第1話 婚約者が怖すぎる
婚約者が、怖い。
これは比喩でも誇張でもない。事実である。
王都最大級の夜会場――シャンデリアの光が降り注ぐ大広間の中央で、彼女は立っていた。
公爵令嬢セレスティア・アルヴェイン。
俺の、婚約者だ。
淡い銀の髪が光を受けて輝き、深い蒼の瞳は静かな湖面のように揺らがない。姿勢は寸分の狂いもなく、所作は教本よりも正確。誰と話しても同じ微笑を浮かべ、同じ角度で頷く。
完璧。
あまりにも、完璧すぎる。
「……今日も機嫌は悪くなさそうだな」
俺――レオンハルト・ヴァイスは、壁際でグラスを握りながら小さく呟いた。
隣にいた友人が怪訝そうに眉を寄せる。
「誰の話だ?」
「……セレスティア嬢」
「ああ、お前の婚約者か。相変わらず美人だな」
「美人とか、そういう問題じゃない」
思わず真顔で否定する。
友人は笑ったが、こっちは笑い事ではない。
彼女は恐ろしい。
何が恐ろしいかって?
――感情が、読めないのだ。
例えば今。
子爵令息が何か冗談を言ったらしい。周囲が笑う中、彼女も微笑んでいる。
だが。
目が、笑っていない。
いや、違う。笑っているのかもしれないが、俺には判断できない。
つまり。
怒っている可能性が常に存在する。
「……帰りたい」
「早すぎるだろ」
幼い頃から婚約しているが、俺はいまだに彼女との距離感を掴めていない。
いや、正確には――
掴もうとして、失敗し続けている。
◆
最初に「怖い」と思ったのは七歳の頃だった。
家庭教師付きの合同授業。
俺が計算問題を間違えたとき、彼女は隣から静かに言った。
『こちらの式の方が効率的です』
淡々と。
責めるでもなく、褒めるでもなく。
ただ、正解を示した。
その瞬間、俺は悟った。
(あ、この人には敵わない)
子どもながらに理解してしまったのだ。
それ以来、彼女はずっと完璧だった。
試験は常に首席。
礼儀作法は教師より正確。
舞踏は非の打ち所がない。
そして何より。
俺を見る視線が、妙に真剣なのだ。
あれが怖い。
評価されている気がする。
常に採点されている感じ。
減点方式の人生を歩んでいる気分になる。
◆
「レオンハルト様」
背後から声がした。
――終わった。
背筋が凍る。
ゆっくり振り向くと、そこに本人がいた。
セレスティア・アルヴェイン。
近い。
近い近い近い。
「本日はご機嫌麗しゅう」
「き、君も……」
噛んだ。
終わった。
貴族として終了した可能性がある。
彼女はわずかに首を傾げた。
「体調が優れませんか?」
「え?」
「顔色が」
至近距離で覗き込まれる。
心臓が跳ねた。
(監察だ)
絶対そうだ。
婚約者としての適性チェック。
ここで「問題あり」と判断されたらどうなる?
公爵家からの評価が下がる。
父上が謝罪。
社交界で噂。
人生終了では?
「だ、大丈夫だ!」
思わず声が大きくなる。
彼女の睫毛がわずかに揺れた。
……しまった。
今のは威圧的だったのでは?
失礼では?
減点では?
「そうですか」
彼女は静かに頷いた。
怒っているのか、安心したのか、全く分からない。
怖い。
「少し、お時間をいただいても?」
「……はい?」
敬語になるのやめたい。
でも無理だ。
怖いから。
彼女は周囲を一瞥し、人気の少ないバルコニーへ歩き出した。
――呼び出し。
完全に呼び出しだ。
俺、何かやらかした?
さっきの挨拶?
それとも先週の手紙の返事が遅れた件?
頭の中で罪状リストが高速で生成される。
逃げたい。
しかし逃げたら確実に有罪。
俺は覚悟を決めて後を追った。
◆
夜風が涼しい。
月光の下、彼女は手すりに手を置いた。
「夜会はお好きではありませんか?」
「え?」
予想外の質問だった。
「い、いや……普通だが」
「そうですか」
沈黙。
沈黙が長い。
何か言うべき?
でも何を?
貴族会話マニュアル、該当ページが見つからない。
「……最近、お忙しそうですね」
彼女が続けた。
「学院の課題が多いと聞きました」
(情報網!?)
なぜ知っている。
誰から報告が?
いや公爵家なら可能か……。
「まあ、その……」
「無理はなさらないでください」
そう言って、彼女は少しだけ視線を伏せた。
その横顔が、なぜか寂しそうに見えた。
……いや。
気のせいだろう。
きっと社交用表情の一種だ。
「では、私は戻ります」
彼女は一礼し、去っていった。
残された俺は、しばらく動けなかった。
そして結論に至る。
「……やっぱり怖い」
優しい言葉のはずなのに、安心できない。
距離が分からない。
正解が分からない。
このままでは、いつか決定的な失敗をする気がする。
だから。
俺はグラスを握りしめ、静かに決意した。
「……婚約、解消できないだろうか」
平穏な人生のために。
怒らせる前に。
取り返しがつかなくなる前に。
――俺は、逃げるべきなのかもしれない。
このときの俺は、まだ知らなかった。
彼女が夜会の終わりまで、ずっとこちらを気にしていたことも。
侍女に小声で、
『今日は、少しお話できました』
と嬉しそうに言っていたことも。
そして。
この婚約から逃げようとするほど、
なぜか彼女との距離が縮まっていく未来も。




