」
「昔はな。今は知らん」
ずっと発の横に張り付くようにして話を聞いていた媛が口を開く。
「どうもありがとうございました。薬も頂いて……。私達はこのあたりに居ます。今までずっとそうやって生活してきました。発の病も前からこんな状態でしたので……覚悟はできているんです。」
後半は涙声になっていた。
「いかん! ここまで関わったからには放っておく訳にはいかんぞ。この洪の名声が地に落ちてしまう」
この老人の名声がいかほどのものか媛は知る由も無い。
「洪様と仰るのですね。しかしご迷惑はかけられません」
「迷惑?迷惑じゃと? とうに迷惑を被っておる! そんなもんは関係ないわ。いいから来い!」
ここで初めて名乗った洪老人は歩き出す。若い男は発を負ぶったまま黙って老人についていく。媛は発と離れまいと同じく黙ったまま従った。時折冷たい風が皆の頬を撫でて行く。
七
流石に小一時間も歩き続けていると手足が冷たくなってくる。この金陽の都では真夏以外、夜は肌寒く感じる。
「で、結構歩いてきたがどこに向かってるんだ?」
洪老人は黙ったまま一人先を歩いているが、どこかに向かっているようには見えない。何度か同じ場所に出たりしている。若い男の方に近づいて少し小声で話しかけた。
「お前はどこで寝るつもりだったのだ? そこへ行こう」
媛は若い男が背中に負ぶっている発のすぐそ傍に居て、洪老人の言葉ははっきりと聞こえている。
「決めていたわけではないがな。まぁ行ってみるか」
今度は若い男を先頭に、媛と老人が続く。
媛が若い男に向かって尋ねる。
「あの……あなた様のお名前は何と仰るのですか?」
若い男は何も言わない。すぐに洪老人が口を開く。
「こいつはな、か……夏天佑と云う名だ。わしは洪破天だ」
「私は、梁媛、弟は梁発です」
今頃になって初めて名乗りあう四人。発と若い男は何も言っていないが。
「安県から来たと言うておったな。よくここまでたどり着いたものだ」
洪破天は先頭を夏というらしい若い男に代わりただついて行けば良いだけになって、先程とうって変わって口が軽やかになったようだ。
「ずっと二人で旅をしてきたのか?」
「最初は……もっと大勢でした。知らない大人の人達でしたけど、みんな安県を捨てなければならない人ばかりだったんです。私達は都に向かうとか考えてなかったけど、ずっとついていきました。でも、途中ではぐれてしまって……都に着いたときは九人でした。今ではその人たちもどこへ行ったのかわかりません」
(親は……おらんのだろうな……無事だったら今こんな所におるわけがない)
「安県か……遥か昔、若い頃に行ったことがあるが、そこまでひどい事になっておるのか……しかしよく無事だったな。おう、そうじゃ、お前は武芸ができるのか?」
「え?」
「ほれ、安県といえば黄龍門の……ほれ、何じゃ?」
洪破天は額をピタピタと叩きながら記憶を探っている。梁媛は思いがけず出てきた故郷の誇りとも言える名が出てきたことに嬉しくなった。
「良くご存知なんですね」
「黄龍門は有名だぞ? 安県周辺は赤子から年寄りまで得物を取ってやりあう物騒な所だとな」
「……」
梁媛は俯いて黙ってしまう。。
「冗談じゃ、冗談じゃ。黄龍門の門弟以下、住民までも立ち上がって安県に巣食っておった賊を一掃したんじゃろう? 安県黄龍門の名はこの都にも轟いておる」
そう言って梁媛の顔を覗き込んだ。梁媛はそれを聞いてまた嬉しくなり思わず顔が綻ぶ。
「笑ったのう。笑ったのう。ハハ、ハハ」
そう繰り返して洪破天も笑った。
「私も発も、剣を習ってました。でもそれほど本格的というわけではないんです。ほんの基礎を黄龍門の門弟の方々が教えて下さるんです。でも段々生活自体が苦しくなって、剣の練習どころではなくなって……。」
「何とも惜しいことよ。まさか黄龍門まで潰れてしまったのか?」
「いえ、今も安県に……多分」
「そうか……」
その後は二人で黙って梁発を挟む様に並んで夏天佑について歩いていた。
八
夏天佑が一軒の宿屋らしき建物の前で止まる。
「ここだ」
まだ明かりは点いている。大抵の都の宿屋は一晩中開いている。常に都は多くの人間が出入りしており、夜中に都に着く者もいるからだ。ここはそれほど大きな宿ではないようだが、おそらく今夜も客が休んでいることだろう。
「まだ酒はあるかのう?酔いが醒めてしまったわい」
そう言って洪破天は先に中に入っていく。三人も後に続いた。明かりは点いているが、誰もいなかった。客はとうに眠っている時間だ。
「誰かおらんか?」
洪破天が厨房を覗いたりしながら店の者を探す。すると奥から誰か出てきた。
「はいはい、お泊りですか?」
店は開いたままなので仮眠でもしていたのだろうか。店の主人らしき男が目を細めながら夜更けに現れた客を見る。そしてすぐに目を倍以上に見開いた。
「あっ……!」
何を言いたいのかわからないが店の主人がものすごく驚いているのは梁媛にもわかった。夏天佑が洪破天に向かい、
「洪兄、俺は何て名だったかな?」
と聞く。
「あー……夏! じゃ! 夏……儂は何と言うたかの?」
洪破天は梁媛に尋ねる。
「……夏天佑様とお聞きしましたが?」
「おお、そうじゃなそうじゃな」
「俺は夏。夏天佑という。しばらく部屋を貸して欲しいんだが」
店の主人は相変わらず口が開いたままだった。
「か……夏天佑様……?」
「そうだ」
「は……はい、部屋は一部屋空いてございますが……」
夏天佑は再び洪破天を見る。
「一部屋か……そうじゃな、一部屋でよかろう。ちょっと広めの部屋がよいのう」
「一部屋しか無いんだから広いも狭いもないだろう」
「わかりました。すぐ支度を致しますので」
「待った! その前に酒をくれんか。安いやつでよい。飲んで待つことにしよう」
「酒はございますが、料理の方は……」
「酒だけで結構。夜が明けたら飯をもらおう」
「かしこまりました」
主人は厨房に戻り、すぐに酒を運んできた。
「それではお部屋の用意をしてまいりますので……」
洪破天は早速手酌で飲み始めた。
「ゆっくりでよいぞ」
梁媛は梁発を近くの長椅子に寝かせ、自分の上着を掛けてやっている。店の主人は夏天佑の顔を少しだけ覗き見る。夏はその瞬間、主人の目を真っ直ぐに見た。主人はあわてて、
「で、では……」
と逃げるように小走りで部屋の方へ向かった。
「なんじゃろうのう?」
「俺かあんたを知ってるかもな」
「お前はここを知っておったのだろうが」
「ああ、人に聞いた」
「わからん。まあどうでもよいわ」
広間には四人しか居ない。しばらくの間静かな時が流れていた。
九
ようやく酒が効いてきたのか、洪破天は卓上に頬杖をついて梁媛と梁発の姉弟を眺めていた。
「汚い格好だのう」
「……すみません」
「ぼろぼろで寒くないか?」
「寒いですけど、これしかありませんから」
「発は辛かろう、これを掛けろ」
洪破天はそう言って自らの長袍を脱ぐと梁媛に差し出した。
「ありがとうございます」
梁媛は梁発に掛けていたぼろぼろの汚れた上着を取り、受け取った長袍を梁発に掛けた。しばらく洪破天は、またさっきと同じように眺めていたが、
「……もう少しマシな服を買ってやるぞ」
そう言うと卓に頬を乗せて眠ってしまった。梁媛は黙ったまま静かに寝息を立て始めた老人を見る。夏天佑の方は何か考え事でもするかのようにじっとして、時折酒を口に運んでいる。梁媛が視線を自分に移した事に気付き、こちらに顔を向けた。
「今日も生きられたな」
「……はい」
夏天佑はまた視線を戻して酒を注ぐ。梁媛は急激に悲しみに囚われる。とにかく生きるのに精一杯な毎日だった。
(今日は生きられた。明日は……)
「媛。明日も生きるぞ。発もな」
夏天佑は何故そんなことを急に言い出したのだろう。しかし、梁媛は心の中で繰り返した。
(明日も、生きる)
「もう、今日だがな」
奥から店の主人が戻ってきた。
「お待たせして申し訳ありませんでした。寝台を四つ運び込むのに手間取りまして」
「よし。行こうか」
夏天佑は立ち上がって梁媛に声をかける。梁発は既に落ち着いて眠っている。そっと抱きかかえて主人の方へ歩き出した。
「この爺さんは後で連れて行く」
「それでは、こちらでございます」
店の主人の後について部屋へ向かった。部屋は質素だが落ち着いた感じの綺麗な部屋だった。夏天佑は梁発を一番奥の寝台に寝かせてから、
「お前ももう寝ろ。心配はいらん。服の汚れを払ってから寝台に上がれよ」
梁媛に向かってそう言って部屋を出て行った。洪破天を連れてくるのだろう。梁媛は部屋の隅に掛けてあった手拭でボロボロの上着の汚れを払うと、梁発の寝ている隣の寝台に横になった。梁媛と梁発、二人だけの生活の中に突如現れた二人の人間。この先どうなるかわからないという不安が媛の頭一杯に広がっていたが、身体は疲れ果てている。梁媛はすぐに眠りに落ちていった。その後しばらくは広間の明かりは灯っていた。
「どうした?昔でも思い出してるのか?」
洪破天は目を覚ましていたが相変わらず眠そうで眼は殆ど開いていない。
「もう十数年になるのぅ。忘れておったわ……」
「もうあの子らは部屋で休んでるぞ。俺達も行こう。風邪をひくぞ」
「おう」
洪破天はゆっくりとした動作で腰を上げ、夏天佑と並んで部屋へ歩いていった。
十
春らしい暖かな日差しが窓から差し込んでくる。どうやらもう昼のようだ。梁媛が横になったまま隣に目をやると、隣の寝台は空っぽだった。反対側の寝台にも誰もいない。ハッと息を呑んで上体を起こす。それから昨夜この宿に来たことを思い出したが、梁発は何処へ行ってしまったのかと急いで寝台を降りると部屋の外へ飛び出した。ここは二階で部屋の前の廊下の端から大きく弧を描くように階段が一階に伸びている。下の広間では食事をしている泊り客や、茶を飲みながら歓談に興じる老人達、近所の者だろうか。梁発も、洪破天も、夏天佑も見えない。梁媛はあせって階段を駆け下りる。近くにいた客は怪訝そうな顔を向けたがすぐに顔を戻した。丁度店の主人が広間に出てきたところだった。
「あの、すみません。弟は……昨夜一緒に来た人達は何処へ行ったのか知りませんか?」
「あ、表に居られるんじゃないかな? ……と、と思います」
主人の話し方はどうも変だ。昨夜もどこかおかしな様子だったが、何故かはわからない。梁媛は軽くお辞儀をすると表に向かった。主人も丁寧にお辞儀を返している。
もう既に陽は高くなっている。表の通りは多くの露天が立ち並び、人でごった返していた。
「おう、こっちじゃこっちじゃ。ようやく目が覚めたか」
見ると宿屋の軒下に並べてある長椅子に洪破天と梁発が座っていた。
「発、大丈夫? 苦しくない?」
「もう苦しくないよ」
梁発は肉饅頭を頬張っている。
「起きたばかりか? お前も食うじゃろう?ほれ、そこで売っておる。これで買って来い」
洪破天はそう言って梁媛に金を渡す。梁媛は少しばかり戸惑っていたが、洪破天に大きく頭を下げてから湯気の立ち込める屋台に走っていった。
「姉ちゃんは余程腹が減っておったようじゃな」
洪破天は梁発の頭を撫でながら目を細めて梁媛の後姿を見ていた。梁発は通りを行く人や物と肉饅頭を交互に見ながら黙々と食べている。しばらくして戻ってくる梁媛を見つけた洪破天、
「ほれ、姉ちゃんが饅頭を抱えて嬉しそうな顔して戻ってくるぞ」
そう言って梁発に顔を近づけて梁媛を指差す。梁発も梁媛の顔をみて笑った。梁媛は気付いていない。肉饅頭を眺めているからだ。
「何じゃ、よだれ落としそうな顔で戻ってきたのにたった一個しか買っておらんのか。もっと買えたじゃろう? 遠慮はいらん。わしが買ってこよう。座って食え」
「よだれ……」
梁媛から釣り銭を受け取ると今度は洪破天が屋台に向かった。梁媛は梁発の隣に腰掛けると、梁発と同じように肉饅頭を頬張った。
「発、肉が一杯入ってるね。ご馳走だね」
「うん。美味しいね」
肉が多いといっても所詮は饅頭で、あっという間に腹に収まってしまうが、二人にとっては久しぶりの『まともな食べ物』である。
「発、昨日の事、ちゃんとお礼言った?」
「うん。……これからもずっと一緒に居るの?」
「え?」
「あのお爺ちゃん、ずっと一緒に居てくれるのかな?」
「それは……無理よ……」
食べかけの饅頭を持った手を膝に下ろし、寂しげな面持ちになる梁媛。ただ梁発が倒れた場所に居合わせて、親切にも医者に連れて行ってもらい、宿にまで泊めてもらった。しかしそれだけだ。この先ずっと洪破天がこうして食べさせてくれるなどと考えることはあまりにも愚かな事である。この饅頭を食べ終えた途端、洪破天がどこかへ去っていったとしてもおかしくは無い。梁媛はとても寂しく、そして惨めな姉弟である事に変わりは無いという現実に打ちのめされていた。
十一
その後はあまり宿屋を離れず、陽が落ちるまで周辺をただぶらぶらしていただけだったが、梁媛、梁発の二人には初めて目にするものも多く、飽きることは無かった。やがて夜になり宿に戻って晩飯を食べると三人は部屋に戻った。洪破天は酒を持っていくのを忘れない。
