【3】
カルナ王国王立魔法研究所、通称『賢者の塔』はカルナ宮殿の敷地内に存在する。文字通り、王家が支援する魔法研究所だ。所長はカルナ国王の甥であるユハニ・マルヴァレフト公爵。年は23。金髪碧眼の美形で未婚であるが、性格に癖が……と言うか、はっきり言うと鬼畜なので顔の割にはモテない。
マリアンネはそんな王立魔法研究所の研究員の1人だ。常勤ではなく、あくまで補助研究員の立ち位置だが個人の研究室を与えられており、しかも入り浸っている。
だが、マリアンネがこの日、研究所を訪れたのは呼び出しがあったからだ。
「来たな、マリアンネ。……どうした。こぎれいな格好だな」
基本毒舌のユハニが眉をひそめて言った。こぎれいと言っても、簡素だが上品なワンピースに髪を結い上げただけである。いつもは髪を適当にくくって白衣を着ている。
「ミルヴァ様にやってもらいました。……そう言えば、ミルヴァ様がユハニ様を蹴飛ばすとかおっしゃってましたので、死なないでください」
「お前の中で俺はミルヴァより弱いのか。お前、変なのは言動だけにしとけ」
「自分ではそんなに変なつもりはないんですけど。それで、何でわざわざ呼び出されたんですか」
「ああ。実はな。お前に研究者をやめてもらわなければならないかもしれん」
「はっ?」
マリアンネは目を見開いて首をかしげた。
「なんでですか?」
「やっぱり話がお前まで行っていないんだな。昨日、宮殿でフラスクエロ王子に会っただろう」
「え、ええ」
何となく嫌な予感がしつつ、マリアンネは素直にうなずく。ちなみに、昨夜の夜会にユハニは参加していなかった。研究所の方で少々問題が起こり、その後始末をしていたからである。
きっと、所員を罵倒しながら作業していたのだろう。まあ、ユハニはマリアンネと同じくそんなに社交界が好きではないから、これはこれでよかったのかもしれない。
「と言うわけで、フラスクエロ王子がお前をご所望だ」
「ユハニ様。接続詞の使い方が間違っています」
間髪入れずにマリアンネはツッコミを入れた。ユハニはそんなマリアンネの頬を引っ張る。
「お前が嫁ぐなんてなぁ。しかも他国か。ま、その方がいいかもしれんが」
ユハニに引っ張られた頬をさすりながら、マリアンネは首をかしげた。つっこみどころが多すぎる。
「ミルヴァ様にもフラスクエロ殿下に嫁いでイグレシア王国に行った方がいいと言われましたが……わたくしが、その、フラスクエロ殿下に望まれているという話は、今初めて聞いたんですけど」
「まあ、ミルヴァはこの話を知らんからな。変な風に暴走されても困る」
それは、確かに。マリアンネは豪華な椅子にふんぞり返って座るユハニに向かってうなずいた。
「と、言うわけで、この話は国王夫妻と俺とリク、それにアウリスとエルヴァスティ侯爵だけだな」
それを聞いて、マリアンネは自分に情報が入ってくるはずがないな、と思った。リクハルドはマリアンネを政略結婚させようとは思わないだろう。まず、マリアンネの意志を確認する。それに、ユハニとアウリス、つまり、カルナ王国王太子殿下が巻き込まれたのだと思われる。
にしても訳が分からない面子だ。彼らの集まりには参加したくない。マリアンネは兄のことは好きだが、何を考えているかわからないな、と思うことはある。
父親であるエルヴァスティ侯爵が何も言ってこなかった理由も何となく推察できるので、マリアンネはユハニに尋ねた。
「ええっと。この場合は、わたくしは断れないのですよね」
「いや、フラスクエロ王子は『マリアンネ嬢の意志を尊重してくれ』と言っていた」
「……」
なんというか、こう……それでいいのか、フラスクエロ王子。マリアンネが断るとは思わないのだろうか。
しかし、おそらく自分は断らないだろうな、とも思う。悪い話ではないし、基本的に縦社会である貴族社会では、王族の招きを侯爵令嬢ごときが断れないのだ。
いや、でもやっぱり変だ。
「フラスクエロ王子はどうしてわたくしを選んだのでしょうか」
「俺が知るわけないだろ。まあ、お前がこの話を断るんなら、お前、俺と結婚するか? 好きなだけ研究させてやる」
「ユハニ様と結婚するくらいなら、フラスクエロ殿下に嫁ぎますけど……」
それくらい、ユハニは鬼畜だということだ。変人令嬢と言われるマリアンネですら拒否するというこの状況。
ユハニはぴくっと唇の端をひきつらせたが、それ以上は何も言わなかった。言わなかったが、マリアンネの頭をつかんだ。
「痛いんですけど」
「とにかく。お前は研究室を片づけておけ。フラスクエロ王子に嫁ぐにしても何にしても、お前の研究室、物多すぎ」
「だって、屋敷に置いておいたら勝手に捨てられるんですもの」
「おまえんち、どうなってんだよ」
それは自分でも思う。
