【9】
一瞬、気絶していたのかもしれない。頭が真っ白になった。いま、何と言われた?
『私は、あなたにキスをしてもいいですか?』
脳内で再生すると、マリアンネの顔が真っ赤になった。うん。自分でもわかる。これは否定しようもないほど真っ赤になっている。
真っ赤になったマリアンネだが、いやではない、と思った。だが、やはり恥ずかしさが勝った。マリアンネは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。
「ああああ、ああああの! わたくし、引き継ぎ書類を作らなければならないので、失礼します!」
敵前逃亡を選んだマリアンネだが、同じく立ち上がったフラスクエロ王子がさらにマリアンネを混乱させる言葉を言った。
「引継ぎ書類を制作しているということは、私とともに来てくれると言うことですか?」
「!?」
マリアンネは衝撃を受け過ぎて立ちあがった体勢のまま震えた。ちなみに今すぐ嫁ぐのは無理だろう。花嫁修業期間が存在するはずだ。たぶん。
真っ赤で立ったまま震えているマリアンネに、さすがのフラスクエロ王子も調子に乗りすぎたと反省したらしい。殊勝な口調で謝ってきた。
「すみません。からかいすぎました。あなたがあまりにもかわいらしいものですから……」
「い、いえ……わたくしも、取り乱してすみません」
我に返ってちょっと落ち着いたマリアンネも謝った。この妙な状況の所に、ノックなしに「はいるよー」と言う声だけで扉が開けられた。この声は兄のリクハルドだ。彼はこの若干謎の状況を見て眼を見開く。
それからずかずかとフラスクエロ王子に歩み寄ると、彼の胸ぐらをつかみあげた。
「ちょ、お兄様っ」
「フラス。お前、僕の妹に何をしたのかな?」
「お前、本当にシスコンだな……」
「とうに自覚済みだよ!」
「余計たちが悪いわ!」
「お兄様、フラス殿下!」
とりあえずマリアンネは兄にしがみつく。すると、リクハルドはマリアンネに向き直った。
「マリィ。何をされたんだい? 正直に言ってごらん」
にっこり笑っているが、目が笑っていない。マリアンネは口をむにゅむにゅとさせたが、何も言わなかった。リクハルドの矛先が再びフラスクエロ王子の方に向かおうとしたとき、開けっ放しのドアの向こうからツッコミが聞こえた。
「リクぅっ! 落ち着きなさいよ!」
ミルヴァだ。彼女はリクハルドの髪をつかんで引っ張った。
「いたたたたたっ」
「まったく。メイドたちが騒いでるから来てみれば……すみません、フラスクエロ殿下」
「いえいえ。こちらもやりすぎましたから」
ミルヴァとフラスクエロ王子が謝りあう。その間、ミルヴァはリクハルドの髪をつかんだままだった。マリアンネはミルヴァにツッコミを入れるべきか迷った。
「ええっと。それで、お兄様は何をしにいらっしゃったのですか?」
とりあえず話しを変えるべく尋ねた。マリアンネにしては頑張った方である。ミルヴァをなだめていたリクハルドは「ああ」とうなずいた。
「研究所の方が落ち着いたみたいだよ。できればマリィにも片づけに参加してほしいって」
「わかりました。行ってきます」
とりあえずこの場を離れるべく、マリアンネはぺこっとお辞儀をして小走りに部屋を出ようとした。
転んだ。
「大丈夫ですか?」
真っ先に駆け寄ってきたのはフラスクエロ王子だった。自分、とろい、と思いながら彼の手を借りて身を起こす。
「マリィ。大丈夫?」
「怪我とかしてない?」
リクハルドとミルヴァも近寄ってきて尋ねた。だれもマリアンネのとろさにはツッコミを入れない。
「だ、大丈夫です」
幸い足をひねったりなどはしていない。大丈夫。次は落ち着いてゆっくり行きます。フラスクエロ王子が心配そうにしている。
「送って行きましょうか?」
「いえっ。そこまでしていただかなくても大丈夫です!」
マリアンネは動転しながらもそう答えた。リクハルドは顔が若干ひきつっているが、ミルヴァは楽しげにこちらを見ていた。
「……マリィ。僕たちはこの後予定があるから送って行けないけど、ゆっくり行くんだよ」
「はい」
リクハルドの注意にうなずき、マリアンネは再度ぺこっとお辞儀をしてゆっくり歩きはじめた。
宮殿内は人が多い。最近、フラスクエロ王子とともにいることが多いマリアンネに対する陰口も聞こえた。絶対に聞こえるように言っている。マリアンネはギュッと唇を引き結ぶと、まっすぐ前を見て研究所に向かった。それはそれで嫌味を言われたのだが。なら、どうしろと言うんだ。
研究所の周囲では、研究員たちが壊れたところがないか、建物を調べていた。キメラの死体はすでに回収されている。
「ああ、マリアンネ様。いいところに~」
おなじみのアイリだ。割れたガラスに修復魔法をかけていた彼女は、マリアンネを見つけると駆け寄ってきた。
「マリアンネ様。所長がお呼びですよぅ」
「また? 今度は何の用なのかしら……」
先に言っておくが、キメラはマリアンネの専門ではない。生物学系は門外漢だ。
とりあえずアイリに礼を言って、所長室に向かった。所長室にはユハニとアウリス、リューディアが向かい合って座っていた。
「入れ。そしてドアを閉めて座れ」
ユハニが矢継ぎ早に指示をする。マリアンネはさっと中に入ってドアを閉め、空いているユハニすわっているソファに腰かけた。向かい側のリューディアがニコリと笑う。