夜も更けてきた頃、ふらりと夏天佑が宿に戻ってきた。朝からどこかへ出かけていたようだ。広間の奥の椅子に腰掛けて黙っている。少ししてから宿の主人が広間に出て来ると隅に居る夏天佑に気付き、一瞬身を強張らせて固まっていたが、意を決したかの様に夏天佑の元にやってくる。
「お、お帰りなさいませ。お食事は済まされましたでしょうか?」
夏天佑は主人が広間に出て来た所からじっと見ている。
「いや、まだだ。麺を少し貰おうか。少しな。あと、酒をくれ」
「はい。かしこまりました。暫くお待ちを」
神妙に聞いていた主人は深々とお辞儀をすると足早に戻っていった。辺りに目をやると客が二人、夏天佑とは離れた場所で酒を飲みながら話しているが、声は聞こえなかった。
「お待たせいたしました」
主人は余程急いだのだろう。しかし卓上に碗を置く時はまるで音を立てないように注意を払っているかのように慎重に置いた。
「早いな。座ってくれ」
「え?」
「そこに座ってくれ」
夏天佑は主人が立っている前の椅子を指差した。
「は、はい」
主人は緊張しきって震えているように見える。
「あーすまんが酒杯をもう一つ持ってきてくれないか」
「は、はい!」
椅子を引いて腰を下ろそうとしていた主人は夏天佑の言葉を聞くと飛び跳ねるように立つと大急ぎで戻って酒杯を取ってきた。
「すまんな。まあ座ってくれ」
主人はお辞儀をしてから先程の椅子に腰をかけたが背筋をピンと伸ばし夏天佑を真っ直ぐ見ている。その様子を見た夏天佑は微かに笑った。
「あんたも飲んでくれ。」
今持ってきた酒杯に酒を注ぐ。続いて自分の杯にも注いでから一口飲んだ。主人は固まったまま動かない。それを見て夏天佑は口を開いた。
「方崖に行ったことあるかい?」
「えっ?」
「方崖で俺を見たんじゃないのか?」
それを聞いた主人はまたも飛び上がるように立ち上がった。体が円卓に触れ、ガタンと円卓が持ち上がり酒杯が倒れそうになったが、すかさず夏天佑が掴んだ。
「も、申し訳ございません!」
主人は円卓の傍で跪こうとする。
「やめろ! 座れ!」
夏天佑は大声は出さなかったが鋭く低い声で言った。
「座ってくれ」
広間に居た二人の客が訝しげに顔をこちらに向けていた。
十二
宿の主人は震えながら椅子に座る。夏天佑は溜息をついて天井を見上げた。
「なぁ、俺はそんなに怖いかい?」
「そ、そのようなことは……」
「あんた名は?」
「私は、史と申します。」
「史、何だ?」
「はっ!史小倚と申します!」
相変わらずこの史という主人は背筋を伸ばし、口以外は固まっている。
「史さんよ。この都には教徒は多いのか?」
「いえ、私の他には……五、六、六名居ります」
「これだけ多くの人間が居るのに六人か。まあそうだろうな……飲んでくれよ」
そう言って史の顔を見る。
「はっ。頂戴致します」
史は勢いよく目の前の杯を取ると一気に飲み干してしまった。
「……なぁ史さんよ。普通にしてくれよ。俺はそんなんじゃないんだ。それに宿を世話になってるしな。史小倚の名は覚えたぜ?」
「は、はっ! 有難き幸せにございます!」
「……好きにしてくれ」
夏天佑は少しぬるくなりかけている麺を食べ始める。暫くこちらの様子を伺っていた客は二人が普通に話し始めたのを見届けると顔を戻した。
「で、俺のことを誰かに話したか?」
「いえ、あ、いや、私めは何も存じておりませんので、一切誰にも申しておりません」
「そうか。いやまあ、別にいいんだけどな。他の六人も方崖に行ったことが?」
「勿論でございます。皆、太乙北辰教に忠誠を誓っておりまする」
史の背中が更に弓形に反っている。
太乙北辰教というのは数百年前この国の東北部に興った信仰で北辰が万物の根源であるとする宗教であった。初期は純粋な信者の集まりであったが、徐々に変質して国の各地から流れてきた者たちが信者を名乗って集団を作り始め、およそ百年ほど前、太乙北辰を名乗る組織全てが併呑されると武林でも注目を集める大勢力となった。そして現在もその勢力を拡大している。信仰は既に無く、太乙北辰教という名前と、組織に所属する者を教徒、そしてその首領を教主と呼ぶことだけが受け継がれているだけだ。実態は強大な武装集団となっている。とは言っても北辰教徒達は普段はそれぞれ生業を持って生活をする庶民であって、軍のようなものではない。
「あんたらはこの都で何か役目があるのか?」
「いえ、特にはありませぬ。ここに居る教徒は皆この土地の者でして、この都で商いをしております」
「ふうん。俺がここに来たのは蔡長老に聞いたんだ。教徒がやってる宿とは言ってなかったがな」
「左様でございましたか。蔡長老様はこの都の御出身でございまして、私どもはよく存じ上げております」
「ほう、そうだったのか。……あんたらは北辰教徒であることは隠してるのか?」
「それは……その、この都では……」
「そうだな。その方がいい。と言うより、ここで名乗って商売はできんわな」
夏天佑は麺を綺麗に平らげて酒壷を持つと再び史と自分の杯に酒を注いだ。
「俺は明日……いや、明後日だな。都を発つ。洪破天は知ってるか?」
「や、やはりお連れ様は洪破天様でしたか。勿論存じ上げております」
「あの爺さんと連れの子供二人、もう暫く……いや、かなり長く逗留するかもしれん。わからんが。構わないか? 宿代は払う」
「お、お代などとんでも御座いません。誠心誠意、お仕えさせていただきます」
夏天佑は苦笑した。
「いや、普通にしててくれ」
離れて座っていた客二人が立ち上がった。
「親父、勘定置いとくぞ。おい親父」
史は夏天佑を見たまま動かない。
「行ってくれ。俺はもう寝る」
そう言って夏天佑は立ち上がりまだ残っている酒壷を手に取る。
「部屋に持っていくぞ?」
「はいどうぞどうぞ」
二人の客は史が全くこちらを向かないので少し腹を立てたようだが、
「置いといたからな。盗られても知らんぞ」
と言って外へ出て行った。史は夏天佑が部屋に入るまでずっと直立不動のままだった。
十三
夏天佑が部屋に入ると洪破天はまだ酒を飲んでいた。梁媛、梁発の二人は横になっていたが、梁媛は物音に気付いたのだろうか、寝台の上で起き上がった。
「さすが耳が聡いな。技だな」
夏天佑はそう言って笑うと梁媛は恥ずかしそうに少し微笑んだ。
「遅かったのう。引き止められたか?」
「いや、少し前に戻ったんだが下で少し腹ごしらえをな。酒、まだあるぞ」
持って上がってきた酒壷を洪破天の前に置いた。
「そんなにいつもお酒を飲んで、大丈夫なんですか?」
梁媛は洪破天がいつも飲んでいるのを見て心配になった。
「そうだな。この爺さん、お前達に会ってから酒が入ってない時は無かったな。今日も飲んだろう? 医者に言った時は既に腹に入っていたしな」
「儂の体は血ではなく酒で動いておるのよ。気を巡らせば更に蒸留させることができる」
「そんな話聞いたこと無いな」
その後は梁媛が今日見た都の様子を夏天佑に聞かせたりしながら時間が過ぎていく。梁媛は梁発の前では落ち着いた姉の様だが、やはり子供だ。しかも都に着いてからまともに街を見て回る事など無かった筈である。どこの建物が綺麗だったとか面白い人が居たなどと顔を上気させながら話している。夏天佑が洪破天を見遣ると、目を細めて見たこともない柔和な面持ちで梁媛を見ている。
(どうなっちまったんだ? この爺さんは。人を切ったって眉一つ動かさねえ癖に。この子はそんなに孫娘に似てるのか?)
十年以上前に洪破天は孫を亡くしている。相当美しい娘であったと洪破天は言っていた。それは本当かどうか知らないが、確かにこの梁媛という娘もどうやら並みの器量ではなさそうだ。ただ、今は髪も整えられず、ぼろぼろの格好だが。夏天佑は梁媛を見ながら、
「明日、お前達の着物を買いに行くか。その格好で表通りは逆に目立つからな。」
と言った後、洪破天を見る。
「おうそうじゃな。全く遠慮はいらん。明日、見に行こうな」
梁媛は必ず遠慮すると思い、洪破天は少し強くそう言うと、自分の寝台にさっさと横になった。
「あの……」
梁媛が夏天佑に何か言おうとしたが夏天佑は顔の前で右手を振って、
「これも縁だ。心配することは無いぞ。あの爺さんは信頼していい。人生、別れもあれば出会いもあるんだ。ちゃんとな。俺も休むとしよう」
「……はい」
夏天佑が寝台に上がるのを見てから、梁媛も横になると涙が不意に溢れ出した。悲しい涙ではない。初めてかもしれない、嬉しい涙だった。
翌朝、宿で食事を摂ってから四人は街へ出た。老人と若い男と子供二人。爺さんと息子と孫に見えなくもないが、どうも違和感がある。この親子、揃って女房に逃げられたといった感じだ。出る前に宿の主人に聞いておいた衣料品店に来た。ここの主人も宿の主人史小倚の仲間らしい。中に入ると店には中年の女が一人だけだった。
「あんた、この店の人かい?」
夏天佑が尋ねると、四人の値踏みするかのような目つきでこちらを見てから、
「ああ、そうさ」
と、愛想の無い返事をする。
「この子らに綺麗な服を着せてやりたいんじゃが、見てもらえるか」
洪破天は梁媛、梁発を前に押しやりながら、店の女に言う。
「うちに安い服は無いよ。高級な着物を扱う店だからね。その襤褸の服の変わりになりそうなもんは無いねぇ」
店の女は『お前達に売るものは無い』と言っているのだ。
「あんたらあっちこっち触って汚さないでおくれよ」
そう言うと、店の売り上げの台帳だろうか、パラパラと捲りながら四人を視線から追いやった。
十四
「か、金はあるんだぞ」
洪破天の声が若干高く、わずかに震えているのはこみ上げる怒りを抑えているからだろう。しかし時間の問題だ。この爺さんは次に言葉を発することは恐らく無く、あの女に飛びかかるだろう。
「ここのご主人は居られるか?」
夏天佑が女に尋ねる。
「ああ、居るよ。」
「呼んで頂きたいんだが」
「服を売るなら客と私が居れば問題ない……」
「用があってな」
夏天佑は静かだが鋭く語気を強めて女を見る。女はその鋭い気に飲まれて一瞬固まったが、黙ったまま店の奥に入っていった。
「媛、発。ここは服の種類が多いな。どんなのが好きだ?見てまわると良いだろう」
梁媛達が不安そうに夏天佑の顔を見上げたが、洪破天が二人の手を取って、
「さ、こっちじゃ。飾り物も一杯あるのう」
そう言って連れて行った。
少しして店の奥から男がやって来る。顔も体も丸く、派手な金の刺繍がその太鼓腹に広がっている。夏天佑の顔を見るなり「あっ!」と驚きの声を上げた。宿の史小倚と全く同じ反応だ。
「史小倚に聞いてきたんだが」
「私共の店にお出で頂き、誠に恐悦至極!」
「俺は今『夏天佑』で、ただの客だ。そういうことで頼む」
「……は! かしこまりました!」
「あんたの名前は?」
「王喜勝でございます」
夏天佑は小さく頷いた。先程の女が王喜勝の後ろで訳が分からないといった面持ちで夏天佑を覗き見ていたが、近づいて夫の袖を引く。
「ねえ、こいつ誰なんだい?ちゃんと金持ってるんだろうね?」
「ばっ! 馬鹿者が! 引っ込んでおれ!」
王喜勝は凄まじい剣幕で女を奥に押し込む。蹴りでも入れそうな勢いだ。夏天佑に向き直り、
「大変失礼を致しました。申し訳御座いませぬ」
と、素早く床に跪いた。大きな丸い着物が床に転がっているように見える。
「いや、かまわん。あんたの嫁か?今の俺達はどう見ても金持ちには見えんからな。」
王喜勝は押し黙ったままぴくりとも動かない。
「さて、服を見てもらいたいな」
「はっ! かしこまりました」
もぞもぞと立ち上がった王喜勝は商売人の笑顔を取り戻していた。
洪破天は手もみしながらやってくる派手な男を見てにやりと笑うと早速、
「この子らに綺麗な着物を着せてやりたいんじゃ。一着では足りんな。二、三着ずつ欲しいのう」
そう言って梁媛、梁発の後ろに回った。夏天佑が王喜勝に向かって、
「あんたに任せるよ。頭のてっぺんから足の先まで全部だ。派手過ぎず落ち着いた装いにして欲しい。時間はある。ちゃんと金も払うからな」
と言うと王喜勝は梁媛、梁発を眺めてから胸を張り、
「かしこまりました。私めにお任せくださいませ。」
そう言って梁媛、梁発に、
「まずはこちらで御座います」
と、付いて来るように促して店の奥に向かった。
十五
洪破天は夏天佑の傍に歩み寄り話しかける。
「おぬしの威光はこの都まで届いておるな」
「威光などあるもんか。この街で俺を知っている人間は七人程らしい。もっと有名人は沢山居るだろう。」
店の中には小さな円卓があり、二人はそこに腰を下ろして待つことにした。店にある着物は確かに女の言った通り、華やかな色使いで上質の物ばかりだった。ここは都だ。身分の高い常連も多く居るのだろう。
「あのう……先程は失礼致しまして……」
店の主人の王喜勝に怒鳴られていた中年の女が態度を一変させて茶を運んできた。恐らく夫に命令されたのだろう。非常に居心地が悪そうだがこちらの反応を窺っている。
「ふん、お前はここの主の女房か? あんな態度でよく今まで客が離れなんだものじゃ」
「……」
