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第29話 年下の男の子

翌日の昼休み。


私は美鈴に連れられて、サークル部室棟へ向かっていた。


大学の敷地内には何度も足を運んでいるのに、この建物に入ることはほとんどない。


私たちの文藝サークルも、昔はここに部室があったらしい。


けれど活動実績が乏しいとか、利用頻度が低いとか、そんな理由で追い出され、今では決まった部室を持たない野良サークルと化している。


その点、これから向かう電研――電脳研究会は、ちゃんと部室を持っている。


「ねえ、ミリン」


「ん?」


「部員でもないわたしが、本当にパソコンを借りても大丈夫なの?」


昨日はパソコンを使わせてもらえると聞いて、後先考えずに飛びついてしまったけれど、本当に大丈夫なのだろうか。


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと話は通してるから。それに……」


「まあ、変な人はいるけど、悪い人はいないから」


「う、うん」


「部長は高校の先輩なんだ」


美鈴が軽い調子で答える。


「向島巌《むこうじまいわお》っていうんだけど、すっごく真面目な人だよ」


「へえ~」


「女の人の顔、まともに見られないけど」


美鈴が笑った。


階段へ向かって歩いていると、美鈴が「あ、そうだ」と何かを思い出した。


「カノン、金曜日の親睦会、来るよね?」


足が一瞬だけ止まりそうになった。


「……親睦会?」


「ほら、この前、店の下見したじゃん」


「ああ」


そうだった。


美鈴と。


早川君と。


三人で行った、あの店。


「今度の金曜に決まったから。七時から」


「そっか」


できるだけ普通に答えた。


「人数も結構集まったよ。珍しく」


「うん」


「早川も来るし」


分かっていた。


文藝サークルの親睦会なのだから、早川君が来ても何もおかしくない。


それなのに、名前を聞いただけで胸の奥が少しざわついた。


昨日。


私は自分から、互助関係を終わりにした。


これからは自分で書いてみたい。


そう言って。


早川君も、「分かった」と答えた。


それだけなら、まだよかった。


問題は、その前の夜だ。


私は、自分が早川君を好きなのだと気づいてしまった。


知らなかったころなら、同じサークルの友達として普通に会えた。


たぶん。


でも、今は。


「カノン?」


「え?」


「どうしたの?」


「なんでもないよ」


危ない。


「金曜日ね。分かった」


「オッケー。あとで掲示板にも流しとく」


美鈴は何も気づかなかったようで、そのまま階段を上っていく。


私は小さく息を吐いて、その後を追った。


金曜日。


あと三日。


別に、二人きりになるわけじゃない。


みんないる。


だから大丈夫。


……たぶん。



*



電研の部室は、四階の廊下の奥にあった。


美鈴がドアを二回ノックする。


「ちーす」


返事を待たずに開けた。


「あ、ミリン」


私も慌てて後に続き――。


「うっ」


思わず声が出た。


狭い。


六畳くらいだろうか。


中央に大きな座卓が置かれ、その上にはノートパソコンやらケーブルやら、用途の分からない小さな機械やらが散らばっている。


壁際には棚。


その棚にも箱、箱、箱。


何かのキャラクターらしい人形も並んでいる。


そして、男の人が二人。


一人はパソコンに向かっていて、もう一人は床に座って何かの機械を分解している。


なんというか。


男の人の部屋に入るのとは、また違う緊張感がある。


「先輩、連れてきたよ」


美鈴が声をかける。


床に座っていた大柄な男の人が立ち上がった。


「うむ」


けれど。


こちらを見ない。


なぜか壁を見ている。


「昨日話したカノン。この人が向島巌先輩。私の高校の先輩で、電研の部長」


「は、初めまして。綾瀬花音です」


頭を下げる。


「初めまして。電脳研究会部長、向島巌だ」


向島先輩も答える。


壁を見たまま。


「…………」


「…………」


何だろう、この会話。


私は美鈴の袖を引っ張った。


「ねえ」


「なに?」


「あの人、なんでこっち見ないの?」


声を潜めたつもりだった。


「聞こえているぞ」


向島先輩から返事がきた。


「あっ、すみません!」


「気にするな。俺の問題だ」


やっぱり壁を見ている。


美鈴が平然と説明する。


「先輩、女の人と目を合わせて話せないの」


「蜂矢。余計な説明は要らん」


「だってカノンが不安になるじゃん」


「…………」


向島先輩は反論しなかった。


どうやら本当らしい。


「話は蜂矢から聞いている。図書館のパソコンが使えず、困っているそうだな」


「あ、はい」


「余っているものがある。好きに使ってくれて構わない」


「本当ですか?」


「ただし、持ち出しは不可だ。ここで使ってもらう」


「もちろんです。ありがとうございます」


ありがたい。


昨日まで途方に暮れていたのが嘘のようだ。


「それから、部室には基本的に誰かいる。空いていればいつ来ても構わん」


「はい」


「そこの彼に設定を頼んである」


向島先輩が壁を向いたまま、片手でパソコンに向かっている部員を示す。


「お願いします」


私が頭を下げると、その人も軽く頭を下げた。


棚から一台のノートパソコンを持ってきて、電源を入れてくれる。


すでに私用のアカウントまで作ってくれていた。


