第3話 氷の公爵令嬢は距離感がおかしい
公爵令嬢セレスティア・アルヴェイン。
王都社交界において、彼女の評価は一つに集約される。
――氷。
冷酷、完璧、隙なし、笑わない。
そしてもう一つ。
婚約者になった男性は長続きしない。
(いやまあ、普通怖いよね)
俺、レオンハルト・ヴァイスは現在、その“次の候補者”として公爵家を訪問している。
逃げたい。
非常に逃げたい。
だが侯爵家令息として、それは許されない。
◇
応接室の扉が静かに開いた。
入ってきた瞬間、空気が変わる。
淡い銀髪。
整いすぎた顔立ち。
青い瞳は温度を感じさせず、まっすぐこちらを射抜いた。
「お待たせいたしました」
声まで完璧だった。
感情の揺れが、まったくない。
(うん、怖い)
条件反射で背筋が伸びる。
幼い頃から叩き込まれた教育が脳裏をよぎる。
『女性は怒らせたら終わりだ』
父の教えは絶対だ。
そして目の前の令嬢は、怒らせたら国家問題になりそうだった。
「本日はお時間をいただき、光栄です」
とりあえず安全な定型文を選ぶ。
「こちらこそ」
短い。
完結。
会話終了の気配。
(え、もう?)
沈黙が落ちる。
紅茶の香りだけが漂う。
……まずい。
これは社交的敗北の流れでは?
「……お庭が、とても美しいですね」
無難すぎる話題を投げた。
セレスティア嬢の視線が、ぴたりと止まる。
(今の、試された?)
一秒。
二秒。
三秒。
「……はい」
間のあと、彼女は頷いた。
「あなたが到着される三十分前に整えさせました」
……ん?
「え?」
「歩きやすいよう、小石を取り除いております」
思考が停止した。
(俺のため?)
いやいやいや。
婚約候補への礼儀かもしれない。
そう、きっと社交辞令の延長だ。
「ご配慮、ありがとうございます」
「当然のことです」
真顔。
完全真顔。
だが。
カップを持つ指先が、わずかに震えていることに気づいた。
(緊張……してる?)
まさか。
氷の公爵令嬢が?
◇
「率直に伺ってもよろしいでしょうか」
彼女が言った。
「はい」
「あなたは、この婚約を望んでいますか」
直球だった。
貴族社会で普通は絶対に聞かない質問。
(今の絶対、試されたやつだ)
慎重に答えを選ぶ。
「……まだ、あなたをよく存じ上げませんので」
逃げではない。
だが踏み込みもしない。
平穏主義者としての最適解。
すると彼女は、わずかに目を伏せた。
「……そう、ですか」
その声だけ、少し小さかった。
そして次の瞬間。
「では、努力いたします」
「……はい?」
「あなたに理解していただけるよう」
真顔で宣言された。
(重い)
いや違う。
重いというより。
(真面目すぎる……?)
◇
帰りの馬車の中。
俺は深く息を吐いた。
怖かった。
間違いなく怖かった。
だが——。
(怒る気配、なかったな)
むしろ逆だ。
ずっと慎重だった。
俺の反応を確認するように。
そして思い出す。
三十分前に整えられた庭。
震えていた指先。
理解してもらう努力宣言。
結論。
「……あの人、もしかして」
少しだけ考えて、首を振った。
「いや、ないな」
氷の公爵令嬢が緊張するなんて。
そんなはずがない。
……ない、はずだ。
だがその夜、なぜか俺の頭から離れなかったのは。
冷たい瞳ではなく。
ほんの一瞬だけ見えた、安心したような表情だった。
(今の……試されたんじゃなくて)
言葉にならない違和感を抱えたまま、馬車は夜の王都を進んでいった。




