【5】
カルナ王国の王太子妃リューディアは現ティーリカイネン公爵の長女だ。現在21歳で先日第一子である娘を生んだばかりで、大事をとって昨夜の舞踏会には参加していなかった。
リューディアはすらりと長身の女性で、淡く波打つプラチナブロンドにジェイドグリーンの涼しげな目元をしている。美女と言うよりかっこいいと言いたくなるような容姿の人だ。
リューディアの父親はマリアンネの母親の兄にあたる。つまり、マリアンネとリューディアは従姉妹同士になる。言われればリクハルドとリューディアは顔立ちが似ていると言われるかもしれない。
「あなたがスケッチブックを噴水に落とすとは思えないから、誰かに落とされたの? またあなたのお姉様?」
「……えっと」
口ごもったマリアンネを見て、リューディアは微笑んだ。スケッチブックを持っていない手でマリアンネの頬に触れる。
「いつまでも言いなりになっていてはダメだと思うけど」
「……わたくしが黙ってやり過ごす方が簡単なので」
「まったく」
リューディアは苦笑してマリアンネの額をはじいた。おでこをさすりながらマリアンネはリューディアを見上げた。
「リューディア様は出歩いていいんですか?」
「ずっと閉じこもっていると息が詰まるからね。それと、私のことは昔のようにリューリお姉様と呼んでくれるとうれしいな」
マリアンネがリューディアを『お姉様』と呼んでいたのは彼女が結婚するまでだ。腹違いとはいえ実の姉が姉らしくなかったので、マリアンネは従姉のリューディアになついていた。
だが、王太子妃となったリューディアをそんなふうに呼ぶのは恐れ多い。
マリアンネの表情で返答を悟ったのだろうか。リューディアは苦笑すると、マリアンネの手を引いて立ち上がらせた。
「一緒にお茶でもどう? サーラ、お茶の用意をお願い。それと、いたらミルヴァも連れてきて」
「わかりました」
リューディアは連れの侍女に指示を出すと、マリアンネのスケッチブックをほかの侍女に渡す。それからマリアンネの手を引いて庭を歩きはじめた。
「天気がいいから、東屋でお茶にしようか。フラスクエロ王子にいただいたイグレシアのお菓子があるの」
「イグレシアのお菓子、ですか……」
マリアンネはまだ見ぬ菓子に頬を緩ませる。マリアンネは甘いものが好きなのだ。その様子を見てリューディアは満足げに微笑む。
「君は簡単そうに見えて難しいね。きれいなものや甘いものに喜ぶのに、君が本当に喜ぶことはない……」
「ええ……っと……?」
マリアンネはリューディアの言うことがわからず、首をかしげた。リューディアはなんでもないよ、と微笑む。
庭園の景観を崩さないように設計された白い東屋でしばらくリューディアとおしゃべりに興じる。マリアンネは基本的におっとりしているので、リューディアの話しに相槌を打つ方が多い。
「お待たせ。楽しそうね」
明るい声を響かせてミルヴァがやってきた。おっとりしているマリアンネと穏やかな気性のリューディアの間にはなかった明るさである。
「急に呼び立てて悪かったね、ミルヴァ」
「いいわよぉ。暇だったし」
そう言ってミルヴァは邪気なさそうに笑った。彼女はマリアンネの左手に座る。リューディアの侍女たちによって並べられたお菓子を見て、ミルヴァは首をかしげる。
「見慣れないものがあるわね」
「イグレシアのお菓子だそうだよ」
ミルヴァはクッキーのような菓子をつまみ、しげしげと眺める。それからあまりためらわずに口の中に放り込んだ。
「!」
「あら、さすがはミルヴァ。思い切りがいいね」
見慣れない食べ物を見ると、人は警戒するものだ。現にマリアンネはそうだ。リューディアは楽しげな声をあげたが、マリアンネはじっとミルヴァの顔を見た。
「あ、おいしい。何これ、不思議な触感……」
「だから、イグレシアのお菓子。クッキーみたいなものらしいけど。マリィも食べてみるといいよ」
ほら、と皿ごと差し出され、マリアンネは少し迷ってから一つ、そのクッキーのような菓子をつまんだ。
「いただきます」
一口大のそれを口に含むと、口の中でほろほろと崩れた。確かにクッキーのようだが、ちょっと違う。口の中で簡単に崩れ、甘い。