「すごい……」


昨日頼んだばかりなのに。


「先輩、こういうところだけは仕事早いから」


「こういうところだけ、は余計だ」


「褒めてるんだって」


「そうは聞こえん」


この二人、本当に先輩と後輩なのだろうか。


「あとは大丈夫そう?」


美鈴が聞く。


「うん。これなら使えると思う」


「じゃ、私、次の講義あるから行くね」


「え?」


思わず美鈴を見る。


「行っちゃうの?」


「だって講義あるし」


「それはそうだけど……」


男の人しかいない部屋に、一人で残される。


早川君の部屋には毎週のように通っていたくせに、知らない男の人ばかりとなると話は別だ。


「大丈夫だって」


美鈴が笑う。


そして部室を出る直前、振り返った。


「先輩」


「なんだ」


「カノンに変なことしたら――」


「せん!」


向島先輩が食い気味に答えた。


「お前の友人に手を出すほど命知らずではない」


「よろしい」


何者なんだ、美鈴。


「じゃあね、カノン」


「う、うん。ありがとう」


ドアが閉まった。


急に部屋が静かになる。


「…………」


どうしよう。


少し心細い。


とりあえず、パソコンを使わせてもらうのだから、作業をしよう。


ブラウザーを開き、自分のクラウド領域へ入る。


ちゃんと使える。


これならライティングの仕事もできるし、小説も書ける。


よかった。


本当によかった。


「では、俺も講義がある」


「え?」


向島先輩まで?


「何か分からないことがあれば、彼に聞いてくれ」


「は、はい」


向島先輩が部室を出ていく。


残った部員は、さっきから黙々とパソコンに向かっている。


私は知らない男の人と二人きりになった。


「…………」


向こうも喋らない。


私も喋らない。


これはこれでいいかもしれない。


しばらく作業をしていると、部室のドアが勢いよく開いた。


「お疲れさまでーす」


明るい声と一緒に、一人の男の子が入ってきた。


茶色っぽい髪。


少し無造作で、大学生というより高校生にも見える。


「あれ?」


その子が私を見る。


「女の人がいる」


第一声がそれだった。


「こんにちは」


とりあえず挨拶する。


「こんにちは。え、新入部員っすか?」


「違います。ちょっとパソコンを借りてて」


「ああ、そうなんすね」


男の子は納得したように頷くと、持っていた鞄を床へ置いた。


そして。


私の向かいではなく、なぜか隣に座った。


近い。


「俺、経済学部一年の堂本流留《どうもとながる》です」


「どうもと……?」


「流留。流れるに、留まるって書いてナガル」


「珍しい名前だね」


「よく言われます。先輩は?」


「文学部二年の綾瀬花音」


「じゃあ、花音先輩っすね」


いきなり名前。


「えっと……堂本君」


「流留でいいっすよ。俺、後輩なんで」


「でも、いきなり呼び捨ては……」


「じゃ、流留君で」


「自分で決めるの?」


「はい」


なんだ、この子。


調子がいい。


でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


「あ、花音先輩って何してるんすか?」


「ちょっと仕事」


「仕事? 大学生なのに?」


「ライティングの仕事。Webの記事を書いたりしてるの」


「へえー、すごいっすね」


流留君が画面を覗こうとする。


また近い。


普通なら、男の人がこんな距離まで来たら身構えると思う。


少なくとも、少し前の私ならそうだった。


なのに。


「近いよ」


「あ、すんません」


それだけだった。


嫌でもない。


怖くもない。


ドキドキもしない。


流留君は素直に少し離れると、今度は私のパソコンを指差した。


「それ、部長が用意したんすか?」


「うん」


「珍しい。部長、女の人と喋れないのに」


「やっぱりそうなんだ」


「あの人、二次元なら平気なんすけどね」


二次元なら平気。


どういうことだ。


「あ、そうだ」


流留君が何かに気づいた。


「花音先輩って、もしかして蜂矢先輩の友達?」


「うん。ミリンに紹介してもらったの」


その瞬間。


流留君の姿勢が正された。


「マジっすか」


「うん」


「……気をつけよ」


「何を?」


「いや、こっちの話っす」


このサークルで、美鈴はいったい何をしたのだろう。


聞きたい。


でも、少し怖い。


「花音先輩、喉渇いてないっすか?」


突然、流留君が立ち上がった。


「え?」


「俺、自販機行くんで。何か買ってきますよ」


「じゃあ、お茶を――」


財布を出そうとすると、手で制された。


「いいっすよ、そのくらい」


「でも」


「先輩なんだから奢らせてください」


「普通、逆じゃない?」


「あれ?」


本人も気づいていなかったらしい。


「じゃあ、先輩が奢ってくれます?」


「なんでそうなるの」


「冗談っす」


笑いながら、流留君が部室を飛び出していく。


騒がしい。


本当に、騒がしい。


でも。


私は少し笑っていた。


男の人と話している、という感じがあまりしない。


早川君とは違う。



人懐っこくて、距離が近くて、落ち着きがなくて。


でも、なぜか警戒しなくていい。


もし私に弟がいたら――。


こんな感じなのかな。





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