【1】
突然始まり、突然終わる予定の話です。
「お嬢様、一曲お相手願えませんか?」
そんな声がかかって、マリアンネは顔を上げた。目の前の青年の顔を見つめる。
……だれ、この人。
この国の貴族は大体頭に入っているはずだが、該当者がいない。そもそも、金髪が多いこの国で、青年の黒髪は目立つはず。だから、記憶に残らないはずがない。つまり、初対面と考えていいだろう。
黒髪に藍色の瞳。切れ長の涼しげな眼を細め、彼はマリアンネに微笑んでいた。エキゾチックな美形に見つめられても、マリアンネは表情一つ動かさなかった。
とはいえ、マリアンネが他人と目を合わせる光景は珍しいのか、周囲の注目が集まっている。いや、このエキゾチックな美形のせいのような気もするが……。しかし、マリアンネがこのカルナ王国において、ある意味有名人であるのも確かだ。
この青年がエキゾチックなら、マリアンネはエキセントリックだ。直球に『変人』と言われることもある。
マリアンネ・エルヴァスティ侯爵令嬢。年は17、趣味は読書と研究、芸術鑑賞。長いアッシュブロンドの髪にエメラルドグリーンの瞳。色白でそれなりに顔立ちは整っているが、普通。しかも髪が邪魔して顔がよく見えない。背丈は普通。細身で、よく『貧相』と言われる。
マリアンネが『変人』と言われるのはその野暮ったい外見だけではない。夜会だろうがパーティーだろうが舞踏会だろうが、必ず本を持ち歩き、壁際のソファに腰かけてその本を読んでいる。おしゃべりやダンスに混じることはなく、ひたすら本を読み、そして帰っていく。
実害はない。だが、人に『変』だと思われるには十分なふるまいであるのは確かだ。
話がそれた。目の前の青年の話しだ。
いてもいなくてもいい存在であるマリアンネに、こういったパーティーで話しかけてくる人は少ない。ましてやダンスに誘う人間なんて、賭けに負けた男が罰ゲームとして誘ってくるぐらいだ。そのメンバーはたいてい決まっているので、顔は覚えている。この青年はそのどれにも当てはまらないので対応が遅れたのだ。
結果、見つめ合うことになっている。
これが、いつもの賭けに負けた罰ゲームなら、マリアンネはそのまま視線を本に戻したはずだ。しかし、今回は相手の素性がわからない。断っていいものかわからなかった。
「ああ、マリィ。こちら、イグレシア王国の第2王子フラスクエロ殿下だよ」
そう言って微笑んだのはマリアンネの兄のリクハルドだ。妹のマリアンネと同じくアッシュブロンドの髪にエメラルドグリーンの瞳なのに、彼は華やかな美貌だ。何度か腹違いの兄妹と間違われたことがあるが、父親も母親も同じ、実の兄妹である。
「失礼いたしました、殿下。わたくし、エルヴァルティ侯爵家のマリアンネと申します」
マリアンネは本を置いておっとりと立ち上がってスカートをつまみ、礼を取った。よく、お前はとろい、と言われる。余計なお世話だ。
「存じていますよ。リクは私の学友でもありますから」
フラスクエロ王子に微笑まれた。周囲の令嬢がほう、とため息をつき、同時にマリアンネを睨んだ。器用だな。まあ、思わずマリアンネを睨みたくなってしまうくらいフラスクエロ王子が魅力的だと言うことだ。
そう言えば、数年前、兄はイグレシア王国に留学していた。当初は2年の予定だったが、母が急死したため1年あまりでカルナ王国に帰ることになったのだ。
その時に土産話の一つに、『イグレシア王国の王子と仲良くなった』と言うものがあった気がする。その仲良くなった王子がフラスクエロ王子か。
「それで、先ほどの返事はお聞かせ願えますか?」
先ほどの返事? ぼんやりとフラスクエロ王子の顔を見上げ、ああ、と思った。ダンスの相手か。
「……せっかくお誘いいただいたのに申し訳ありませんが、わたくし、あまりダンスは得意ではないのです」
「構いませんよ。私がリードしますから」
うわぁ、すごい自信。
「マリィ。せっかくだから一局踊っておいで。いつも本を読んでばかりではいけないよ」
リクハルドにもにっこり笑って諭されて、マリアンネはしぶしぶフラスクエロ王子の手を取った。ああ、令嬢たちの視線が痛い……。
王宮で開かれる夜会は華やかだ。オーケストラは一流で、芸術を好むマリアンネの耳を楽しませる。でも、できれば聞いているだけが良かった。そう思いながら、マリアンネはフラスクエロ王子の端正な顔を見上げた。