「あの二人を見事に変身させることができたら、礼は弾むぞ」
女はそれを聞いて大層喜んだ様で、
「うちの品物はどれも一級品で御座います。きっとお二人のお子様にお似合いで御座いますよ」
と、会心の笑みを浮かべている。
「ああ、楽しみだな。宜しく頼む」
夏天佑がそう言うと女は深々と頭を下げた後小走りで店の奥に消えていった。洪破天は夏天佑に向かい口を開こうとしたが先に夏天佑が言った。
「あれが「人間」というものだな」
「ふん」
「湯は準備出来たのかい!? さっさとやるんだよ! お前は大急ぎで葛さんを呼んで来な!」
店の奥は騒然となっているようだ。先程の女が大声で家僕に色々と言い付けている。『服を』と言ったが、顔も髪も手入れなどしていない二人に服だけ着替えさせても駄目だと思ったのだろう。湯まで使わせてくれるらしい。夏天佑を満足させるために気合が入っている。
「しばらくかかりそうじゃのう。その辺で一杯引っ掛けんか?」
まだ正午にもなっていないが洪破天には酒を飲むのに早いも遅いも無い。
「そうするか」
夏天佑は立ち上がり店番を変わった娘に声をかけて洪破天と共に外へ出た。
「俺は明日ここを発つつもりだ。少し急用が出来てな。あんたはどうする? あの子らと一緒に居るつもりか?」
「……そうか。儂は……あの子らを捨てられん。可笑しな話じゃな。知り合ってまだ二日……。儂はどうしたんかのう」
「ふ……『洪破天』のする事だ。どこも可笑しくは無いと思うがな。発の病がどうなるかわからんが、とりあえず今の宿に居たらいい。俺が話をしておいた」
「すまんな」
「宿の主人は北辰教徒だが、問題は起きんだろう」
二人は近くにあった小さな庭園のあずまやで酒を出しているのを見つけるとそちらへ向かった。木蓮が淡い紫の花を開き始め、心地よい日差しが差し込んでいる。その傍に腰を下ろす。と、同時に少し離れた場所に座っていた一見書生風の男が立ち上がった。真っ直ぐに夏天佑、洪破天の二人の方を見つめ、近づいて来る。洪破天は夏天佑に目配せをしてすぐに気付かぬ振りをして酒を注文した。書生風の男が二人の前まで来ると抱拳して、
「謹んで御二方にお目通り致します。私、張撰修と申します」
と、よく通る声で挨拶した。
「ふん、知らんな」
洪破天は張と名乗った男に目もくれず夏天佑を見遣る。
「あんたは確か真武剣派の人だったな。剣はお持ちで無い様だが」
「私めのような小者まで御存知とは恐れ入ります」
張撰修は再び抱拳した腕を大袈裟に掲げて頭を埋めたが、その口角は僅かにつり上がっていた。
十六
「で?何の用じゃ」
洪破天は相変わらず顔も見ずに話している。夏天佑のほうはじっとこの張撰修を見ていた。
「いえ、御二方がこの都に御光臨になる事など稀な事。私は所用が御座いまして参りましたが運良くお二方に拝顔の栄に浴することができました事はこの上ない喜びで御座います」
「ほーう、とても真武剣派の人間の言う台詞とは思えんのう。近くでお仲間が聞いておったらおぬし、ただでは済むまい」
張撰修はそんなことは全く気にしていないらしく、薄く笑っている。
「確かに我が門派は太乙北辰教とは相容れぬと存じておりますが、御二方は武林屈指の英雄。私は常々御二方に敬服致しておりまする」
「流石は江湖を席巻する真武剣派。一流の口をお持ちじゃ」
洪破天は一度も張撰修を見ようとしない。その時丁度酒が運ばれて来た。
「わしらは時間を潰しておるだけじゃ。もうおぬしの用は済んだのじゃな?行ってくれんかのう。旨い酒を飲みたいんじゃ」
冷たくあしらう洪破天の物言いも全く意に介さず、張撰修は動かない。
(ふん、偉そうに何様だ? いずれ北辰もろとも葬ってくれる。へっ、その前にくたばるか)
「誰かを待っているのか?」
夏天佑は張撰修から目を離さない。特に凄んでいる訳ではないが、張撰修は自分がまるで天敵に狙われた動物のような、何とも言えない嫌な気分が全身を襲った。
(……いくらあんたでもこの都で騒ぎは起こせまい。だがこっちは違うんだ。くそっ師兄達は何やってんだ? 早く来い)
「俺はもうじきここを離れる。この爺さんは北辰教徒でもない。お互い顔は合わせなかったことにした方がいいな。あんたも用が済んだら帰るんだろう?それとも仲間がここに集まるのか?」
「いえいえ、私はただ御挨拶をと……」
「ふん、どうだかな」
洪破天はとにかくこの男が嫌いらしい。いや、真武剣派が、だろう。
「行ってくれ」
「……それでは失礼致します」
張撰修はようやく先程まで自分のいた席に戻っていった。こちらを窺える位置である。
「真武剣派の三下の癖して気取りおって。本当に仲間を集めておるんじゃあるまいな」
「さあな。最近この都にまで進出してきたみたいだしな。どうやら朝廷の大物とやらと仲良くなったらしい」
「ふん。まだこっちを盗み見ておるわ。捻り潰してやろうかのう」
洪破天が張撰修の居る席に顔を向けると張撰修が慌てて視線をそらした。
「ふん。小物じゃな」
「だが、あんたがここに長居するのは止めたほうが良さそうだな」
「あんな奴等が何人来ようと屁でもないわ」
「だが今は媛と発が居るんだぞ? そっちに目を付けるだろうな」
「許すものか!」
洪破天は声を荒げた。
「とりあえず避けたほうがいい。発は辛いかも知れんが、どうだ、東淵に戻ったら」
「確かに発の養生には良い場所じゃ……はあ、道中が長いのう」
今度は長い溜息をついた。
「お、増えたな」
洪破天は夏天佑の視線の先に顔を向けると、張撰修の他に三人の若い男達が座り、何やら額を寄せて話していた。
十七
「あれか?思ったより若いな。俺達と変わらんのじゃないか?」
「江湖に敵無しとか、ふん、どうせ北辰の大法螺だろう?教主はまだ餓鬼だ。舐められないように虚勢を張ってるんだろ」
「隣の爺は洪破天だな。あの老い耄れも殆ど北辰みたいなもんだろう」
「なぁ、なんとかしてあの二人とっ捕まえられねえか?太師父の所に引っ立てて行けば大手柄だぞ?」
「へっ、そりゃ大手柄には違いないが……まぁ無理だな。若い方は知らんが、洪破天の爺は相当やるぞ?俺らが束になってもおそらく敵うまい」
「もうすぐ師父が来られる。師父の判断を仰ごう」
「師父が来たらあいつらどうするかな?こそこそと逃げ出したりしてな」
「ハハッあるかもな」
この男達は張撰修と同じく真武剣派の門弟達だ。まだ若く、総帥の孫弟子にあたる世代であろう。まだまだものを知らない若輩だが、太乙北辰教が敵であるとしっかり刷り込まれている。
「まだ増えるかのう?わしらは構わんが子供らを面倒に巻き込む訳にはいかん。早々に立ち去るか?」
「おいおい、俺も面倒は困るぞ」
夏天佑は笑ったまま、真武剣派門弟達の席を指差した。先程の四人は立ち上がり、青い袍を纏った一人の男を迎えていた。小柄だが厳つい感じの黒髭の男だ。
「丁常源か。奴の弟子達の様だな」
しばらく何か話していたが、後から来た青袍の男がこちらにやって来た。後の四人は立ったままこちらを見ている。
「はあーまだ何かあるのか」
「さあな」
「お久しぶりでございますな。都にお越しとは存じませなんだ」
丁常源の言葉は丁寧だが、張撰修のように遜ってはいない。
「別に隠れておった訳ではないがのう。おぬしの優秀な弟子はちゃんと見つけおったわ」
「私の指導が至らず、あれはまだまだ世間知らずの若輩者でしてな。失礼致した。お許し下され」
「いや、丁寧なご挨拶を頂いたところじゃ。胸が一杯じゃ。もういらん」
「ハハ、それでは失礼いたします。いずれまた」
丁常源はあっさりと話を切り上げて戻って行った。何も言わずに弟子達の席を通り過ぎ、四人の弟子は慌てて付いて行く。師父が早々と戻って来たのが内心面白くない。
「師父、放っておいていいんですか?この都であの二人が酒を飲んでるなんて我が派の面目が……」
「黙れ!」
丁常源は張撰修を睨み付けながらも歩を緩めず先へ進んでいく。四人の弟子は皆一様に口をへの字に曲げて顔を見合わせながら付いて行った。
洪破天は出てきた酒を最後の一滴まで飲み干してから腰を上げる。
「よし、行こう。あいつらが戻って来んとも限らん。退散じゃ退散じゃ」
夏天佑も続いて立ち上がり、王喜勝の店に向かった。
「お前達、あそこで揉め事を起こしておったらとんでもない事になっておったぞ」
「師父、私はただ挨拶をしただけです。どうってことありませんよ」
張撰修は半ばふて腐れた様子で抗議の声を上げる。あの二人を放っておく事のほうがおかしいと考えている。
「お前達はわかっておらん! よいか。我等真武剣派と北辰教の関係は今、不安定な状態にある。お前達の太師父様が慎重に事を進めておられるのだ。いらぬ波風を立ててはならん」
「しかし……」
「馬鹿者! あのような人目の多い場所で、しかもあの二人に近づくとは! 身の程知らずにも程がある! お前達程度の腕であの者達と遣りあう事になってみろ! あっという間に無残に殺されてこの都で晒されるのだぞ! それこそ我が派の面目は丸潰れだ!」」
「……申し訳御座いません」
張撰修達は神妙にしてうなだれていたが、自分達が未熟であると言われると無性に腹が立ってきた。無論、師父に対してではなく、自分達にでもなかった。
十八
洪破天達は王喜勝の店まで戻って来たが、梁媛、梁発の姿は見えなかった。
「まだかかるのか?」
洪破天が奥を覗き込むと、梁発は頭髪を整えており、梁媛は湯から出て着替えているところだった。洪破天が来た事に気付いて慌てて背を向ける。
「もう少しお待ち下さいませ」
着物を用意していた女中が洪破天の前に立ちはだかって視線を遮った。洪破天は黙って頷き、店に戻る。
「なかなかいい女になっておったわい」
「まだほんの一刻しかしか経ってないのにか? じきに婆さんになっちまうな」
洪破天は子供達と居るとまるで別人の様な顔になる。先程、真武剣の者達と顔を合わせた時の、まるで苦虫を噛み潰したようなしかめっ面の方が、夏天佑が普段見慣れた洪破天だ。しばらく待っていると王喜勝が梁発を連れて店の奥から出て来た。
「如何でございますか?」
王喜勝は自信たっぷりといった感じだ。髪を綺麗に結上げ、艶やかな青袍を身につけた梁発は、本来の子供らしい姿をようやく取り戻した様だ。
「おお、よう似合っておるな。男前じゃ」
梁発は、はにかむ様に顔を綻ばせて、王喜勝の後ろに隠れたりしている。
「普段身に着けるには少し派手かもしれんな。これも貰うが、もう二、三、見繕ってくれ」
「かしこまりました」
王喜勝は再び梁発を連れて奥へ入っていった。洪破天は梁発の小さな後姿をじっと見つめる。
「……あの子を元気な体にしてやりたいのう」
「呼吸法と内功の鍛錬を教えてやったらどうだ?」
「まだ早かろう? ……いや、急がねばならんか……役に立つかどうかは分からぬが」
「俺も子供の頃から胸を患っていた。多分、今もだ。無理やり病を押さえ込んでる感はあるがな。病を消すことは出来んだろうが、ある程度抑えることができるかもしれん」
「そうじゃな」
それからしばらく静かに待っていた。洪破天は黙ったまま、何か考えているようだ。そうしているうちに梁媛も戻って来た。洪破天は梁媛を見るなり大きく目を見開いたまま動かなかったが、何かを呟き始めた。
「どうした? 惚れたか?」
夏天佑は、にやりと笑い洪破天に声をかける。
「……嫣……」
「何?」
「……何でもない」
見ると洪破天は目に涙を浮かべ、唇が僅かに震えていた。その目は梁媛を見ている様な、しかし焦点があっていない感もあった。夏天佑は、しばらく洪破天の顔を眺めていたが、梁媛に視線を戻す。
「どうだ? 感想は?」
「はい。とても綺麗で……私には勿体無いです」
「いや、よく似合っている。服も顔も綺麗だ。別人のようだな」
夏天佑がそう言って笑いかけると、梁媛は頬を染めて俯く。
「王どの、急に押しかけて悪かったな。礼を言う。受け取ってくれ」
夏天佑は懐から金子を取り出して王喜勝に渡す。梁発と梁媛は楽しそうに笑いながら真新しい服を見せ合っている。
「あ、いや、これは多すぎます」
「そうか? そうでもないだろう? 手間賃も合わせてだ。そうだな……いろいろ用意してもらったが持ち運ぶものが無い。行李でもつけてもらおうか」
「はい、かしこまりました」
王喜勝は深々と頭を下げ、捧げ持つ様に金子を受け取った。後から出て来た王喜勝の女房はその金子をうっとりと眺めていた。
十九
その夜、史小倚の宿屋で洪破天と梁媛、梁発の三人が話をしていた。夏天佑の姿は無い。
「わしの家は……家と言ってもずっとほったらかしのぼろ家でな。ここからずっと東の、東淵という所にある。ここを発ってそこに戻ろうと思うんじゃが……」
梁媛はそれを黙って聞いていたが、不意に襲われた不安に、胸の鼓動が高鳴り始めた。
「あの……私達……」
何と言えば良いのかわからない。新しい服まで買って貰ってこの数日間ずっと一緒に居る。まさか洪破天がここで自分達を捨てるとは思えない。思いたくは無い。洪破天が良くしてくれるのは何故なのか全く分からないが、自分達にはもう何の当てもないのだ。洪破天がどこかへ行くと言うなら、ついて行きたかった。