「おいしいです」
「それはよかった」
マリアンネのほころんだ顔を見て、リューディアもニコニコして言った。
「後でフラスクエロ王子にお礼を言っておいで」
「……」
その言葉でマリアンネはもう一つ菓子をつまんだ手をおろした。
なんだか外堀を埋められている気がする……。いや、でも、ユハニの話しではフラスクエロ王子がマリアンネを欲している、と言う話は国王夫妻と王太子、マリアンネの父と兄、それに上司しか知らないという話だ。王太子妃であるリューディアには話が行っていない可能性が高い。
それとも、今日のうちに話が広まっているのか? それとも、妻に甘い王太子がもらしたのか? これもない気がする……。
と言うことは、やはり単純に彼女らが良かれと思って外堀を埋めている可能性が高い。マリアンネは一度おろした手を持ち上げて指につまんだ菓子をほおばった。
それを飲み込んでからマリアンネは尋ねた。
「もちろんお礼を言いには行きますが……わたくしが会いたいと言ってお会いできるような方ではないと思うのですが」
「ああ、それはこちらで手配しておくよ」
「……ありがとうございます」
王太子妃にそう言われては避けることができないな……。
基本的に、こういったお茶会でマリアンネは聞き役になる。おっとり気味のマリアンネは展開の速いご婦人の会話についていけないのである。
しかし、リューディアとミルヴァはそれほど話すのが早くなかった。なので、マリアンネも時々相槌を打ちながら口をはさむことができた。
「ミルヴァの結婚もなかなか決まらないね」
「そうなのよね。婚約期間が長すぎ……いや、いいんだけどさ」
ミルヴァがマリアンネの兄リクハルドと婚約したのは五年前だ。決して長いとは言えない婚約期間だが、ミルヴァがもう20歳であることを考えると長いかもしれない。
リクハルドが王女であるミルヴァと結婚すれば、彼の次期エルヴァスティ侯爵の地位は確固たるものになる。彼は確実にエルヴァスティ侯爵となる。なぜなら、妻が王女だからだ。そうなれば自分たちの入り込むすきがない、と父の愛人は考えたのだろう。
おそらく、愛人は自分の息のかかったものをエルヴァスティ侯爵に仕立てあげたいのだろう。もしくは、その妻に。もしかしたら、自分が男児を生む可能性も考えているかもしれない。
だから、リクハルドとミルヴァの結婚に横やりを入れて邪魔しているのだろう。リクハルドは王太子の側近として宮殿で働いているから、愛人の介入を阻止する余裕がないのだ。
こうなればマリアンネが何とかしたいところだが、マリアンネにはそこまでの才覚はない。下手に手を出したらこじれそうで怖い、と言うのもある。
あと、父のやる気がないのも原因だな……。マリアンネはティーカップを傾け、こくりと紅茶を嚥下した。事なかれ主義でも日和見主義でもいいが、締めるところはしっかり締めてほしい。
「ミルヴァがリクと結婚すれば、ミルヴァはマリィの義姉になるね」
リューディアは首をかしげて言った。ミルヴァがマリアンネの方に身を乗り出す。
「そうだわ。そうなったら、私のことは『お姉様』って呼んでね」
ミルヴァは楽しげにマリアンネに向かって言った。彼女は「妹が欲しかったのよねー」と微笑む。彼女は兄と姉と弟はいるが、妹はいないのである。
「じゃあ、ミルヴァは私のことを『お姉様』って呼びなよ」
「ええっ。それは無理。リューリは姉っていうか、友達だし」
長い付き合いの2人の友情は家族愛に変化しないらしい。ミルヴァもリューディアも剣を扱う姫君だ。彼女らも十分変人の部類に入るが、2人とも美人で対人能力が高い。だから、マリアンネのように忌避されなかったのだと思う。
やはり、人間、生きるためにはコミュニケーション能力は必要なのだなぁとしみじみ思う。
「リューリ、ここにいたのか」
「あら、アウリス」
「お兄様」
近づいてくる長身の青年に向かってリューディアとミルヴァがそれぞれ言った。この国の王太子は妻であるリューディアの元まで行くと、彼女の頬にキスをしてから自分の妹に言った。
「お前も、いないと思ったらこんなところにいたのか」