ユハニの前を辞したマリアンネは自分の研究室の片づけを始めた。研究室にはマリアンネの私物が多い。個人研究室はもちろん、共同研究室も片づけなければ。
午前中いっぱいを使って個人研究室を片づけたマリアンネは、そのほとんどのものを処分した。必要なものだけ屋敷に送る。まだ婚約話の段階のはずなのに、こうして身の回りの整理をしている自分が可笑しくなる。
通常、侯爵令嬢ともなれば侍女を連れて歩くものだが、マリアンネは侍女を屋敷にしか置いていない。マリアンネ付きの侍女が少ないからである。マリアンネ自身も、最低限の自分の世話はできるので、それほど必要だと感じたことはない。
「マリィ様、いなくなっちゃうんですかぁ?」
研究所の食堂で食事をとっていると、同じく研究者の女が間延びした声で尋ねてきた。カルナ人なので金髪だが、手入れを怠っているので髪の毛はぼさぼさだ。アイリというちょっと狂った研究者だ。いや、研究者は大体おかしいけど……。
「まだいなくなるかもしれない、と言う段階よ。ユハニ様が一応部屋を片付けておけって」
「うぅ~。さみしくなりますねぇ」
アイリはぱったりとテーブルに身を伏せた。マリアンネはそれを見て微笑んだ。
「わたくしも寂しいわ。あなたたちといるのは楽しかったもの」
それは本当だ。研究しているのも楽しかったが、彼女らと話しているのが楽しかったのも事実だ。
「それで、どうしていなくなるんですか?」
退職理由をアイリは聞いていなかったようだ。今度はマリアンネがかくっとなった。
午後になるとマリアンネはスケッチブックを持って宮殿の庭に出かけた。何度も言うが、王立魔法研究所はカルナ宮殿の敷地内に存在するのである。つばの広い帽子をかぶったマリアンネは、噴水のあたりまで来ると、木陰に設置されたベンチに腰掛け、スケッチブックを開いた。
マリアンネ・エルヴァスティ侯爵令嬢。趣味は読書と研究、そして芸術鑑賞。自分で絵を描くのも好きだ。
かつて、マリアンネはいくつか本格的な絵を描いたことがある。カンバスに下書きをして、絵の具で色を塗って。時間をかけて描いた力作が、十点ほどあった。そのうち一点は美術展に出展したことがあるものだった。
過去形なのは、その絵がもう、この世に存在しないからだ。燃やされてしまったためである。ちなみに、フラスクエロ王子はこの美術展に出展した絵を見たと思われる。
マリアンネは抽象画を好むのだが、今スケッチブックに描いているのは風景画だ。一応人物画などの写実的な絵も描ける。これらのスケッチは鉛筆で行う。色を付けようと思うと、どうしてももっと丈夫な紙かカンバスに描かなければならない。そうなると、見つかる可能性が高くなる。
見つかれば燃やされる可能性が高くなるため、マリアンネはスケッチブックに絵を描き、そのスケッチブックは研究所に保管していた。
話は変わるが、マリアンネは集中力がすごい、と言われる。この驚異的な集中力は周囲への注意を散漫にさせる。そのため、マリアンネは屋敷が火事になれば逃げ遅れるだろう、と実の兄に言われている。お兄様、ひどい。
「何の絵を描いているのですか?」
背後から肩に手をかけられて耳元で話しかけられ、マリアンネはびくっとした。あわてて振り返ると、すぐそばにエキゾチックな美形の顔があった。彼は肩から手を離すと微笑んだ。
「驚かせてしまってすみません。呼びかけても反応がなかったもので……」
「あ……いえ、こちらこそすみません。わたくし、集中していると周りが眼に入らなくて……」
「……すごい集中力ですね。うらやましいです」
フラスクエロ王子は微笑んだが、その表情が無理やり作ったかのような印象だった。呆れるような娘で申し訳ない。
「お隣、いいですか?」
「あ、はい」
マリアンネは穏やかな口調に思わずうなずく。うなずいてから、まずかったかな、と思ったがもう遅い。フラスクエロ王子はマリアンネの隣に腰かけた。
「それで、何の絵を描いているんですか?」
「えっと、風景画です」
「風景画、ですか。確か、私が見たあなたの絵は抽象画だった気がしますが……」
「本当は抽象画の方が好きなんですが、抽象画は色がないとうまく表現できなくて」
描いている風景画をフラスクエロ王子に見せながら言った。それはマリアンネの力不足かもしれないが、本職ではないので仕方がないと思っている。絵は趣味だ。
「そうなのですか。でも、風景画も上手ですね」
「……ありがとうございます」
お世辞だとしても、ほめられたのはうれしい。マリアンネの絵をほめてくれたのは今は亡き母と兄とミルヴァくらいである。まあ、見る人があまりいなかったともいう。
フラスクエロ王子は緩んだマリアンネの顔を見て微笑んだ。
「やはり、笑った顔の方がかわいらしいですね」