「きれいにしてもらったね。怪我はない?」
「あ、はい」
何度もこけている割には、マリアンネはほぼ無傷だった。せいぜい打ち身である。体が丈夫なのか、運がいいのかはよくわからない。
「マリアンネ」
「な、何ですか」
「ヨハンナに最後に会ったのはいつだ」
「……」
思わずマリアンネは沈黙した。こういうことを平気でさらっと言ってくるから、ユハニは鬼畜だ、とか心がない、だとか言われるのだ。
「ちょっとユハニ。君は気を使うことを覚えたほうがいいと思うよ」
「私はそのうち、お前が研究員たちにクーデターを起こされても驚かん」
リューディアもアウリスもマリアンネと同じ感想を抱いたようだ。研究員の八割はユハニに殺意を覚えたことがあるらしいから、アウリスの言うことも微妙に現実味がある。ちなみに、マリアンネも一度だけ、本気で彼に腹を立てたことがある。
少し解説を入れると、ヨハンナとはマリアンネの父の愛人だ。正式に婚姻を結んでいないので、愛人、と言う言い方になる。妾でもいいけど。つまり、マイユやファンニの母親だ。
もう、この母にしてこの子あり、と言うような嫌味な性格をしている。顔立ちは、美人な方であると思う。でも、やはり絶世の美女と言われたマリアンネの母ティーアの方が美人だったと思う。
ヨハンナは豪商の娘なのだが、金遣いが荒く、宝飾品が大好きで、気に入ったものがあるとためらわずに購入する、と言う浪費癖があった。それでもエルヴァスティ侯爵家が傾いていないのは、侯爵家の財産が多いからに過ぎない。ヨハンナのせいで確実に減っているのは確からしい。
そんなヨハンナは、王都のエルヴァスティ侯爵邸に住み着いている。住みついている、と言うのは若干妙な表現ではあるが、当主の許可なく勝手に住んでいるのは確かだと思う。ゆえに、住み着いている。
屋敷を我が物顔で歩くヨハンナとは気が合わなくて、マリアンネは彼女らが王都にいる間は、めったに屋敷に帰らない。研究所で寝泊まりすることが多かった。
最後に会ったのはいつだっただろうか。結構前のような気がする。少なくとも、五日は侯爵邸に帰っていないと思う。
「……わからないですけど、一週間くらい前じゃないですか?」
「……リクと同じだな」
ため息をつきながらアウリスが言った。と言うか、リクハルドにも聞いていたのか。それなのにマリアンネに聞く必要はあるのだろうか。
「……ええっと。ヨハンナが何かしたんですか?」
マリアンネは首をかしげて尋ねた。さすがに気になる。彼女は何をしたのだろうか。
ちなみに、面と向かて『ヨハンナ』と呼ぶと、彼女は怒る。なので、彼女がいるときは『ヨハンナさん』と呼ぶようにしていた。最初は『様』づけだったのだが、兄に、貴族であるマリアンネが平民のヨハンナを『様』づけで呼ぶのはおかしい、と言われたのだ。
マリアンネの質問にアウリスは口ごもったが、相変わらずのユハニがさらっと答えてくれた。
「ヨハンナの実家の商家が、カトゥカを仕入れてカルナ王国にばらまいているという話があるんだ」
「まあ」
マリアンネは驚いたのだが、驚きすぎて逆に平坦な反応になってしまった。ヨハンナにあったか聞かれたのはそのためか。
「マリィ。しばらく王都の屋敷に帰らない方がいいかもしれないよ。ヨハンナたちはエルヴァスティ侯爵邸にいるんだろう? 君も関与を疑われてしまうかもしれない」
リューディアが優しい口調で言った。これは、研究所とおさらばするぎりぎりまで、研究所で寝泊まりすることになるかもしれない。
カトゥカは麻薬の原料の一種だ。カトゥカの実をすりつぶして粉にしたものを服用すると、幻覚が視え、気分が高揚するらしい。使用したことがないから詳しい作用は知らないが、カトゥカはカルナ王国でもほかの国でも禁止されている。
それなのになぜ出回るかと言うと、手に入れるのが比較的簡単だからなのだそうだ。カトゥカの苗はどこにでも根をはるし、ちょっと水やりを忘れたくらいでは死なない。しかも、異様に生命力が強く、根っこの切れ端から生えてくることもあるらしい。
「これがイグレシア王国の方に流れているという噂があるからな。フラスがやってきたのは、それを確認するためだ」
アウリスの説明に、ああ、と納得する。あまり目立たないために、この社交界シーズンを狙ってやってきたのだろうか。
「イグレシア王国に流れている元を立たないと、お前がフラスクエロ王子んとこに嫁げないからな」
ユハニが偉そうにふんぞり返りながら言った。いや、彼は偉いけど。
ふと見ると、リューディアはニヤニヤしていた。居心地が悪い。
「とりあえず、マリアンネは下手に動くなよ。リクとフラスが心配して仕事にならん」
おそらく、これが一番言いたかったのだろう。アウリスはマリアンネがうなずいたのを見ると、リューディアを連れて研究所を出ていった。
「……なんだかすごいことが起こっていたんですね」
「お前、ボーっとしてるからな。やるときはやるのに、なんでそうボーっとしてるんだろうな」
「……さあ」
ユハニの素朴すぎる疑問に、マリアンネは適当に返事をした。とりあえず、ユハニは研究所から出ないように言ったが、結局、マリアンネはちょっと気になったので、その日の夜は屋敷に帰った。
家に帰っただけなのに、まさかあんなことになるとは思わなかった。
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