「お前達、東淵に行かんか? 都に居ってもまたその服が汚れていくだけじゃ。わしと一緒に居れば何も心配はいらんし、東淵は美しい街でな。発の養生にも良い場所じゃ。ただ、行くまでが長いが……」
「また遠くまで行くの?」
梁発は梁媛に聞く。梁媛は梁発の手を取ったが黙ったままだった。
「長旅になるが、馬を買って、荷車でも引かせればよいな。歩かずにすむ。ゆっくり行けばよいのじゃ。急ぐことは無い。どうじゃ?」
「行こう?」
梁発は梁媛の袖を掴む。梁媛は梁発の頭に手をやって優しく撫でた。
「行こうか」
「うん」
「よし。決まりじゃ。支度は……何も無いな。お前達は元々何も持っておらなんだしな。わしも同じじゃ」
洪破天は破顔一笑して立ち上がると、
「酒をもらってくるかのう」
と言って部屋を出て行った。
階下に下りて宿の主人である史小倚と話しているところへ夏天佑が戻って来た。
「本当に古い荷車だぞ?まあ歩くよりはましだな。馬は二頭だ。媛は乗れんだろうし、これでいいだろう」
「おう、すまんな」
「あの時の医者に発の薬を多めに貰ってきたほうがいいな」
「……あれか。まあ仕方ないわい。二人にはさっき話したぞ。一緒に行く」
「それしかなかろうな」
史小倚が尋ねる。
「すぐお発ちでございますか?」
「明日だ」
「真武剣の奴等が居ってのう。居心地が悪くなったわい」
「……左様でございますか。奴等、この都にも最近道場を開きまして」
「道場だと? はっ、金儲けか」
「白という真武剣の者が仕切っているそうでございます」
「白? 白千雲かな? 陸総帥の二番弟子だが……。なんで奴なんだろうな?」
「ふん、この都に新たな拠点を作ったわけじゃな。前に言うておった朝廷の大物とやらも絡んでおるんじゃろう。ま、真武剣派は昔から訳分からん事をする奴等だからの」
武林で名を知られた門派はそれぞれ長い歴史を持ち、その始祖が一派を打ち立てた土地で代々受け継がれてきた。その門弟となり武芸を身に着けようと志す者はその地に集まって数年、数十年と暮らしながら修行をするのである。修行を積んだ後、そこから離れて独立し、町道場などを開き生計を立てる者は居るが、”真武剣派”が離れた場所に道場を作ったというのは、どこか奇妙に感じられる。
「まあ、とにかくそういうことで明日発つ」
「はっ」
「では貰っていくぞ」
洪破天は酒を抱えて夏天佑と共に部屋に戻った。
二十
「おう、そうじゃ今のうちに薬を取ってきておこう。まだ平の奴は起きておるじゃろ」
前に梁発を連れて行った時は真夜中だったが、あの時は急を要した事もあり時間など気にもしなかった。だが洪破天は普段から先方の都合など気にする事など殆ど無い。とりあえず言ってみただけだ。
「あ、私も行きます」
梁媛が立ち上がると梁発も寝台から降りて、
「僕も」
と梁媛の服を掴んだ。
「皆行くことなかろうが。外はもう冷えてきておるぞ」
「いえ、弟の事ですから」
「……では行くか」
「はい」
「俺はここでこの酒をもらうとしよう」
夏天佑は先程洪破天が持ってきた酒を杯に注いでから椅子に腰をかける。
「気をつけてな」
「心配はいらん」
洪破天、梁媛、梁発の三人は部屋を出て行った。
洪破天ら三人は初めてあった日に駆け込んだ医者の平大生の元へ向かう。少し肌寒い空気が街に漂い、辺りは静まり返っている。梁媛は梁発の肩を抱いて引き寄せ、時折擦っていた。平大生の屋敷へはそう遠くなく、道は覚えていた。都一と言われるだけあって名医の屋敷は大きく目立っている。やがて正面の門までやって来た。洪破天が扉を叩き、暫く耳を済ませたが、誰かが出てくる気配は無い。
「誰かおらんか? 洪破天じゃ」
暫く門を叩いていたが一向に気配は感じない。
「おかしいな。ちと裏を見てこよう。お前達はここで待っておれ。じっとしておるんじゃぞ」
そう言うと塀沿いに歩いて裏へ向かった。梁媛と梁発は門の前の小さな石段に寄り添いながら座って待つことにした。
その時、平大生の屋敷の正面の建物の隅で僅かに動く人影があった。梁媛達は全く気付かないが、じっとそこに身を潜めている。こちらの様子を伺っている様だ。
「おい、ここは医者の屋敷だな。あいつら何の用だ?」
「わからん。それよりあの子供は何なんだ? あの爺さんの身内か? 聞いたことあるか?」
「いや、家族はおらんという話だぞ?家だってあるのかどうか……」
微かな声で話している人影はどうやら二人の男で、洪破天らを監視していた。
「全く面倒くせえ仕事だ。ただ見てるだけだしな。どうせ用が済んだらさっきの宿に戻るだろう。おい飲むか?」
人影の一人がどこからか酒を取り出してもう一人に差し出す。
「お前、このあと旦那に報告しなきゃいかんのだぞ。酒なんぞ飲むな」
「へっ、何が旦那だ。明日の朝行けば良いだろう? まったくあの偉そうな若造が……」
「ただ見てるだけで金くれるんだそ? ……おい、あの娘なかなか別嬪だな」
「何言ってんだ?あんな餓鬼がお好みか?」
「まだまだ若いが、この先なかなかのもんになりそうだ」
「お前は酒もやらずに素面でそれなのが俺には理解できん。女なら誰でもいいのか? しかも餓鬼までとは」
「いや、あれはもう女だぜ?」
じっと梁媛から目を離さない一方の男はにやりと下品な顔つきを見せる。
「爺は今居ない。連れてくるか」
「馬鹿、やめろ。見つかったらただでは済まんぞ」
「子供一人連れてくるくらいあっという間だ。その後ここから離れて……へっへっ」
酒を飲んでいたもう一人は酒を仕舞うときっぱりと言った。
「俺は手伝わん。知らんからな」
「ふん」
梁媛に目を付けた男の顔がゆっくりと月の明かりに照らされていった。
二十一
平大生の屋敷の裏手に回ってきた洪破天は裏にも割と大きな扉の勝手口があるのを見つけると、先程と同じように門を叩いた。
「おーい、大生よ。死んだか? 寝とるのか? 出て来い」
他人が聞けばただの訪問客とは思えない物言いだが、相変わらず周りには誰も居る気配が無い。洪破天は苛立った。門を離れ、塀の上を見上げながらじりじりと足の裏を地面にこすり付けるように動かしたかと思うと次の瞬間、その体が塀の屋根まで飛び上がる。少しくたびれた袍の裾が僅かにバタバタと風を切るが、それ以外物音は起こらなかった。
「なんじゃ明かりはついておるな」
塀の上から中を見ると、屋敷の一角に明かりが点いている。洪破天はサッと飛び降りると明かりの方へ真っ直ぐ歩いていく。塀を越えて入ってきたが、別に盗人でもなんでもない。隠れる必要は無かった。
「おい大生、おるんじゃろ?」
そう言って窓を叩く。すると中で何かが割れるような音がした。が、それだけでまた静かになる。
「洪じゃ。開けてくれ」
言った直後に窓に人影が映り、窓の小さな閂のようなものを外している。
「……おぬし、わしの貴重な薬をどう弁償してくれる?」
顔を出したのは平大生だが、その顔は怒ってはいない。もう薬は諦めがついたようだ。
「ハハッわしの声に驚いて飛び上がったじゃろう? 心臓が止まらなんだのは僥倖じゃな」
洪破天は言った後、顔の高さにある窓にヒラリと飛び上がって平大生を中に押しやると部屋に入った。
「で、何じゃ。盗人の真似事をしおって。商売換えか?」
「正面の門に来たのに誰も出んかったんじゃ。おぬしこの屋敷に一人で住んで居るのか?この間はもっと遅い時間に開いておったのに、急病の患者はどうするんじゃ」
「よそに行けばよいわ。都に医者は多い」
「庶民相手では金が取れんか」
平大生は平然と洪破天の言葉を聞き流している。
「この間診て貰った子供の薬が欲しい。ありったけ出してくれ。金はもってきた」
「何? ありったけだと? どうするつもりじゃ。一度に多く飲んでも意味は無いぞ? ……まさか都を離れてどこか行くと言うのではあるまいな?」
「東淵に行く」
「だめじゃ! 安静にしておらねば早死にすると申したじゃろうが! 東淵じゃと? たどり着くまでに死んでしまうわ!」
「歩かせはせんわい。あれから苦しむ様子も無い。急ぎはせん」
「ならんならん! 病の事に関してはおぬしは素人じゃろうが! 儂の言う事を聞け!」
「そういうおぬしは薬しか出さなんだではないか。寝て、薬飲んで、それの繰り返ししか手立てが無いなら、ゆるりと旅するくらいどうって事なかろうが」
静まり返った屋敷に老人二人の遣り合う声だけが響く。
「おう、忘れて居ったわい。今表で待っておる。正面の門を開けてくれ」
洪破天はさっさと表の門を開けに部屋を出て行く。
「病人を出歩かせるとは。あの小僧が死んだらおぬしのせいじゃな!」
平大生はそう言いながら洪破天について行く。洪破天はその言葉を聞くと急に沈痛な面持ちになり宙を見つめるような眼差しになったが振り返らずに歩いて行った。
二十二
屋敷の前から門までちょっとした庭園が作られている。確かに慌しく急な怪我人病人を担ぎこむことを考えて作られてはいない。洪破天は庭などには興味が無い。まして今は暗く、前にある弱々しい木々達がどのようなものなのかも分からない。
「東淵か……。遠いな。もう二度と……」
平大生が話しかけたその時、突然門の外から子供の泣き声が響く。
「発?」
洪破天は駆け出すと門へは行かずその横の塀の上にまたも飛び上がった。見れば、見知らぬ男が梁媛を担ぎ上げている。
「貴様何をしておる!」
洪破天は一声大喝すると塀の上を男の方へ駆ける。
「くそっ!」
その男は梁媛を連れ去るのは諦めたらしく梁媛を地に放り出した。向かいの潜んでいた場所の方へ向き直り駆け出そうとする。が、すぐ近くにいた梁発にぶつかり縺れ合って地面に転がった。
「うおお!」
男はひどく焦っているのか、吼えるような声を上げると転がったまま梁発の胸に思い切り蹴りを入れて突き放し、立ち上がって走り出す。
「貴様っ!」
洪破天は塀から勢いよく男の方へ向かって飛び上がるが、男は振り返る暇も無く一目散に走り出している。丁度その時門が開き、平大生が飛び出して来た。
「何じゃこれは!」
「おい大生! 二人を頼む!」
洪破天はそう叫ぶと先程の男を追って駆け出した。
「はあ全く奴の周りは物騒すぎるわい……」
平大生は倒れている梁媛の傍に行き、脈を診た後、呼吸を確認する。気を失っているが、見たところ服も乱れておらず少し顔を擦りむいているが、他に外傷は無さそうだ。続いて梁発の方を見て驚いた。口から血を流し、服の胸元まで真っ赤に染まっているではないか。
「おい! 小僧! 聞こえるか? しっかりするのじゃ!」
梁発は真っ赤に染まった唇を戦慄かせているが、眉間に皺を寄せて苦しんでいる。
「これはいかん……待っておれよすぐ戻るからのう」
平大生は立ち上がると門の中に駆け込んで行った。少しすると平大生は家僕であろう男を連れて出て来た。
「だ、旦那様、これは……」
「さあ早く中へ運ぶのじゃ!この小僧から運べ。慎重にな」
家僕の男は梁発の小さな体をゆっくり抱えると門の中へ運んだ。平大生は梁媛の元に行き、
「おい、起きろ、しっかりしろ」
そう言って肩を揺さぶったが、気を取り戻す気配は無かった。暫く思案したあと平大生は梁媛の後ろから両脇に腕を入れ、引き摺りながら門の中へ入れると、再び外へ出て洪破天が走って行った方の様子を伺うが、何も、誰も見えなかった。平大生は中へ入り、しっかりと門を閉じた。
屋敷の周りでは怪しげな声や物音に、家から顔を出して訝しげに見ている者も居たが、医者の屋敷の門が閉じられた後には辺りは静まり返り、皆顔を引っ込めていつもの夜が戻った。
静かに、冷たい風が流れている。昼間あれほど賑やかになるこの都が、深い闇に飲み込まれていく。自らその闇に取り込まれる事を望み、物陰で男が身を震わせていた。
二十三
「くそ……あの馬鹿がっ……た、助からんぞ……奴に殺される!」
息が乱れ、必死に膝を抱え込んでいる。
(何処へ逃げる……? あの爺はあいつを追ってんだ。俺じゃねえ……。張の奴に知られても駄目だ……始末されるかもしれねぇ)
男は腰の小さな酒壷を取ると震える手で口元に持っていくが、ほんの少し垂れただけで空になってしまった。
(あいつ、どっちに向かったんだ? 逆を行って都を出よう……。あいつは……あいつが悪いんだ自業自得だ。知ったことか)
男は意を決したようにゆっくり立ち上がり、大通りとは反対の民家の密集した路地をさらに奥に入っていった。角を曲がる時にそっと大通りの方へ目を遣る。その時、路地の正面に見える大通りを左から右へ人影が音も無く通り過ぎた。
「ひっ!」
大通りからはかなり離れているにも拘わらず、男は驚いて腰を抜かし、その場でへたり込んだ。あっという間だったが、まるで宙を飛ぶように、いや飛んでいたのかもしれない。物の怪のように全く音も立てず何かが通り過ぎたのだ。しかし男は、物の怪でないことは分かっていた。
「あ、あいつ……まだ逃げてるのか……駄目だ、無駄だ……」
男は這いつくばりながら路地の角を曲がって行った。
梁媛を連れ去ろうとした男は、全く振り返りもせず駆け続けている。
(逃げろ! 逃げろ!)
