第2話 距離を取ったら距離を詰められた
婚約を解消しよう。
そう決意した翌朝、俺は人生でもっとも冷静な思考状態にあった。
焦ってはいけない。
相手は公爵令嬢セレスティア・アルヴェイン。
下手な行動は外交問題に発展する可能性すらある。
つまり必要なのは――
「段階的撤退だな……」
学院の中庭で、俺は真剣に頷いた。
婚約破棄をいきなり切り出すのは危険すぎる。
角が立つ。
怒らせる。
最悪、家同士の関係悪化。
だからまずは。
自然に距離を取る。
これだ。
人は距離が離れれば感情も薄れるもの。
接触頻度を減らし、関係を穏便に縮小する。
完璧な作戦である。
――この時点では。
◆
第一段階。
遭遇率の低下。
これまで俺は、婚約者として最低限の礼儀を守り、学院では彼女に挨拶していた。
だが今日から違う。
見かけても近づかない。
目が合いそうになったら進路変更。
自然に。
あくまで自然に。
「よし……完璧だ」
廊下の角から彼女の姿を確認し、俺は静かに反対方向へ歩き出した。
成功。
心の中でガッツポーズ。
これで少しずつ距離は――
「レオンハルト様」
背後から声がした。
なぜだ。
ゆっくり振り返る。
そこには、数秒前まで廊下の向こうにいたはずの婚約者が立っていた。
距離、三歩。
近い。
「……おはようございます」
「お、おはよう」
なぜ追いつかれている?
俺、早歩きだったよな?
彼女はいつもの無表情で言った。
「先ほどお見かけしましたので」
(見つかっていた)
作戦開始五分で失敗。
「急いでいらっしゃるのかと思いました」
「い、いや別に」
まずい。
回避行動がバレた可能性。
減点か?
いや待て、落ち着け。
自然に振る舞え。
「では、ご一緒しても?」
「……はい?」
思考が止まった。
「教室までです」
「え、ああ、うん」
断れる空気ではない。
並んで歩き始める。
静かだ。
沈黙が重い。
横を見る勇気が出ない。
数歩進んだところで、彼女が口を開いた。
「最近、お忙しいのですか?」
まただ。
情報網が広すぎる。
「普通、だと思うが」
「そうですか」
彼女は小さく頷いた。
それだけ。
会話終了。
だが。
なぜか距離が近い。
肩が触れそうなほどではないが、微妙に近い。
(これ、試されてないか?)
婚約者としての態度チェック。
距離耐性テスト。
俺は背筋を伸ばした。
姿勢評価は重要だ。
◆
第二段階。
接触時間の削減。
昼休み。
いつもなら貴族子弟のテーブルに参加するが、今日は違う。
図書室へ避難。
「ここなら安全だろ……」
静寂。
本の匂い。
完璧な隠れ場所。
俺は安心して席についた。
「レオンハルト様」
なぜだ。
顔を上げる。
目の前にセレスティアがいた。
嘘だろ。
「……偶然ですね」
彼女は言った。
いや絶対偶然じゃない。
この席、図書室の一番奥だぞ。
「こちら、空いておりますか?」
「空いてるけど……」
彼女は向かいに座った。
静かに本を開く。
沈黙。
ページをめくる音だけが響く。
(包囲された)
逃げ場がない。
視線を感じる。
いや、本を読んでいるはずなのに、なぜか意識がこちらに向いている気がする。
数分後。
「こちら、参考になるかと」
彼女が一冊の本を差し出した。
「君の専門分野に近い内容です」
「……ありがとう」
受け取る。
付箋がついている。
要点が整理されている。
ものすごく分かりやすい。
……優秀すぎる。
(監督官では?)
学業監督として派遣されている可能性。
いやでも公爵令嬢がそんなことするか?
分からない。
この人は分からない。
◆
そして決定打は放課後だった。
帰宅しようとした俺に、侍従が声をかける。
「レオンハルト様、アルヴェイン公爵家よりお手紙が」
嫌な予感しかしない。
封を開く。
端正な文字。
『もしご迷惑でなければ、来週より共同学習の時間を設けられればと思います』
差出人:セレスティア・アルヴェイン。
手紙を持つ手が震えた。
「共同……学習……?」
距離を取った結果。
接触予定が増えた。
なぜ。
なぜこうなる。
俺は椅子に崩れ落ちた。
「距離を取ったら……距離が縮まってないか?」
むしろ接近している。
包囲網が完成しつつある。
いや違う。
落ち着け。
これは偶然の連続だ。
きっとそう。
そう思いたい。
だが最後に、手紙の追伸が目に入った。
『本日、お話できて嬉しかったです』
――理解不能。
今日、特別な会話なんてしていない。
挨拶と数言だけだ。
それなのに。
なぜそんな感想になる?
「……分からない」
俺は天井を見上げた。
婚約者の考えていることが、まるで読めない。
怖い。
だが同時に。
ほんの少しだけ――
胸の奥が、妙に落ち着かない。
そして俺はまだ知らない。
侍女に向かって彼女が言っていたことを。
『今日は二度もお話できました』
と。
少しだけ頬を緩めながら。




