第1話 怪しいオジサン
「ちょっと、お話をさせていただいても良いですか?」
昼下がりの渋谷。ハチ公前は、平日だというのに相変わらず人で溢れていた。待ち合わせの人、スマホ片手に誰かを探す人、やけに大声で笑っている外国人の団体。そんな雑踏に紛れるようにして、スーツ姿の男が声をかけてきた。
友達を待っていた工藤紗栄子は、思わず男をまじまじと見てしまう。
初夏の陽気で、周りはみんな薄着なのに、律儀にスーツを着込んでいるのだ。
(暑くないのかな、このオッサン)
「失礼ですが、どこかの事務所に登録されていますか?」
(ああ、その手の勧誘ね)
慣れている。慣れすぎている。
街を歩けばナンパもされるし、芸能事務所を名乗る人間から声をかけられたことも一度や二度ではない。
ただし、本当に芸能事務所だったのかは怪しい。
モデルになるには高額なレッスンが必要だとか、よく分からない商品を買わされたりだとか。世の中、美味しい話には大抵何かがくっついている。
「あ、申し遅れました。私、こういうものです」
差し出された名刺には、こう書いてあった。
『芸能プロダクション 立花企画 代表取締役 立花謙佑』
(社長自らスカウトとか、逆に怪しくない?)
紗栄子の視線をよそに、立花は構わず続ける。
「今、弊社では新しい企画に参加してくれる方を探していましてね。お綺麗な方だったので、もしかしてどこかの事務所に所属されているのかな、と思ったんです」
(『綺麗』ね……)
悪い気はしない。
自惚れているつもりはないが、自分の容姿が平均より上なのは自覚している。
だから、というわけでもないけれど、簡単には頷かない。
「もし今どこにも所属していないようでしたら、ぜひ一度、弊社にいらしてください。もちろん今すぐにとは言いません。専属でなくても、バイト感覚で構いませんので」
「……」
「バイト代は、はずみますから」
その一言だけが、妙に耳に残った。
「あ、こうやって女性に付きまとっていると、お巡りさんに怒られてしまいますね。この辺で失礼します。ご連絡、お待ちしていますよ」
言いたいことだけ言うと、立花はあっさりと離れていった。数歩進んだところで立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回してから、マークシティの方へと歩いていく。
次の獲物でも探しているのだろうか。
(なんか、変なオジサン)
紗栄子は名刺をポケットに突っ込んだ。
たぶん、もう見ることはない。
「おまたせ~!」
「遅い」
四谷梨花が、人混みをかき分けながら駆け寄ってくる。
「ごめんごめん、電車がなかなか来なくてさ~」
「絶対嘘。梨花が時間通り来たことないじゃん」
「あれ、バレてる? まいったなあ」
悪びれもせず笑う。昔からこうだ。
「で、何ニヤニヤしてんの。もしかして男?」
「違う。ちょっと変なオジサンに声かけられただけ」
「変なオジサン? なにそれ、また芸能事務所とか言うやつ?」
「まあ、そんなとこ」
「うわ、懲りないね向こうも。見せて見せて」
「もうポケットの中」
「雑!」
梨花が声を上げて笑う。
「あはは、絶対怪しいって。そういうとこ行くくらいなら、他にいくらでも楽に稼ぐ方法あるんだから」
「梨花と一緒にしないでよ」
「えー、楽なのになあ」
「はいはい」
梨花はミスコン常連の美人だ。
自分だってそこそこイケていると思っている紗栄子でも、こうして並ばれると少し悔しくなる。待ち合わせにはいつも遅れてくるくせに、髪も服も完璧に仕上げてくるのだから、始末が悪い。
(そういうとこ、なんか腹立つんだよね)
もちろん、本気で腹を立てているわけではない。
その容姿を武器に、梨花はマッチングアプリで年上の男を捕まえては、かなり稼いでいるらしい。カフェで地道に働いている紗栄子とは、財布の中身もずいぶん違う。
そのやり方については、思うところもある。
それでも一緒に遊んでいるのだから、結局のところ梨花のことは嫌いではないのだ。
「さ、行こっか」
当然のように腕を絡めてくる梨花。
「今日は買い物だけだからね」
「はいはい、分かってるって」
「ご飯くらいで切り上げるから」
「うんうん」
「カラオケは絶対行かないから」
「わかった、わかった」
その返事を、紗栄子はまったく信じていなかった。
そして数時間後。
「かんぱーい!」
やっぱり、こうなった。
買い物だけのはずが、気づけば居酒屋に入り、その流れでカラオケへ。
楽しかった。
それは否定できない。
だから、困る。
帰宅した頃には、とっくに日付が変わっていた。
「あ~、飲みすぎたかも……」
靴を脱ぎ捨てて、そのままベッドに倒れ込む。
「明日は二限からだし、ギリギリまで寝よ」
地方の田舎町から東京へ出てきて、一年ちょっと。
最初の頃は、渋谷のスクランブル交差点を渡るだけでも妙に緊張した。前からも横からも人が押し寄せてきて、どうして誰もぶつからないのか不思議だったくらいだ。
今では、その人混みの中をスマホを見ながら歩ける。
東京に慣れた、ということなのだろう。
たぶん。
恋人もいた。
春に浮気されて別れたけれど、今のところ次を探す気はない。
(美少女の私を差し置いて浮気とか、見る目なさすぎでしょ)
思い出したら、少し腹が立ってきた。
まあ、いい。
今は男より、梨花たちと遊んでいる方がずっと楽しい。
ただし、楽しい大学生活にはそれなりの代償もある。
「……また、使っちゃった」
ベッドの上で財布を開き、残っている紙幣を数えてみる。
思っていたより少ない。
念のため、もう一度数えた。
当然ながら増えてはいなかった。
「やば……」
だったら遊ばなければいい――と言われれば、それまでなのだが、紗栄子にはそれも何か違うように思えた。
せっかく東京まで出てきたのだ。
田舎にいた頃のように、学校へ行って、家へ帰って、また次の日も同じことを繰り返す。そんな生活をするために上京したわけではない。
東京へ出て、友達を作って、好きな服を着て、遊びたい。
それも紗栄子にとっては、大学へ通うのと同じくらい、上京した理由の一つだった。
もちろん、だからといって財布が空になるまで遊んでいい理由にはならないのだけれど。
「来月から節約しよ……」
先月も同じことを言った気がする。
ため息をつきながらサマージャケットを脱ごうとしたところで、ポケットから白い紙がひらりと床へ落ちた。
「ん?」
拾い上げる。
『芸能プロダクション 立花企画』
「あ……昼間のオジサン」
そういえば、こんなのを貰ったんだった。
何気なく名刺を裏返す。
――バイト代ははずみますから。
昼間はただの営業トークとして聞き流した言葉が、財布の中身を確認した後だと、妙にはっきり頭の中で響いた。
紗栄子は名刺を見る。
それから、財布を見る。
もう一度、名刺を見る。
「……バイト、か」
たぶん、もう見ることはない。
そう思ってポケットに突っ込んだはずの名刺を、紗栄子は捨てずに机の上へ置いた。