ただひたすら自分に命令しながら足を運んでいるが、もう相当息も上がり、絶望感がこみ上げてくる。男は腰に差していた短刀の柄を握り締めると、声を振り絞って雄叫びを上げながら一気に振り向いた。
「殺ってやるぞ! クソ爺!」
「ハッ、やれるか?」
男が振り向いた時には既に洪破天はすぐ後ろに迫っていた。男が短刀を振りかざすより先に洪破天の細い腕が男の喉元を襲う。あっという間に首を締め付けられ、うめき声すら上げられない。洪破天はそのまま男の首を掴んだまま飛び上がると押しつぶすかのように地面へ叩きつける。
「貴様っ! 何者じゃ!?」
「か……は……」
男は答えられない。洪破天は左手ですばやく点穴すると更に蹴り上げて男を転がした。男が落とした短刀を拾い、男の鼻先につけると、
「おい貴様、死にたいか?」
激しい怒りの目と冷ややかな声が男を威圧する。
「ゆ、許してくれ……許してください……俺は……」
すっかり抵抗する気が萎えた男は命乞いを始める。
「お前は誰じゃ? 何故あそこに居った? 何故あの娘を連れて行こうとした?」
「お、俺じゃねえ!」
「お前じゃろうが!」
洪破天は男の腹を踏みつける。
「張……張だ!」
「んん? お前の名か?」
「違う! 張の旦那があんたらを張れって……」
「張の旦那ではわからん!」
洪破天は言うことのはっきりしない男に苛々して思い切り男に張り手を食らわせた。このままここに居ればその内、人も集まってくる。梁媛、梁発の事が気がかりだ。洪破天はぐったりして動けない男を肩に担ぎ上げると、再び平大生の屋敷へと飛ぶように走り出した。
二十四
平大生の屋敷に戻ると庭にある大きな立ち木に動けない男を縛りつけ、梁媛、梁発の許へ急いだ。部屋に入ると、横の寝台に梁媛、正面に梁発が横たわっており、その下には小振りの甕が置いてある。見れば寝台から血が滴り落ちている。
「は、発はどうしたんじゃ!」
傍らに立っていた平大生は力なく首を振っている。
「おそらく小僧の肺臓は完全に砕かれておる。この鮮血はそこからの出血じゃ。もうかなりの量が失われた……もうもたぬ」
「なんじゃと! 何故じゃ……」
「わからん。わしが門を出て小僧を見たときには既に吐血しておった」
洪破天は梁発の許へ駆け寄り、下の甕を見れば真っ赤な鮮血が溢れそうになっている。
「発! 発よ!」
洪破天は青白くなった発の頬に触れ、平大生に振り返った。
「本当に……本当にどうにもならんのか」
「ならん」
平大生は傍らにあった椅子に腰を下ろし、洪破天を真っ直ぐに見る。洪破天はゆっくり発の方へ顔を戻すと、
「お前が言うなら、そうなんじゃな……」
と静かに言う。いつもなら平大生に食ってかかるところだが、何故か洪破天はただ力なく発の頬を撫で続けるだけだった。発の唇はまだ僅かに震えている。これだけの血を流していれば、もはや助からぬことは誰の目にも明らかだった。
「……あの男か」
「ん?」
「肺臓が砕かれていると言ったな?」
「そうじゃ」
「……お……ねえ」
発の口から、か細い声が聞こえてくる。
「発、発よしっかりせい……」
「おじ……い……ちゃ……おねえ……」
発の言葉が途切れた。その小さな唇はピクリとも動かない。
「おお……おお……発」
洪破天は震えるその手をもう一度、梁発の頬、そして艶やかな青だったはずの、血に塗れた梁発の胸を撫でた。洪破天の手のひらが真っ赤に染まっている。その赤をじっと見つめ、そして静かに立ち上がると後ろへ向き直り、そのまま真っ直ぐ部屋を出て行く。
「どこへ行く?」
平大生の声は届いていないようだ。
(あいつは何やってんだ? 早く助けに来やがれ! まさか逃げたんじゃねぇだろうな?)
庭の木に縛り付けられたままの男は肌寒い暗がりの中でじっとしている。まだ洪破天の施した点穴が解けておらず、口以外全く動かせない。ふと屋敷の方へ目を向けると人がこちらを向いて立っている。
「おわっ」
思わず男は驚きの声を上げた。洪破天がこちらを見てじっと立っていた。
「……張とは誰じゃ」
「え……ああ、俺は張撰修って男に言われてあんたらを……」
「張撰修……真武剣の張撰修じゃな?」
「……そうだ。金をくれるって……うわあああ!」
洪破天は音も無く男の目前まで迫る。
「ぜ、全部言われたことなんだ! お、女さらえって!」
梁媛をさらうというのは命令には無かったが、なんとかこの場を逃れることができればあとは都を離れてしまえばいい。張撰修に会わないようにすればいいだけだ。男は咄嗟に出鱈目を口にした。
「死にたいか?」
「た、助けて……命ばかりは……」
男の命乞いを聞くと洪破天は少しばかり目を閉じたが、
「助からん……助からんわ!」
突然、声を張り上げた。暗くてよくは見えていなかったが無表情に見えていた洪破天の顔が、どす黒く、歯をギリギリと噛み締め凄まじい怒りの形相に変わった。
「貴様が死ね!!」
男は一瞬何がなんだか分からなかったが、すでに洪破天の真っ赤な手刀が男のみぞおちに深々と突き立っていた。
二十五
宿の主人、史小倚が先程から表の様子を伺っている。そこへ夏天佑が部屋から出て降りてきた。
「あ、あのう、洪破天様は今日はこちらにお戻りになられるので?」
「ん? そのはずだが……遅いな」
「私が様子を見てまいりましょうか?」
史小倚は夏天佑の表情を窺っている。夏天佑は軽く手を振った。
「ああ、その必要はない。茶をくれ」
「はっ。しばしお待ちを」
夏天佑は近くの卓に着くと窓の外を眺めた。このあたりはまだこの時間になっても多少の人通りはある。そんな中、一人の男が辺りを窺うような所作で小走りに急いでいる。どう見ても不自然だが、夏天佑は興味が持てなかった。史小倚が運んできた茶を飲みながら特に何をするわけでもなく、ずっと外を眺めていた。今夜は宿の客も少なく、史小倚は夏天佑の声が届く位置に控えていた。
「なあ、この都で商売できなくなったら、あんたどうする?」
「は……私は家族も親類も居りません……。しかし、私はどうなろうと太乙北辰教徒でございますれば……」
「教徒を名乗っていても飯の種にはならんな」
「はあ……」
「あらゆる状況を想定しておかねばな」
「……」
またしばらく夏天佑は黙って茶をすすっている。冷たい風が時折、窓から入ってくる。史小倚は開け放っていた窓を全て閉めていった。
「見てくるか」
夏天佑は面倒そうに立ち上がると表へ出て行った。
「こっちの娘は気を失っておるが、じきに目を覚ますじゃろう」
再び静まり返った平大生の屋敷。平大生は梁媛の顔色を見ながら洪破天に静かに声をかけた。
「あの男、何者だったんじゃ?」
「知らん」
「知らんのに息の根を止めてしもうたのか?まったくおぬしは……」
白く垂れ下がった髭を撫でて嘆息する。
「あれは犬じゃ。飼い主がおる」
「ほう。誰じゃ」
「……真武剣」
「真武剣? 真武剣がこの娘に用があったと?」
「いや……わしじゃ」
「真武剣と揉めたのか?」
「ふん……知らん。が……用があったのなら聞きに行かんとな」
「洪よ。まだ、この娘がおるんじゃぞ?それを忘れるな」
平大生は、洪破天を諭すように言う。
「儂は……何と言えばよい?媛に何と言えば……」
洪破天は顔を手で覆い、じっとしている。泣いているようにも見えるが、平大生は洪破天と長い付き合いだが泣いているところを見たことなど無い。
「おぬしが言わずとも、すぐわかる。見ればな。ひとまずおぬしが落ち着かねば。茶を入れてこよう」
平大生はそう言って部屋を出た。
丁度その頃、屋敷の門前にまたも三つの人影が集まっていた。先程、梁媛をさらおうとした男と違い、身なりの良い男達だ。
「ここに入って行ったのだな?」
「ああ、間違いない。洪の爺に捕まったようだ」
「おい、血だ。殺されたのかも知れんぞ」
「しかし、どう言うんだ?」
「そうだな……あいつは我が真武剣派の人間ではないが、ちょっとした顔馴染みということでいいだろう。知り合いが連れて行かれたんだから様子くらい見に来るだろう?」
人影の一人、書生風の若い男が門へと歩き出した。
二十六
平大生の許へ家僕の男がやって来た。
「旦那様。今、表に真武剣派の者だと名乗る人が来ているのですが」
「なんじゃと? ……何と言っておる?」
「洪破天様にお会いしたいと……」
「ふむ……わしが出よう」
平大生は門へと向かうと、小門ではなく正面の扉を開いた。
「このような夜更けに何事かな?わしがここの主じゃ」
書生風の若い男が一歩前へ出る。
「夜分に失礼致します。私共は真武剣の者で、私は張撰修と申す者でございます。実は先程、私の見知った者がこちらに連れて来られるのを目に致しまして……」
「ほう真武剣派の方々か」
平大生はわざとこの張という男の言葉を遮った。
「この都に道場を作られたそうじゃな」
「はい、左様でございます。それで……」
「確かこのあいだ、真武剣派のお人がここに参られてのう。何と言ったかな……?」
「我が派の者が?」
「丁……と言ったかのう?」
その言葉に、張撰修の後ろにいた二人は顔を見合わせるとヒソヒソと言葉を交わしている。
「おい……師父だろうか?」
「この都に出向いている我が派の者で丁というのなら……おそらく」
「それはそれは丁寧なご挨拶を頂いたのじゃ。まあわしはもはや干からびた爺じゃが、この都で三十年以上医者をしておるのでのう。それで来られたのじゃろうなぁ」
平大生は真武剣派の人間の事など殆ど知らないが、挨拶に来た人間がこの都の新しい道場を仕切る者で、真武剣でも地位の高い者であろう事は気付いていた。
「この都は何をするにしても新参者には辛い所じゃ。しかし……わしはそのお人の謙虚な姿勢が気に入った。何かと大変じゃろうが、この老骨が口利きでもすれば、多少のお役に立てるかもしれんな」
「は……ありがとうございます」
張撰修と後ろの二人は神妙な面持ちで聞いていたが、全く面白くない。
(何だこのでかい態度の爺は。新参者だと?馬鹿にしやがって。真武剣をなめるとどうなるかこれから思い知らせてやるぞ)
しかし、この平大生の言葉で張撰修達はすっかり威勢を削がれてしまった。ここへ来たのが張撰修らの師父、丁常源で、この老医師に挨拶に来た事は確かなようで、ここで自分達が揉め事を起こすのはまずい。
「ほんの数刻前、こちらに運ばれた男はどうやら知り合いのようでして、見に参ったのです。会えますか?」
張撰修は平大生に遮られないように少し語気を強めて尋ねる。
「ここへ? 男? 誰も来ておらんぞ。」
「そんな筈はございません。男がここへ担ぎ込まれた筈です。洪破天殿が男を抱えてここへ入られたのを見たのですから」
「ほう、洪破天を知っておるか。あれはわしの古い知人でな。しかし……ハハ、あの爺さんが男を担いで医者に来るなどありえんのではないか?」
そう言って平大生は笑っている。張撰修達は苛々して(この老人は放っておいて押し込むか)とも考えるが、相手が洪破天ではこの先の展開を読むことが難しい。男を使って洪破天らを見張ったりするのは真武剣の意向ではなく、単に仲間内で勝手に面白がってやっている事だ。師父である丁常源には洪破天らに近づかぬよう言われたが、この若者達は真武剣の威光を背に怖いもの知らず、そして世間知らずとも言える。
「知り合いの男がここへ連れてこられたのは間違いないのです。我々はその男を渡してもらえればそれだけで……」
「何かあったか?」
不意に張撰修等の後ろから声がかかる。三人は全く気配に気付かず仰天して一斉に振り返ると、そこには夏天佑が特に表情もなく佇んでいた。
二十七
夏天佑がゆっくりと張撰修らの方へ歩き始めると、三人の男は揃って思わず後ずさる。平大生が言う。
「おう、おぬしか。いやなに、こちらは真武剣派の方々でな。人を探しておられるのじゃ」
「昼に会ったな」
張撰修は何も言わずに軽く会釈をした。
(ちっ、またこいつか。いつも一緒に居やがるのか? ここは退散するか……あいつの事など生きていようが死んでいようがどうでもいい)
張撰修は平大生に向き直り、
「どうやら私の勘違いだったかも知れません。夜分にお騒がせをして申し訳ございませんでした」
そう言って拱手した後、後の二人に目配せをしてから門を離れていった。夏天佑は平大生の許に歩み寄り、彼等の後姿を眺めた。