「リューリに呼ばれたんです。お兄様が軟禁するからリューリが退屈してるわよ」
「軟禁できるような女だったら苦労していない」
淡々とした口調で言い返す兄に、ミルヴァは肩をすくめた。
アウリス・ヨウニ・カルナはカルナ王国の王太子。ミルヴァの兄でありリューディアの夫。次期国王。マリアンネの兄リクハルドの学友であり、マリアンネの上司ユハニの従兄。25歳。
彼を初めて見た人は、彼に『怖い』と言う感想を抱くだろう。金髪にアイスブルーの冷たい瞳。切れ長の目は迫力満点で、表情が少ないためいつも無表情に見える。ミルヴァの兄だけあってかなりの美形だが氷の彫像のような印象だ。黙って立っていれば氷像に間違えられるのではないだろうか、とひそかに思っている。
「マリアンネも元気そうだな。うちの嫁と妹が迷惑をかけなかったか?」
王太子に話しかけられ、マリアンネはふるふると首を左右に振る。
「いえ。こちらこそ、お気を使わせてしまって」
マリアンネは立ち上がって礼をした。マリアンネはただの貴族の娘なので、礼を尽くさなければならない。少々行動がのんびりしているのはご愛嬌だ。
「楽しく話していたのに、お兄様が邪魔をしたのよ」
「お前は黙っていろ」
ミルヴァが口をはさむと、アウリスは鋭いツッコミを入れた。うん。今のはミルヴァの方が悪いかな……。
「マリアンネ!」
名前を呼ばれた。今度は誰だ。そう思って振り返ると、鬼畜な上司がすぐそこまで来ていた。
「何してるんだ、お前は! 外に出るなら一言言ってから行け!」
「アイリに言ってから出てきました」
「あの女が俺に言伝るわけないだろ!?」
つっこまれてから気づいたが、確かにそうだ。アイリは根っからの研究者であり、あまり気が利かないのである。
「あと、共同研究室の整理がまだだろうが! すまんが、こいつは借りていく」
ユハニはそう言ってこちらを見ている王族の皆様に言った。いや、ユハニも王族だけど。
「マリアンネが構わないならいいと思うが。しかし、襟首をつかむのはやめた方がいいと思う」
アウリスに淡々と注意され、ユハニはマリアンネの襟の後ろをつかんでいた手をパッと放した。呼吸が楽になった。気づかないうちに気道がふさがれていたようだ。
「ユハニ、珍しく掃除でもしてるの?」
ミルヴァがユハニの言葉に疑問を覚えたのか尋ねた。
「そうだよ。悪いか」
「いや、だって、あの研究者たちが掃除をするとは思えなくて」
疑うようにミルヴァはユハニを見た。いや、にらんだ、と言う方が正しいかもしれない。ここはユハニを助けてやるべきだろうか……。
「えっと、わたくしの私物が多いので、整理しろと言うお達しで」
「……言っておくけど、あなた、侯爵令嬢なのよ」
「? わかっています」
ミルヴァに当然のことを言われてマリアンネは首をかしげた。マリアンネの主張は嘘ではないが、真実でもない。
「とにかく、借りていく。アウリス兄上、できればリクにマリィのことを言っておいてくれ」
「わかった。……マリアンネ」
「あ、はい」
ユハニに手を引かれて研究所に戻ろうとしていたマリアンネは、アウリスに声をかけられて振り返った。少々失礼な体勢だが、ユハニが手を放してくれないので仕方がない。
「今夜、一緒に夕食でもどうだ? リューリもミルヴァも、もちろんお前の兄もいる。そこの鬼畜を連れてきてもいいぞ」
「誰が鬼畜だ」
ユハニが反論したが、反論した時点でだれが鬼畜と言われているかしっかりわかっているではないか。
「ええっと。わかりました……。いつお尋ねすればよろしいですか?」
「迎えをよこす。身支度をして待っていろ」
「……わかりました……」
王太子の誘いを断る、と言う思考はなかった。何しろ、アウリスは美形だが顔が怖く、人ひとり殺していてもおかしくないんじゃないの、と言うほどの威圧感を出す。マリアンネに逆らえるはずがなかった。なんだか嫌な予感がするんだけど。
にしても、従兄にすら鬼畜と言われるうちの上司は一体何なのだろうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
リューディアはハンサム系美女です。