20.公爵令嬢は心を乱す
学院の裏庭にいつもとは異なる香りが漂っている。
王子殿下は紅茶ではなく、ハーブティーを淹れてくれた。
甘酸っぱい香りだけで、心は落ち着きを取り戻していく。
「今日はくつろぎたい気分でねぇ。良かったら付き合って」
私の心が覗かれていたように感じて、どきりとしたことは内緒だ。
その感情の揺れもまた、ハーブティーの香りは鎮めてくれた。
それでもまだ、私の心は悶々としたところを残し、すっきりとは晴れない。
頭上は快晴だというのに。
私は香りに身を委ねたく、目を閉じた。
思い出す記憶は新しく不快だ。
先日公爵と本当の意味で二人きりで話すことになった私は、愚問を投げて、もう次があるかどうかも分からない機会を終わらせてしまった。
『あなたは、母を嫌っておりましたか?』
私が聞いた直後から、目に見えて動揺を示した公爵は、その後……いつも通りに戻った。
おかしさが消えたわけではない。元々のおかしな人に戻ったのだ。
ただし、絨毯の上に座ったままであったけれど。
事故直後に目覚めたばかりの私への失言に関する言い訳が始まって、昔のあれもこれも言い訳したのち、これまでも私に謝罪をする気はあったが出来なかった理由をつらつら述べた。
話しているうち、自分は悪くないように変わり、悪いのは主に叔父で、時に家令ハリマンも悪因とされた。
そして最後には、いつまで自分をここに座らせておくのだと私を責めた。
謝罪は聞いたが許したわけではないと伝えれば、それからは私への説教が始まっていく。
あの日殴ったことを謝罪しろと言われ断れば、結果、私は部屋を出ることになった。
公爵は、元から変わらず、どうしようもない人だ。
さらに叔父の様子はとても気掛かりだった。
あの日から毎日届いていた手紙が途絶えた。
妙なことを考えていないといいけれど。
叔父は、丁寧に作られた、どうしようもない人だから。
あの二人、どうしてくれようか。
大人なのだから放っておけばいいと思う気持ちもある。
それでも私が二人を完全に切り捨てられないでいるのは、同じく被害者であるという意識を抱くせいではないか。
昔から私は自分をそのように分析している。
そう思わなければ、まだ私も影響を受けていると認めることになり、それも嫌だった。
『まぁ。どうしようもない子ね』
そう言った母のあの嬉しそうな顔が、いつまでも忘れられない。
私が素直で大人しい子どもだったなら、母を喜ばせようと、自分から愚かな人間に成長していったことだろう。
しかし私は、母に従順な良き娘にはなれなかった。
公爵の言っていたような教育の影響よりも、これは根っからの気性によるところが大きいと感じる。
私は生まれながらに母に好まれる人間性を持たなかった。
それは私が立派な人格者ということではないし、今も失敗も多々繰り返す未熟者ではあるけれど、母が好む極めてどうしようもない人間になれる素質は持って生まれなかったのだ。
母も娘が思うようには育たないと早くに分かったのだろう。
あるときから母は私に向ける期待の方向性を変えた。
『あなたには素晴らしい価値があるわ』
母はよく私にそう言って聞かせた。
分かり合えないことが残念だと付け加えながらだ。
『あなたは早く立派な公爵になりなさい』
教育を受け始めた私に、母はそう繰り返すようになった。
教育の課程で、公爵と言い合う機会が増えた。
それを見ていた母のあの顔もまた、私は忘れることが出来ないでいる。
言い合うことが嫌になり、私は口を閉ざすことが増えていった。
公爵は成長と共に娘が従順に変わったと思っていたことだろう。
母が思っていたことは分からない。
公爵が母を避けていると気が付いたのは、いつだったか。
だから、『嫌っていたのですか?』と尋ねた。
公爵のあの態度では、それが正しい解釈だったかどうかさえも分からない。
もしや私は母の願いを叶えてしまっているのだろうか。
『あなたには素晴らしい価値があるわ。あの人が変わらないように、いつも側で支えてあげて。お願いね』
潰れた馬車の中、冷水に浸って聞いた、母の言葉だ。
まだ私は母に助けられたことを受け入れられないでいる。
「エルリカ嬢」
裏庭にいると、どうも気が緩んでいけない。
王子殿下の御前で考えることではなかった。
顔を上げると、王子殿下は青空がよく似合う爽やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「冷める前にどうぞ。ところで──私も邸に訪問してもいいかな?」
「はい?」
んんん?
今何と言いました?
「友人の令嬢たちを邸に呼んだのだろう?」
「そうですね。先日はご助言いただきまして感謝しております」
「うん。感謝のお礼は、私を招待するということでいいよ」
本気ですか?
「本邸ならば、お招きすることも可能かと思いますが」
「え?どうして本邸?エルリカ嬢はそこに住んでいないのだよね?」
「えぇ、そうですけれど」
「君がいつも過ごしている邸に呼んで欲しいな。お忍びで行くから、誰の目も気にしなくていいよ。王族が来たと分からないように対応してくれた方が嬉しいかな」
脳裏に家令ハリマンの絶望する顔が浮かぶ。
いくら家門の令嬢であっても、公爵家より下位の貴族家の令嬢だとして、『この邸にお嬢様のご友人をお招きするだなんて!』とハリマンだけが最後まで私が友人を招くことに反対していた。
ハリマンは本邸でなくともせめて他の邸にと主張したが、結果私は無駄に多く歩かず、学院から近い邸に令嬢たちを呼ぶことが出来た。公爵のおかげである。
そして令嬢たちは、私の重ねた無礼を寛大にも許してくれた。
小さな邸に呼んだことだけではなく、先日学院の小玄関で淑女らしからぬ大きな声を聞かせた無礼についても謝ったのだが、相変わらず優しい彼女たちからは、思ってもいなかった言葉を掛けられた。
『素敵でしたわ』『憧れてしまいましたの』『エルリカ様のようになりたいですわ』『生涯エルリカ様に付いていきますわ!』
彼女たちの言葉を思い出すと、胸がくすぐったくなって、私は笑ってしまった。
それを王子殿下は勘違いされたようだ。
「学院が終わったあとに、一緒に歩いて向かうのもいいねぇ」
「皆様にお聞きになられたのですか?」
「え?あぁ、そういう話になっているんだ?では、その約束の前にお願いしたいな」
んんん。
王子殿下がどこか変わられたように感じる。
しばらく見つめ合ってしまった。
先に目を逸らしたのは、王子殿下だった。
「そう純粋な目で見詰められると心が痛いなぁ。最近は彼女たちと楽しそうに過ごしている姿をよく見掛けるからね。また嫉妬して焦ってしまった。無理なら無理だと言っていいよ」
「まずは家の者に尋ねてみます。お招きするかどうかのお返事は、その後でよろしいですか?」
真面に話せるだろうかという憂いがある。
今朝だって、公爵は無言で朝食を取っていた。
話したくもないなら、同席しなければいいと思う。
母の話は、それほどに触れてはいけないことだったか。
「前向きに検討してくれると嬉しい。改めて話したいこともあってね。学院ではなんだから……と言っても、王城に呼ぶともっと厄介だろう?」
王子殿下が何のお話をされる気か、分かってしまった。
決まればもう逃げられない。
ハーブティーを頂く。
心の乱れは多少和らぐだけで、鎮まってはくれなかった。
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