「なんじゃ、えらくあっさり引き上げおったのう」
「何を言ってきたんだ?」
「……とりあえず中に入れ。洪のやつも子供達もおる……」
平大生は夏天佑を連れて部屋へ戻ろうとしたが、ふと振り返り夏天佑の顔をじっと見る。
「何だ?何か付いてるか?」
「顔を良く見せてくれんか?」
そう言って近づくと真剣な眼差しで夏天佑の顔を見た後、手を取って肌を見たりしている。
「病でも潜んでるか?」
夏天佑は薄く笑いながら聞く。
「いや、……おぬし、なんぞ妖術でも身につけておるのか?」
「妖術だと? そんなもんは見たこと無いな」
「……ふむ、まあよいわ。こっちじゃ」
平大生は再び部屋の方へ向かい、夏天佑を連れて行った。
夏天佑は部屋に入り正面の梁発を見るなり怪訝な顔つきになる。
「何があった?」
ずっと梁発の方を向いたままの洪破天は、夏天佑の言葉に振り返りもせずつぶやくように言う。
「のう……儂は……儂では誰も守れんのかのう?あれから十数年……何も変われておらぬ。わしでは……」
夏天佑は梁発の傍に立ち、黙ったまま寝台に横たわる梁発の姿を見下ろした。平大生が洪破天の代わりに説明する。
「この小僧達が暴漢に襲われた。いや、狙ったのはこっちの娘のようじゃな。目的はわからん。小僧が巻き込まれたのは不運としか言いようが無かろうな。どうやったか知らぬが暴漢が逃げる時にこの小僧に攻撃を加えたらしい。しばらくして小僧は……死んだ」
夏天佑は全く表情を変えずに梁発の顔を暫く見つめていた。
「その暴漢とやらはどうしたんだ?」
「もう生きてはおらん」
おそらく洪破天が捕まえて殺したのだろうと容易に察することができる。
「さっき居た真武剣派の人間と関わりが?」
洪破天はハッとなって立ち上がる。
「真武剣の奴等が居たのか!?」
「ああ、さっき俺がここへ来たとき三人来ていたが?」
「奴等を八つ裂きにしてくれる!」
「待て!」
洪破天が息巻いて出て行こうとするところを夏天佑は前に立ちはだかって止める。
「もうおらん。落ち着け!」
「仇は討たねばならん!」
洪破天の怒りは当分静まることはなさそうだ。カッと見開いた両眼は獲物を探すかのように目まぐるしく動いていた。
二十八
「とにかく座れよ」
夏天佑は、半ば強引に洪破天を押し戻しながら尋ねる。
「媛はどうした?」
すると洪破天は梁媛の寝台の傍に行って、まだ気を失っている梁媛の細い手を取った。
「媛……許せ……許してくれ」
普段の洪破天からは全く想像もできない程、弱々しい声である。平大生は夏天佑に小声で話しかける。
「一体どうしたんじゃ? おかしくないか? 儂の知る洪破天ではないのう」
「心の中など他人には計り知れん」
夏天佑はただそれだけ言うと、洪破天が先程まで座っていた梁発の傍の椅子に腰を下ろし、黙って梁発のすっかり白くなった顔を眺めていた。そうしているうちに梁媛の意識が戻ったようで、薄く眼を開けた。が、すぐに小さく唸って腹を押さえる。
「おお、媛よ」
「気がついたようじゃな。媛とやら、どこが痛む?」
平大生がすぐに梁媛の脈などを確かめる。
「……あ……少しお腹が……でも、少しだけです」
「当て身を喰らったようじゃが……ふむ、大丈夫そうじゃな」
梁媛はまだ少し顔をしかめて腹をさすった。洪破天は梁媛の手をずっと握っていたが、顔を上げることができない。
「……発は?」
辛そうに上体を起こした梁媛はサッと部屋を見渡すと、すぐに寝台に横たわる梁発を見つけて「あっ」と息を呑む。見えるのは赤く染まった梁発の胸元。寝台までも赤く染まっている。
「発? ……発!」
驚いた梁媛はまるで寝台から落ちるように這い出すと梁発の許へ行き、そのおびただしい血を呆然と眺めた。そして横に座っていた夏天佑に、
「発は? 発はどうしたんですか?」
と、膝にすがりつくようにして尋ねた。
「……お前達は暴漢に襲われた。お前を連れ去ろうとしたんだ。その時に梁発はやられたらしい。この出血だ。とてももたなかった」
「そんな……」
何が何だかわからないといった表情で梁発を見ていたが、全く生気を感じられない梁発の顔が梁媛に恐ろしい現実を突きつける。
「発……発ー!!」
梁媛は梁発にすがり付くと、声を振り絞って泣き出した。夏天佑は全く表情の無いままその様を見つめる。
「媛……済まぬ!」
洪破天が床に崩れるように手をつき叩頭するかのように伏せると、しきりに梁媛に詫びているが、梁媛は振り向くことはなかった。平大生は洪破天のその姿を驚いて見ている。
(一体、この小僧達は何なのじゃ? 洪よ……何があった?)
洪破天の孫達ではない事は知っている。子も孫も、二十年近く前に皆死んでいる筈だ。この子供達に孫の姿を重ねているのだろうか。それにしても……。
「おぬしら、今夜はここで休め。遺体の処置もせねばならん。部屋を用意させる。良いな?」
「そうだな……よろしく頼む」
夏天佑が、平大生の申し出に答える。平大生は部屋を出て行き、梁媛の泣き声を聞きながら暫く時が過ぎた。
「皆様お戻りにならないので心配しておりました」
夜が明けて一人、宿に戻って来た夏天佑の姿をみつけた史小倚が駆け寄ってきた。
「ああ、済まなかったな。ちょっとあってな。また戻らねばならん」
「私にお役に立てる事がございましたらお申し付け下さい」
「んー、今は特に無いな。そうだ、ここを発つのが少し延びるかもしれん」
「一体、何が……?」
「一緒におった子供が……怪我をしてな。死んだ」
「えっ?」
史小倚は大層驚いたが、夏天佑のその口調には全く感情が無い。ただ、あった事を伝えただけというような口振りだ。
「ここにはおかしな様子の人間は来てなかったか?」
「あーいや、気付きませんでしたが……」
「そうか。あんたはこの都に来た真武剣の人間の顔は知っているのか?」
「丁常源の他、何人かは見知っておりますが、門弟達までとなるとわかりませぬ……お連れのお子様が亡くなられたのは真武剣派の仕業なのですか?」
「……まだなんとも言えんな」
「申し訳ございませぬ」
真武剣派に何か計画的なものがあったのなら、怪しい人間がこの宿を探りに来た可能性は高く、全く気付かなかったことを史小倚は詫びた。一歩下がって更に畏まっている。
「いや、いいさ。今夜は戻れるだろう。」
「はい。かしこまりました」
二十九
あれから梁媛は一言も話さず、食事も口にしていない。洪破天も口を開かなかった。外はまた穏やかな春の日差しで溢れているというのに、部屋の中は重い空気で息が詰まりそうだ。
「小僧をどうするか決めねばならんぞ。いつまでもこのままにしておけん。」
平大生は洪破天に向かって言った。
「この都の人間でもなく身寄りは無いと言ったのう?この地に埋葬するのは難しいかも知れん」
「どういうことじゃ?」
洪破天が久しぶりに口を開いた。
「小僧はいわば浮浪児であろう?ここでは毎日のようにそのような子供達が死んでおる。その者達は役人に運ばれていって、まとめて荼毘に付されるのじゃ。ふん、荼毘に付すなどという上等なもんではないな。とにかく焼いて処分するだけじゃ」
「嫌です!」
突然、梁媛が叫ぶ。
「発が……発が焼いて捨てられるなんて!」
「媛……」
「ならばどうする? この都に得体の知れん人間を勝手に埋葬することはできん。役所に届け出ても相手にされんじゃろうな」
「嫌……絶対に嫌!」
梁媛はどうすればいいかなど全くわからない。ただ再び泣き続けるしかなかった。洪破天は考え込んだ。自分が何とかせねばならない。梁発の為にも、梁媛の為にも。自分はもう身内だと決めたのだ。
「埋葬できぬのなら、荼毘に付すしかない。無論ただ焼き捨てるなどということはできぬ。話を聞いてくれそうな寺がこの辺にあるか?」
「そうじゃな……よく知っておる者がおる。わしが言って頼んでみよう」
「どうか、よろしく頼む」
深々と頭を下げた洪破天に、平大生が言う。
「……頭など下げるな。わし等は……そんな間柄ではなかろうが? まあこれは貸しではあるがのう」
平大生は部屋を出て行ったが、洪破天はそのまま頭を上げることができなかった。少ししてから夏天佑が部屋に戻って来た。
「どうなった?」
洪破天は梁発を荼毘に付すという先程の話を夏天佑に伝える。夏天佑は梁媛の傍にしゃがんで、
「今日も良い天気だ。少し外へ出ないか?」
と誘った。梁媛は黙ったまま涙を拭っている。
「梁発はまだここに居る。少しでいいから外の空気を吸え」
そう言うと梁媛を待たずに部屋を出て行った。洪破天は梁媛の顔を見つめる。
「媛……」
梁媛は俯いたままだったが、すっと立ち上がると洪破天を見ないまま夏天佑を追って行った。
平大生の屋敷の庭はあまり広くはないが、空間を大きく見せるためにあまり物を詰め込まず、落ち着いた佇まいを見せている。風は僅かだが日差しはきつくもなく暑くはなかった。夏天佑は庭の中ほどにある石に腰をかけていた。梁媛は庭まで出てくるとその柔らかい日差しを眩しそうに眺めた。夏天佑は何も言わず周りの木々に目をやっている。
「……もう何も、考えられません」
静かに夏天佑のそばまで歩いてきた梁媛は、力なくそう言う。夏天佑は立ち上がると梁媛を座らせる。
「爺さんの事を怒っているのか?」
「私は怒ってなんか……誰のせいでもない……それは判っているんです。お爺さんは犯人を捕まえて……」
暴漢は真武剣派というところと関係のある者らしく、洪破天を見張っていたと聞いた。洪破天と一緒に居なければ、襲われなかったかもしれない。どうしてもその考えが頭をよぎる。
「家族を、愛するものを失う悲しみは、経験した者以外は計り難い。」
夏天佑は後ろ手に手を組み、周りの木々の前を歩いている。真っ直ぐ前を向いて立ち止まって言った。
「あの爺さんと俺は変な縁でな。爺さんも俺も、家族が居ない。突然、目の前から消え去った」
三十
小鳥のさえずりが聞こえる静かなこの庭園は平和そのものだ。夏天佑はこの柔らかい空気を乱さぬように話を続けた。
「俺も爺さんもここから遠く離れた田舎の小さな村で暮らしていた。だが、それが消された。村が殺された。人も……多くの人間が殺された。元々人が少ない村だが、残されたのはほんの数える程だった。爺さんと俺はその時一緒に村を離れた。もう一人居たんだがな。……もう村でもなんでもなかったな……廃墟だ。それまでは爺さんとあまり面識はなかったが、その後各地を一緒に放浪してな。もう、二十年程前になるか……。爺さんが言っていた東淵という街に辿り着いて、そこに留まる事になった。俺は少しだけ居て、放浪を続けた。今、都に居るのは俺がここに用があって、爺さんは暇だというから久しぶりに共に出てきた訳だ」
そこまで話して夏天佑はまた梁媛の前をゆっくり歩いた。
「誰に……家族は誰に……?」
「村から少し離れたところに近隣の街を度々荒らす賊の住処になっていた所があった。そこの奴等が突然襲ってきたんだ」
「……」
梁媛は俯いて黙り込んでいる。
「媛」
夏天佑は梁媛の前で屈んでその手を取る。梁媛は少し驚いたが、そのまま夏天佑を見つめた。
「愛したものが突然消え去るのは耐え難い。この先、何度も涙を流すことになるだろう。梁発がお前の心から消えることは無い。……消してはならん。これからずっとお前の心の中に生きるのだからな。お前だけじゃない。この都で、俺も洪の爺さんも発に出会った。俺の中でも生き、爺さんの中にも生きるんだ。爺さんは発を守れなかった事を悔やんでいる。昔、家族を守れなかった時の様にな。出会ってまだ数日だが、爺さんにとってお前達はもう家族なんだ。新しく出会うことのできた……」
夏天佑は立ち上がって、また歩き出した。
「変な話に思えるかも知れん。このあいだ言ったな。人は別れにばかり囚われて出会っている事に気付かなくなる。……今はまだ分からんでもいい。だが今のこの世で立ち止まっては居られん。媛、俺達は生きるぞ。明日もな」
梁媛は初めて洪破天と夏天佑に出会った時を思い出していた。あの日も、夏天佑は言った。
(明日も生きる……)
平大生と下僕の男が屋敷に帰って来た。柩を用意してきた様だ。
