第7話 氷の公爵令嬢は逃がさない
その日、俺は少しだけ早く公爵家へ到着した。
(今日は短めに済ませよう)
最近の訪問は妙に緊張する。
会話は減ったはずなのに、なぜか落ち着かない。
理由は不明。
解決策も不明。
つまり——。
(慎重にいこう)
平穏第一である。
◇
応接室へ案内され、待つこと数分。
扉が勢いよく開いた。
……勢いよく?
今まで一度もなかった動きに、思わず背筋が伸びる。
現れたのは当然、セレスティア嬢。
だが。
様子がおかしかった。
呼吸がわずかに早い。
髪が少しだけ乱れている。
そして——。
一直線に、こちらへ歩いてくる。
(近い)
一歩。
二歩。
止まらない。
三歩目で、俺の真正面。
いつもの社交距離を完全に突破していた。
「……お待たせしました」
声は平静。
だが距離が平静ではない。
(近い近い近い)
反射的に半歩下がる。
その瞬間。
彼女の表情が、わずかに揺れた。
——そして。
一歩、詰めてきた。
(え?)
「本日は、早くお越しになったのですね」
「は、はい。少し予定が早まりまして」
さらに近い。
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
逃げ場がない。
(今の、試された???)
◇
席に着く。
……はずだった。
「こちらへ」
彼女が示したのは、いつもの対面席ではない。
隣。
「……隣、ですか?」
「はい」
迷いゼロ。
(なんで!?)
断る理由が見つからず、座る。
距離、近い。
近すぎる。
香りが分かる距離。
(落ち着け俺。これは社交。社交だ)
紅茶が運ばれる。
だが彼女はカップに手を伸ばさない。
じっとこちらを見ている。
「……何か?」
聞くと。
ほんの一瞬、言葉を探すように視線が揺れた。
「……最近」
「はい」
「距離を、取られているように感じました」
心臓が止まりかけた。
(バレてる!?)
「ご、不快でしたか?」
最悪の想定が頭をよぎる。
怒らせた?
終わった?
だが彼女は首を振った。
「違います」
少しだけ声が弱くなる。
「……その」
沈黙。
彼女の指先が、ぎゅっとスカートを握った。
「嫌われたのかと」
思考が停止した。
(……え?)
氷の公爵令嬢が?
嫌われる心配を?
「そ、そんなことは!」
思わず声が大きくなる。
「むしろ失礼がないよう距離を——」
言いかけて、気づく。
彼女の瞳が、わずかに見開かれている。
「……失礼、だったのですね」
「違います!!」
反射だった。
「あなたが怖いとか、そういうわけじゃなくて!」
沈黙。
……言った。
今、言ったな俺。
ゆっくりと。
セレスティア嬢の頬が、赤くなった。
「……怖い、のですか」
(終わった)
王都人生終了のお知らせが脳内で鳴る。
だが次の瞬間。
「……よかった」
小さな声。
「嫌われてはいなかったのですね」
そして。
彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
初めて見る表情だった。
(……あ)
胸の奥が、妙に静かになる。
怖いと思っていたはずなのに。
その笑顔は。
なぜか、安心するものだった。
◇
その日以降。
公爵家使用人の間で、ある噂が流れた。
「セレスティア様が笑った」
屋敷中が軽く騒然となったことを。
俺はまだ知らない。
そして。
(距離、近くなったな……)
——その原因が、自分にあることにも。
まだ気づいていなかった。