褒められなれないマリアンネはドキッとした。頬が赤くなるのがわかる。マリアンネはフラスクエロ王子から視線をそらすと、ギュッとスケッチブックを抱きしめた。
そして、今朝方判明した話の真相について尋ねてみることにした。
「あの。殿下がわたくしに求婚なさっている、と言うのは本当なのですか?」
「ああ、聞いたんですね。リクからですか?」
「鬼畜……いえ、上司のユハニ様から聞きました」
「鬼畜?」
「何でもありません忘れてください」
息継ぎなしで問題発言を否定する。これがユハニの耳に入ったら暴言が飛んでくる。まあ、基本的に言葉が暴力的なだけで実際には暴力的な人ではないのだけど。
「ユハニは確か、魔法研究所の所長でしたね。マリアンネ嬢はそこの研究員だと聞いたけど?」
「はい。一応は」
魔法研究所には魔法を研究したい、と思った人間が集まってくる。必ずしも魔力がある必要はないが、やはり魔力のある魔術師が多い。マリアンネもそうだし、ユハニに至ってはもうこれは歩く戦略兵器なんじゃないか、と言うくらい強力な魔術を使う。
研究員は貴族と平民が半々くらい。男女率は圧倒的に男性の方が高い。女性研究者とは全員と顔見知りだ。
研究所は居心地がよかった。しかし、それもお別れだ。たぶん。ここで、フラスクエロ王子の求婚を受けてしまったら。
「やはり、魔法研究ができなくなるのはさみしい?」
「ええ、まあ……でも。研究するだけならどこでもできると思いますので」
研究、と言っても、マリアンネが行う研究は爆発が起こるような研究内容ではない。ひたすら魔術書や数式とにらめっこするタイプのものであり、つまり、本と紙とペンさえあればできる。
「……もしかして、私と結婚することに関して前向きに考えてくれている?」
フラスクエロ王子が嬉しそうに言った。だから、何故あなたはこの陰気そうな令嬢を見て嬉しそうな表情をになるのだ。
「……それは、まあ、悪い話ではありませんし……お兄様のご友人なら、いい人だと思いますし、あとは、父の考え次第かと」
基本的に日和見主義でマリアンネのことを顧みない父だが、隣国の王子からの要求を断るのは難しいと思う。つまり、この縁談はまとまる可能性が高かった。
「……妥協か」
そうつぶやいてフラスクエロ王子は考え込むように腕を組んで黙ってしまった。マリアンネはちらっとその横顔を見ると、スケッチブックのまだ白いページを開いて彼の似顔絵を描き始めた。
顔立ちの整っている人と言うのは描きやすい。顔の輪郭や顔のパーツの配置が整っているからだ。しかし、その美しさを表現することは難しい。母ティーアやこの国の王太子など、美しい人間を描いたことはあるが、その美しさを絵で表現できなくて残念だ。この辺りはマリアンネの画力不足である。
と言うわけで、美形なフラスクエロ王子もうまく絵で表現できなかった。マリアンネは1人でうーん、と悩む。
「……もしかして、私ですか?」
「あ、はい」
隣から声がかかってとっさにうなずいた。当たり前だが、相手はフラスクエロ王子で、どうやら考えタイムは終わったらしい。
「少し見せてもらってもいいですか?」
「えと、ど、どうぞ」
マリアンネは自分のスケッチブックを恭しく差し出す。こんなもん、見てどうするんだろうか。
「どれも上手だと思いますが、やはり、もっと大きな作品を見てみたいですね」
「ありがとうございます……でも、それはちょっと難しいかと」
「私の所に来れば、好きなだけカンバスに絵が描けますよ」
そう言ってフラスクエロ王子はニコッと笑った。マリアンネはごくりと唾を呑む。本格的な研究ができなくなることを考えても魅力的な誘い文句だった。
「い、いいかもしれませんね……」
ちょっと心が惹かれたマリアンネは正直に答えた。脈ありを確認したフラスクエロ王子は嬉しそうだ。しかし、彼が言葉を発する前に声がかかった。
「フラスクエロ殿下。そろそろお時間です」
「ああ、もうか。楽しい時間はあっという間ですね」
従者らしき人に声をかけられたフラスクエロ王子は苦笑気味にそう言った。彼はマリアンネにスケッチブックを返すと、彼女の片手を取った。
「では、またお会いしましょう、マリアンネ嬢」
その手の指にキスをして、フラスクエロ王子は颯爽と去って行った。その後ろ姿をぼんやり見送っていると、今度は女性から声がかかった。今日はよく声をかけられる日だな。
「ちょっと。マリアンネ」
それはとても聞きたくない声だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回出てきた研究所所長のユハニはお気に入りです。人がしないことをさらっとやってくれるので、動かしやすいのかもしれません。
フラスクエロは一歩間違えれば、ストーカーになる気がする……。