「智恩禅寺という寺が西にある。そこで小僧を荼毘に付す事になった。この都でも有数の大きな寺じゃ。そこの方丈をよく知っておってな。引き受けてくれた。急な事でもあるしのう、あまり大袈裟にもできんがちゃんと小僧を送ってくれることじゃろう」
どうしても梁媛は溢れる悲しみを抑えることができないが、もともと野垂れ死にしても仕方の無い生活をしていたのだ。そこまでしてもらえる事は有難いことである。
「あ……ありがとうございます」
「用意をしてすぐに連れて行くぞ」
「わかった。媛、行こうか」
夏天佑と梁媛は、家僕の男が担いでいる柩の後について部屋へ戻って行った。
鮮やかな朱塗りの門をくぐった先、正面にそびえる堂塔へ向かう石畳の道が真っ直ぐ伸び、小さな仏塔が立ち並ぶその周辺は丁寧に掃き清められている。都の喧騒から隔離されたような、その静寂と荘厳な佇まいに身を置けば、清い精神は安寧を得、乱れた煩悩は恐れをなす。数百年もの長い歴史を持つこの智恩禅寺は都の人々の厚い信仰と尊敬を集めていた。
平大生を先頭に正門をくぐった一行はそのまま正面には向かわずに、あまり人目に付かぬよう方丈の住まう僧坊の方へと向かった。暫く行くと一人の僧が待っていた。平大生とあまり変わらない歳であろうか、だが背が高い。威厳に満ちた容貌とその上背に初対面の者は威圧されてしまうかもしれない。
「お待ち致しておりました。儀正と申します」
三十一
儀正の第一声は意外にも穏やかで、柔和な眼差しに変わっている。
「ここの方丈、儀正大師じゃ」
平大生は振り返って洪破天等に言うと、儀正に向き直った。
「無理を言って申し訳ない」
平大生がそう言って頭を下げるのに合わせて、洪破天と梁媛の二人も頭を下げた。夏天佑と下僕の男が梁発の柩を抱えている。
「いやいや、大切な故人を尊重し、御仏の許へと導く事は人として当然で、そのお気持ちは真に尊いもの。残念ながら、この都ではそれすら出来ぬ不幸が蔓延しております。我等はこの不幸を払うよう努力せねばなりませぬ。ただ……今の現状では今回のことは表に出すことは出来ませぬ。情けないことじゃが、ご容赦下され」
「それは充分承知しておる。我等も他言はせぬ故、宜しくお願い致す」
方丈の傍にはまだ小さな見習いの少年僧が居るだけだ。この寺院の中でもこのことは秘されているのだろう。儀正の後に続いて歩いて行くと小さな庵が建っており、その中に簡素な祭壇が設けられていた。夏天佑等が柩を祭壇の前に置き、後ろに下がる。すぐに静かな読経が始まった。梁媛はじっと柩を見つめたまま儀正の後ろに控えていたが、どこか考え込むような表情で涙は無かった。夏天佑が静かに立ち上がり、庵を出て行く。平大生も続いて出て行き、梁媛、洪破天と家僕の男だけが中に残った。
「おぬしら、この都には何か用でもあったのか?」
平大生は夏天佑の横に腰を下ろした。
「俺がな。爺さんは付いて来ただけだ」
「いつまで居る?」
「今日にでも発つ予定だった」
「なるほどなあ。それで小僧の薬を取りにきたんじゃな……医者に来て殺されてしまうとは……」
「……」
平大生が夏天佑の方を見遣る。
「……おぬし、名を偽るのは何かあるのか?」
「洪の爺さんに聞いたのか?」
「いや、あいつは何も言うてはおらん。北辰におる男の噂を聞いたことがあるだけじゃ」
平大生はそう言って夏天佑の目を真っ直ぐに見る。
「どんな噂だ?」
「人ならぬ妖人が太乙北辰を奪う」
「ハッ、妖人か。それが俺か?」
「とてもそうは見えんな。じゃが、おぬしのその風貌に興味がある。医者としてな」
夏天佑がニヤッと笑った。
「名医は侮れんな」
「フフ、医者でのうても人ならば知りたがろう。妖人の、その妖術のからくりをな」
「妖術か……」
平大生はそれ以上その事には触れずに話を変える。
「洪の奴は東淵に行くと申しておったな。おぬしも行くのか?」
「いや、俺は途中までだ」
「……洪の奴と顔を合わせると必ず何かが起こるのじゃ。昔からのう。今回はおぬしまで現れた。これから一体何が始まるのやら……」
平大生は溜息をついてから辺りに目を遣っている。
「当分は何も無いはずだ。おそらくな」
平大生は夏天佑の方に視線を戻したが、とても信じられんといった様子で口をへの字に曲げてみせた。
「北辰の者は仏道の儀式には出ることはないのか?」
「俺は別に教徒じゃない。フン、それが気に入らん人間も居るがな。あんたはどうなんだ?」
「我が屋敷からでた死人の葬儀には立ち会わぬ」
「そうか……よくわからんが」
後ろで庵の扉が開き、洪破天が出てきた。
「発を荼毘に付す」
神妙な面持ちで言う洪破天の言葉で、二人は立ち上がった。
三十二
梁発の柩の前に立つと、梁媛は弟の頬に触れる。前に洪破天らに『覚悟はできている』とは言ったが、このような最後など想像もしていなかった。
「発……ごめんね」
微かな、震える声しか出なかった。
「媛……」
洪破天が梁媛の肩に手を置くと梁媛は立ち上がって黙って柩から離れる。
「では」
儀正は連れていた少年僧に向かって頷くと経を唱え始めた。梁媛はどうしても柩の方を向くことができない。涙が枯れるとはよく聞く言葉だが、そのような事は本当は無いのではないか。近くに立っていた夏天佑にしがみついて、ただ、泣き続けるしかなかった。やがて炎が立ち上ると、洪破天がその前に仁王立ちになり、じっと柩を包み込む炎をにらみ続けた。
梁媛達は儀正に案内され、別の庵入った。
「遺骨はどうされる? ここの納骨堂に収めることもできますが」
「……連れて行きます。離れたくありません」
梁媛は俯いたままだが、儀正は優しい眼差しを梁媛に向け、ゆっくりと頷く。暫くして少年僧が小さな骨壷を掲げるようにして運んできた。
「厳重に封をして箱に納めなさい」
「はい」
梁媛が口を開く。
「あの……少し外へ出てもいいですか? 何だか……息が詰まりそうで……」
儀正に目を向けると先程と変わらない眼差しで頷いた。梁媛が出て行くと洪破天が続いて表に出た。洪破天は少し距離を置いて梁媛を見ていたが、意を決したように梁媛に話しかける。
「媛……媛よ」
「あの」
急に梁媛が振り返り、洪破天の言葉を遮った。
「私……一人になってしまいました」
梁媛はそう言って笑おうとした。笑おうとしたのだが、その頬にはまた新たな涙が一筋流れ出している。
「洪……洪お爺様と一緒に行きたいです。連れて行ってくれますか?」
涙が滂沱として洪破天の深く刻まれた皺を濡らす。
「おお……媛児よ……共に行こう、行こうな」
しっかりと抱きしめ合い、そして二人して声を上げて泣いた。
その頃、史小倚の宿に王喜勝とその妻、李軍がやって来て話をしていた。王喜勝は太鼓腹を揺すり部屋をうろつきながら声を荒げている。
「亡くなられたお子がどのような関係かはわからんが、殷総監と関わりのあることは間違いない。しかも真武剣の奴等の仕業となれば放っておけんだろう!」
「ではどうするというのだ?ここでは我等教徒は無勢ではないか。下手をすればこの都に居られんようになるんだぞ?」
「そうだよあんた。この都から出てどうやって生きてくのさ。あたしは田舎暮らしは嫌だからね!」
「どっちにしても真武剣がのさばる事に変わりは無いわ! いずれ我等にも難癖つけてくることは分かりきっておる! 総監はどのように言われた?」
「何も。どちらかといえばあまり関係ないと言ったような感じもあったが……」
「それはきっと表向きの事だ。事を荒立てて面倒な事になってはならんということだろう。我が教も今は大事な時だ。すぐ発たれると?」
「おそらくあの子を葬ってから発たれるだろう。本当は今日、出立される予定だったのだ」
「……総監が発たれた後、真武剣が動き出すかもしれん」
「まさか……我等の事など奴らは屁とも思っておらぬであろう。何をするというのだ……」
「そんなことでどうする! 太乙北辰教が舐められてはならん! ……確かに我等だけでは何もできんかもしれんが、真武剣がこの都にやって来た時から懸念はしておったのだ。ともかく、身の処し方を考えるべき時が来たということだ」
三人は一様に深い溜息をついて考え込んでしまった。
「声が外まで聞こえておりまするぞ」
不意に男の声が聞こえる。三人はハッとして振り返ると若い男が二人、宿に入ってきていた。
三十三
「これは気がつきませんで、申し訳ございません」
史小倚はあわてて若者達の許へ急いだ。王喜勝と李軍はそそくさと立ち上がり帰ろうとする。
「フフッ……教徒の方々、我等のことはお気になさらずにお話をお続けくだされ」
男達はそう言うとおもむろに近くの席に腰を下ろす。王喜勝らは体を強張らせた。
「お、お前達何者だ!」
「名乗るほどの者では。真武剣派ではまだまだ駆け出しでして」
王喜勝らが驚いて固まっているのを見て一方の男がニヤッと笑った。
「この都にも太乙北辰教の方々は多いのでしょうね。うっかりご挨拶を忘れておりました。ご容赦願います」
慇懃無礼なその若者の口調は明らかに北辰教を貶めている。
「あんたら! ここは宿屋だよ! 客じゃないなら帰りな!」
王喜勝の妻、李軍が声を荒げたが二人の男は顔を見合わせてニヤニヤしながら三人の顔を見ている。王喜勝が二人の下へ歩み寄る。
「……早速か。真武剣、何の用だ」
「特別、用は無いんですがねぇ。どうやら皆さん我が真武剣派を快く思ってはおられぬご様子。我等もこの都に来たからにはこれから仲良くせねばなりませんしねぇ。皆さんは教主様の御許から遠くこの都にあって、変わらぬ忠誠心をお持ちのようですね。とても素晴らしい」
「何が言いたい?」
「いえ、別に何も」
王喜勝は若者のそのふてぶてしい態度に沸々と怒りがこみ上げてくる。
「……何も無いなら帰れ!お前達と話す事など何も無い!」
「そうですねぇ。またいずれ都の真武剣派一同揃って顔見せに参ると致しますかな。今日はほんのご挨拶」
「我等を都から追い出すつもりであろうが!」
王喜勝は思い切り目の前の卓を叩くと丁度真ん中から真っ二つに割れて崩れ落ちた。二人の若者は目を丸くして、
「おお、図らずも絶技をご披露いただけるとは」
と、相変わらず軽口を叩いている。机を割る絶技など聞いた事も無い。明らかに馬鹿にしている。王喜勝の後ろにいた李軍が何処からか取り出した短刀を手につかつかと若者に歩み寄る。
「それ以上口を開くと承知しないよ! 減らず口を刻んでやるからね!」
短刀を若者達の方に突き出して凄んだ。二人の若者は顔を見合わせてからゆっくりと立ち上がる。
「たとえお前達が大挙して攻めても我等太乙北辰教徒は屈したりはせぬからな!」
「それは……何とも頼もしい言葉だな」
急に加わった新たな声色に、その場に居た五人は一斉に声のした方を見ると宿の入り口に夏天佑が立っている。
「そ、総監!」
「あっ、お、お帰りなさいませ」
「あ、あんた……まだ居たのか」
若者二人は揃ってサッと王喜勝らの許から離れると夏天佑に対して身構えた。二人ともそっと腰に手を伸ばし、剣の位置を確かめる。
「まだ居たとは何だ。それはこちらの台詞だな。またお前か。フッ、張撰修。お前は何がしたいんだ? いたずらが過ぎると師父が怒り出すぞ? 俺が言いつけてやろうか?ハハ」
夏天佑は笑いながら中に入り二人の正面に立った。思わず身構えてしまった張撰修はその体制を誤魔化すかのようにもぞもぞと動いていたが剣から手を離して真っ直ぐに立つと、
「もうじき出立されるとお聞きしたので、ご挨拶に上がったまで。」
と作り笑いで答える。とにかくこの男が都を離れれば真武剣派は動ける。ほんの少ししか居ないが、まずは北辰教徒を追い出す。この都もまた、真武剣派の街にするのだ。張撰修はそう考えているが、実際のところ、これもまた真武剣派の総意でも何でもなく、この若者と同輩の取巻き数人がその気になって行動しているだけだ。しかもそれが真武剣派の為と思い込んでいる。今の北辰教との微妙な関係は真武剣派上層部が頭を悩ます問題だが、何も知らない若い者達はただ引っ掻き回すだけである。夏天佑の事ですらあまり知らない。よく知っていれば絶対に近づくことすら出来ないはずだ。北辰教はおろか、自分達のいる真武剣派の事すら理解出来ていない。
三十四
「お前が居ると安心して発つことができんな」
「……失礼いたします」
「二度と来るんじゃないよ!」