すると、フラスクエロ王子はマリアンネに微笑みかけた。至近距離で微笑まれ、さすがのマリアンネも視線を逸らしてうつむいた。そして、平凡な自分がどうしてこの美形と踊っているのだろうか、と思った。
自信ありげに宣言していた通り、フラスクエロ王子はダンスがうまかった。リードも完璧で、マリアンネのどこかつたないステップをカバーしてくれていた。
「踊れるじゃないですか」
「わたくしも一応、侯爵令嬢ですからステップを踏むくらいはできます。でも、これ以上難しい音楽では無理です」
そう言う芸術的な音楽は聞いているに限るのだ。これ以上難しくなると、マリアンネは踊ることができないだろう。
「ダンスはお嫌いですか?」
「嫌いではありませんけど……芸術は観賞するだけで十分な性質なんです」
「そうですか……」
何故か、フラスクエロ王子は切なげに微笑んだ。マリアンネはそのことに首をかしげつつも、気になっていたことを尋ねてみた。
「どうしてわたくしを誘ってくださったのですか? もしかして、お兄様に頼まれたのですか?」
そうであるならば、正直、有難迷惑である。基本、こういった社交の場で存在が空気であるマリアンネは、あまり目立ちたくないのだ。だって『変人』だから。
だが、フラスクエロ王子は微笑んで言った。
「いいえ。私からリクに頼んだんですよ。あなたと踊らせてくれ、とね」
美形な王子様に言われた言葉に、マリアンネは激しく動揺したが、幸い、ステップは踏み間違えなかった。
「ど、どうしてですか? 自分で言うのもなんですが、わたくし、あまり見栄えのする容姿ではないと思うですが……」
マリアンネのどこがフラスクエロ王子の気を引いたのだろうか。外見ではないと思うけど。それとも、リクハルドを見て、その妹なら美人だろうと踏んだのだろうか? しかし、それだと執拗にマリアンネを誘った理由がわからない。
「マリアンネ嬢は十分美しいと思いますよ。まあ、私ならあなたをもっと美しく着飾らせられる自信があるのも確かですが」
さっきから自信過剰な王子だな。それに、この格好は自分が好きで周囲に埋没しているのもあるんです。つまり、余計なお世話だ。
「私があなたと踊りたいと思ったのは、話しをしてみたいと思ったからです」
「話、ですか?」
踊りながらマリアンネは首をかしげる。フラスクエロ王子は不自然でない程度にマリアンネの腰を自分の方に引き寄せた。
「3年前、あなたの描いた絵を見ました」
マリアンネははじかれたようにフラスクエロ王子を見上げた。と、同時にステップを間違えて転びかける。しかし、フラスクエロ王子がさりげなく姿勢を立て直してくれた。
「あ、ありがとうございます……でも、どうして。わたくしの、絵は」
すべて燃やされたのに。
いや、一度だけ美術展に出展したことがある。その時か! そうであるならば、3年前、フラスクエロ王子はカルナ王国を訪れていたことになる。
「もしかして、わたくし、殿下とどこかでお会いしたことがありますか?」
かなり失礼なことを聞いた自覚はあるが、気になった。唐突にこの人と会ったことがあるのかもしれない、と思ったのだ。
すると、フラスクエロ王子はとろけそうな笑みを浮かべた。
「ありますよ。10年前と3年前。まあ、十年前はあなたは幼かったし、三年前に会ったときはずっとうつむいていたから、私に気付かなかったのかもしれませんね」
「す、すみません」
どうやら、会ったことがあるようだ。10年前なら、マリアンネは7歳。フラスクエロ王子は10代半ばくらい……かな。兄の年齢が25歳なので、それくらいだろう。その時のマリアンネの記憶はあいまいだし、フラスクエロ王子も面変わりしている可能性がある。
しかし、3年前なら記憶に残っていてもおかしくない。マリアンネは十四歳のはずだからだ。だが、このころのマリアンネは根暗で(今もそうであると言われると否定できないが)、ずっとうつむきがちだったのは確かだ。
「別にかまいませんよ。たった二度、会っただけの人間を覚えている人はそうそういないでしょう」
いや、普通、あなたほど美形な人に会ったら覚えていると思います。つまり、わたくしの記憶力の問題です。口に出そうか迷ったが、話しが脱線しそうな予感がしたので黙っておいた。
「あなたの絵を見て、衝撃を受けました。この世界にはこんなに美しい絵があるんだと。こんなに美しい絵を描ける人がいるのだと、驚きました」
「あの……ありがとうございます」
「そして、その絵を描いたのが友人の妹であり、まだ十四歳であることにも驚きました」
「……」
マリアンネはフラスクエロ王子の顔を見ていられず、視線を彼の胸元にまで落とした。群青色の礼服が眼に入る。
あの時描いた絵は、水中の中の聖女をイメージした抽象画だったはずだ。幾何学模様から発展した抽象画であり、マリアンネが最初で最後の製作者となるだろうとすら言われた。
その絵は、すでにこの世にない。父に燃やされてしまったからだ。
なのに、その絵を称賛してくれる人がいる。とてもうれしかった。うれしいのに、ほめてくれた人にその絵を見せることは、もう、できない。
唐突に、頬に温かい水が滑り落ちた。はっとしてフラスクエロ王子の手を振り払って目元をぬぐった。
「マリアンネ嬢? 何か気に障るようなことを言ってしまいましたか?」
ダンスホールの中で立ち止まってしまったため、ダンスを続けている人たちが迷惑そうにマリアンネたちをよけていく。フラスクエロ王子はマリアンネの肩を抱くと壁際まで連れて行った。
「マリィ、フラス。どうかした? ……どうしたの、マリィ」
すかさず近寄ってきたリクハルドがマリアンネの顔を覗き込んだ。唐突に流れた涙は止まっていたが、目元の化粧がはがれてしまった。いや、そんなに化粧もしてないけど……。
「フラス、僕の妹に何かした?」
「そんなつもりはないが……どうやら、気に障るようなことを言ってしまったようだ」
「マリィはめったなことじゃ怒らないんだけど」
リクハルドは妹を泣かせた友人を睨む。フラスクエロ王子はそれを見て顔をひきつらせて微笑んだ。それにしても、うちの兄も隣国の王子に対して遠慮なさすぎだ。
「お兄様。大丈夫だから。殿下のせいじゃないし……。殿下も、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そう? 大丈夫ならいいけど」
「こちらこそ、次からは発言に気を付けます」
そして、そろそろ美形二人をはべらせたエキセントリックな令嬢への視線が痛いです……。
「あの、わたくし、ちょっと化粧直しに」
「あ、そうだね。1人で大丈夫?」
「どこまでついてくるつもりですか、お兄様……」
前から思っていたが、リクハルドはシスコンだ。いや、別にかまわないけど。マリアンネには、兄以外に頼る人もいないから。
マリアンネが用意された休憩室と言う名の化粧室で簡単にアイメイクを治していると、ぞろぞろと派手なドレスを着た令嬢がやってきた。ちょうど終わったところだったので邪魔にならないようにどこうとすると、呼びとめられた。
「ちょっと」
しかし、マリアンネは気にせず休憩室を出ようとした。すると、今度は名指しで呼び止められた。
「あなたの事よ! エルヴァスティ侯爵令嬢!」
「わたくしのことを言っているのなら、初めから名前で呼んでください。わたくしは『ちょっと』と言う名前ではありませんので」
しれっと言うと、先頭にいたメリライネン公爵令嬢がきっとこちらを睨み付けた。相変わらずドレスも化粧も派手な人だ。
「変人女のくせに、涙で殿下の気を引こうなんて、やってくれるじゃないの」
そうよそうよ、と取り巻きの令嬢たち。自分の意見はないのだろうか。
「そもそも、なんであんたみたいな女に殿下は声をかけたのかしら。何かの魔術でも使ったの?」
「今のところ、そう言った効果のある魔術は発見されていません」
おそらく、マリアンネが魔術研究者であることを皮肉ったつもりだろうが、皮肉になってないぞ。
「フラスクエロ殿下はわたくしの兄の友人なので。その縁で声をかけていただいただけです。わたくしに用がないのでしたら、お先に失礼します」
これだけの言葉をほぼ一息で言い切り、マリアンネはさっさと休憩室から出た。そこで、今度は王女に出会った。マリアンネは盗み聞きしていた王女に呆れてツッコミを入れた。
「何してるんですか、ミルヴァ様」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ちなみに、世界観的には昨日本編が完結しました『背中合わせの女王』と同じです。出てこないですけど。