張撰修ともう一人の男が夏天佑の横を通り過ぎて宿を出ようとすると、李軍が再び調子よく大声を張り上げた。
「それは聞けん話だよな」
夏天佑が勢いよく振り返る。すると張撰修の後ろを歩いていたもう一人の男は襲われると思ったのだろうか、素早く剣を抜き切っ先を夏天佑に狙い定めた。それに反応して既に短刀を手にしている李軍、そして王喜勝、史小倚がサッと剣を抜いた男を囲むようにすかさず展開する。普段の彼等からは想像できないほどの殺気を放っている。とは言ってもやはり王喜勝は鞠のような丸い図体で史小倚は痩せて得物を持てるのかといった風情だ。李軍だけはまだまともに見える。
夏天佑は自分に向けられた剣の切っ先に事も無げに近づくとサッと右腕を振り上げる。「キンッ」と金属音がしたかと思えば、なんとその剣が途中で折れてしまっている。何をどうやったのか誰にも分からない。周りに居た者たちは一様に驚きの表情で口が開いている。夏天佑は三本の指で折れた切っ先を掴み、張撰修の方へ投げつけた。それほど速く投げた訳でもないが、切っ先が真っ直ぐ張撰修に迫ってゆく。平静で居たならばそれを掴み取ることができただろう。しかし張撰修はハッと息を呑み、大きく上体を傾けてそれを避けてしまった。
「フン、見事な真武剣の絶技だねぇ! 何でも避けられる技かい?」
すかさず李軍が野次る。夫が馬鹿にされたお返しだ。
「く……おい行くぞ!」
「この先、我が教徒達に近づくな。もし何かあれば……お前を殺す。真武剣を相手にするには慎重にせねばならんが、お前は、殺す。俺が殺す」
夏天佑が感情を表さずに冷やかに言うと、張撰修らは振り返らず足早に宿を去っていった。
王喜勝が夏天佑の前に跪くと、史小倚、李軍もその横に並んで跪く。
「総監様!」
「おれは夏だが」
「ハッ申し訳ございません」
「ここは方崖から遠く離れた都だ。世話になったな。あんたらは俺の友人だ」
「なんと……勿体無いお言葉……」
「俺は気楽にいきたいんだ。立ってくれよ」
ようやく跪いていた三人は立ち上がる。
「あんたらには申し訳ない事になったな。この先、危険が及ぶ事になるかもしれん」
「とんでもございません。全ては真武剣の奴等が悪いのです。我々はいかなる事があっても決して屈することはありません!」
「まあ、真武剣はすぐにどうこうするなど考えてもおらんだろう。さっきの鼠がちょろちょろうるさいだけだ。しかし、用心はせねばならん」
「ハッ」
三人が声を揃えて答える。
「もし何かあれば……遠いが、俺に言ってくれ。明日、方崖に戻る。もうじき洪の爺さんもここに戻ってくる。そうだ、夜、時間はあるか? ここに来てくれ。皆で飲もう。俺はまだ少し出てくるがすぐ戻る」
夏天佑はそう言って宿を出て行った。
夜、洪破天と梁媛は宿に戻って夕食まで部屋で休んでいた。前日、夏天佑が馬などを手配していたが、一日延びたこともあり洪破天は再び手配し直す為に出かけた。梁媛は部屋で寝台に横になって考え事をしている。視線の先には、梁発の遺骨の納められた箱が置いてある。寺を辞する時、儀正大師は梁媛に言った。
「そなたはその若さで苦難の道を歩んできた。その道は何処までも続いておる。しかし、その道を行くのはそなた一人ではない事を知らねばならぬ。今までは、いや、今も周りには誰も見えぬかも知れぬが、人の人生には「縁」が複雑に絡まっている。普段は気付かぬが、自身を、周りをよく見よ。聞きなされ。この世は決して狭くは無い。我等は本当に小さな存在。世の中を狭く感じてしまうのは自身の無知から来るもの。孤独だと嘆く多くの者達が、そなたと同じ道にひしめき合っておる。大切な弟御の肉体は失われてしまったが、忘れる事は出来まい。縁は切れることは無い。それでよい。行きなされ。広い世界を知り、多くの人間を見なさい。そなたの向いた先が道となろう」
梁媛はその言葉を呑み込めた訳ではなかったが、忘れないように繰り返し暗誦するように思い出していた。
三十五
史小倚の宿に再び王喜勝らもやって来て、夏天佑が酒を振舞った。無論豪華な宴席などではない。普段の夕食に王喜勝ら三人が加わっただけだ。
「他の教徒達にも宜しく言っといてくれ。これからはこの都の動きにも注意を払わねばならん」
夏天佑はその後それらの事には触れず、都の風物や人、歴史から他愛の無い噂話等を話していた。王喜勝らは先祖代々この都で商いをしていたらしい。彼等は都から遠く離れた街や人についても詳しかった。真偽の程は怪しいが、この都にはあらゆる情報が集まってくるのだろう。
部屋には梁媛と洪破天が残っていた。
「皆さんと一緒にお酒を飲みたいんじゃないですか?」
梁媛は少し笑いながら洪破天に尋ねる。さっきから何も言わずにいるが、どこか落ち着かない様子でいる。
「そんなことはないわい。しかし……お前は何も食べておらんだろう? 何か貰ってこようか?」
きっと間違いなく酒も貰ってくるだろう。
「いえ、行きましょう」
梁媛は立ち上がると前に置いてあった梁発の遺骨箱を抱えて辺りを見回し、自分の寝台にゆっくりと乗せた。洪破天の傍まできた梁媛を洪破天は見つめる。
「よし、行こう」
梁媛の背中に手を添えて部屋を出て行った。
王喜勝ら三人は夏天佑と酒を飲むうちに、今まで抱いていた彼の印象が聞いていたものと随分違う事に内心驚くと共に、こうして酒を酌み交わせる事を大変喜んだ。彼等は夏天佑を「総監」と呼んでいる。本来なら太乙北辰教の末端である彼等が彼に近づく事など出来ない筈だった。勿論、本拠である景北港、方崖では有り得ない。たとえ教徒と言えども教主の御座す方崖はそう簡単に上がることは許されない。ただ年に一度だけ全国から教徒が集まり教主のお言葉を賜る事の出来る大会が開かれるが、無論、個人的に教主以下大幹部に目通りする事など殆ど不可能である。この場に居る事は太乙北辰教に忠誠を誓う彼らにとってはこの上ない喜びであった。
「媛、少し飲むか?」
梁媛が広間に降りてきたのを見ていた夏天佑は梁媛に声を駆ける。史小倚は近くの椅子を袖で拭うと、梁媛の為に用意した。王喜勝らは弟を無くしたばかりの梁媛に何を言えばよいのか分からず困惑していたが、取りあえず立ち上がり、梁媛を迎える。その光景を見た夏天佑が、
「ハハ、どこの姫君が現れたんだ?礼を逸してはならんな」
そう言って立ち上がった。そして新しい酒杯に酒を注ぐ。
「さあ、席についてくれ。そうしないと我々が腰を下ろすことはできん」
梁媛は洪破天と顔を見合わせてから破顔する。席に向かって一礼すると、芝居でもするようにゆっくりと椅子に腰を下ろした。洪破天も隣に座る。
「そういえば、まだお前の歳も聞いておらなんだな。まあいくつでも酒は飲めるが。爺さんは赤子の時、母親の乳より乳白色の艶やかな酒壷を選んだらしいぞ?」
「覚えておらんわい。確かにそのような酒壷があったのは記憶しておるがな」
「私は、もうじき十三になります。夏の暑い時に生まれたので」
「安県の夏は暑いんだろうな。俺は苦手だ」
「それにしてはお前は白いのう。梁発も白かったな」
洪破天は言った後すぐに梁発の名を出した事を後悔した。梁媛の顔を窺うが、梁媛のにこやかな表情は変わっていなかった。
「私達の両親はこっちの方の出身だったので。都ではありませんが、北方だと言っていました。だから私も梁発も白いんじゃないかな」
王喜勝は頷きながら聞いていたが、ここはひとつ梁媛を楽しませねばとしゃべり始める。
「我等も代々この都ですからな。皆色が白い。私の自慢はこの腹でしてな。白い腹がまるで大きな玉のようだと……」
「何馬鹿な事言ってんだい!」
李軍にあっという間に突っ込まれて言葉が続かなかったが、梁媛が口を押さえて笑うのを見て王喜勝は何故かホッとしていた。
三十六
「好天が続くのう」
翌朝、表に馬を引いてきた洪破天は宿の表に出ていた夏天佑に声をかけた。
「向こうに着く頃にはいやと言うほど雨が降るさ。向こうでな」
「気が滅入るのう」
「今から心配してもどうにもならん」
洪破天が宿に入ると、梁媛はもう出立の準備を終えて待っていた。準備と言っても洪破天に買ってもらった新しい衣服くらいしか荷物は無い。自分の物と梁発の衣服、そして遺骨である。梁媛が思いのほか穏やかな表情で、落ち着いているようだ。
「準備はもうできた。少し一服してから発つとしよう」
梁媛の隣に座って表の通りを眺める。夏天佑は洪破天が引いてきた馬に荷を括り付けていた。
「洪破天様」
史小倚が洪破天の許にやってくる。
「東淵までの長旅、何かと入り用もございましょう。これは少のうございますが、お持ち下さいませ」
そう言って金を包んだ手巾を取り出した。洪破天は史小倚をじろりと見遣ると、
「金ならもっておるわい」
と、口をへの字に曲げる。
「あ、あの……」
史小倚は口ごもってしまい、どうしていいか分からずに首を縮めている。
「じゃあ、その金は梁媛にくれてやれ」
夏天佑が入ってきて史小倚の手から手巾の包みを取ると梁媛に差し出した。今度は梁媛が困ったような顔をして夏天佑と洪破天を交互に見る。
「私……」
「旅には金が要る。苦しい旅もあれば、楽しい旅もあるんだぞ。なあ」
「……そうじゃな。忝い。有難く頂こう」
洪破天は史小倚に向かい頭を下げた。
「では行くか」
「ああ、そうしよう。世話になった」
夏天佑が史小倚に声をかける。
「とんでもございません」
「くどい様だが、無理はするなよ。いざとなれば都を離れられるようにしておくんだ。皆まとまってな」
「承知致しました」
「まぁ今はまだそう心配せんでもいいだろうがな」
梁媛も立ち上がって史小倚にお辞儀をする。
「梁媛様……」
「あの……身内は居ないと仰ってましたよね? 私はこれから遠くに行きますけど、また都に来る事もあるかもしれません。私を知っている人はすごく少ないから……私、史小父様の事も忘れませんから」
「わ、私めも梁媛様の事は忘れませぬ」
史小倚は思わず膝をついて梁媛を仰ぎ見る。梁媛の言葉をじっと聞いていた洪破天が言う。
「おぬし……媛児は身寄りの無いもの同士、家族となろうと言うておるのではないか。そのような礼はおかしかろうが? 媛児と家族というならわしもおぬしの身内となろう。都を離れねばならん事態になれば東淵に来い。良いところじゃぞ。遠いがな」
洪破天はそう言って笑う。史小倚は床に跪いたまま涙を流し始めた。この都で長く宿を営んでいるが親しい人間は数人居るという同胞だけだ。洪破天は史小倚の肩に手を置いて軽く揺すってから、
「では、また会おう」
そう言って表に出て行く。梁媛は丁寧にお辞儀をして洪破天の後に続いた。
「さあ立ってくれ。人に見られるぞ」
夏天佑が声をかけ、史小倚はようやく立ち上がる。夏天佑が僅かに頷いたように見えた。そのまま黙って出て行った。
数人と言えども太乙北辰教徒が集まって真武剣派を刺激することを避けるために、誰も見送らぬようにと王喜勝らに言い含めておいたが、今思えば大したことでもなかったと夏天佑は考えていた。興味を持つのはあの張撰修という若造くらいのものだ。しかし、もし洪破天が張撰修を見つければ必ず一騒動になる。さっさと都を出てしまうに限る。洪破天は自分の馬に梁媛を乗せて夏天佑を待っていた。梁媛は梁発の遺骨をしっかり抱えている。
「ほれ、さっさと行くぞ」
「ああ、そうだな」
夏天佑は馬に乗り、二頭並んで歩き始めた。まだ陽は高くなく、通りを行く人も少ない。何事も無く三人は都の東門を抜けた。都からはこの東への街道と、梁媛と梁発が歩いてきた南への街道がある。その二つの街道からそれぞれ更に分岐してこの国の何処へでも行く事ができる。洪破天と夏天佑の二人には馴染みのある街道だが、梁媛にとっては東門を出た所から既に見たことの無い場所だった。
「この世は決して狭くは無い。広い世界を知り、多くの人間を見なさい」
梁媛は儀正大師の言葉をまた思い出したが、梁発と一緒に知り、見たかったと、遺骨箱を撫でながら考えていた。
今はまだ日差しの柔らかい春だが、洪破天らが東淵に着く頃には雨季がやってくる。あまりゆっくりはしていられない。洪破天はただの暇つぶしにこの都にやって来たが、おそらくこの先忘れる事のできない旅となった。
第二章へ続く