16.公爵令嬢は静かに笑う
本音と建前、どちらも聞きたいと願ったら、王子殿下は快く了承してくれた。
まずは建前からと仰った殿下は、王族らしい爽やかな微笑を浮かべ、私に言った。
「公爵夫人は常に穏やかで、とても優しく、淑女の鑑のような方だった」
それは私が今までに何度も繰り返し聞いてきた言葉だった。
祖父母でさえ、娘は淑女の鑑と言われていたのだと得意気に語っては、いつも私を残念そうに見ていた。
そして本音。
殿下の表情がいつもの静けさを感じる柔らかい笑みに変化する。
「幼かった私は、未熟故に、彼女と過ごす時間を得意とはしていなかった。夫人から人を導く力を感じたからだ。グラスデューラー子爵からも似たものを感じ取ったときには、さすが姉弟だと思ったことを覚えている」
人を導く力。
さすがは王子殿下、お言葉選びも秀逸である。
王子殿下はさらに言葉を付け足した。
「いい気持ちはしないよね?失礼だと怒ってくれていい」
少し前に語ってみたいと思ったはずだったのに。
口にするかどうかでまだ迷いが生じて、私はしばらく無言になってしまった。
それでも王子殿下は、黙って待っていてくれた。
やがて心が決まり、私はそれを口にする。
「いいえ、殿下。本音が聞けて良かったと本心から思っております。私も母を──ずっと苦手としておりました」
不意に強い光が差し込んできて、裏庭に出てからずっと透ける白い大きな布が空一面に貼られているようだったけれど、雲は流れていたことに気付かされた。
光はすぐに消え去り、陰影のない明るい世界が戻ってくる。
「そうだったか」
王子殿下は、私の話を聞き出そうとはして来なかった。
私もまた、これで十分だと感じ、もう何も言うことはなかった。
とても静かに時が流れる。
その間、私は過去を思い出さなかった。
予鈴の短い鐘が響く。
そろそろ戻らなければ。
そこで私は、忘れていたことを思い出してしまった。
予鈴の鐘はあと二度鳴るから、まだ少しの時間はあるけれど、私は先日のお礼を告げたあとに、急ぎ事情を説明することにした。
「お借りしたハンカチなのですが、汚してしまいましたので、新しいものを用意してお渡ししようと思ったのですが──」
私は言いながら、まだ迷った。
王子殿下にお借りしたハンカチは、家の者が綺麗にしてくれて、新品のように戻っている。
それでも私が汚したものを王族にお返しして良いものか、答えが分からなかった私は、まずは側にいた侍女に相談することにした。
これが間違いだったのかもしれない。
侍女たちは、私が刺繍したハンカチを贈りましょうと言うと、私の前に道具を揃えた。
これこそが王族に渡すものではないだろう。そう思いながらも、私は手を動かした。
出来を見れば、侍女たちもこれは渡せないと考え、綺麗な商品のハンカチを用意してくれるだろうと思ったから。
それでも私は……最初のうちは王子殿下の手に渡る可能性が僅かでもあるならばと、無難に王家の紋章に使われる神獣のみを刺繍する予定だったのだ。
それがあれこれ考え事をして、無心で手を動かしていたら……とても他人様には渡せないハンカチが出来上がっていた。
なのに侍女たちは、どうしてかそのハンカチを私が眠っている間に綺麗に整え、美しく包んでしまったのだ。
別のものを用意した方がいいと私は主張した。
なのに侍女までも、私の話を聞いてくれなかった。
あの公爵が当主をしている家の侍女だからだろうか。
しかしこの件、公爵に伝えれば、余計にややこしくなることは明白だったため、騒ぎにもしたくなかった私は、とりあえず侍女の用意してくれた包みを持って学院に通っていたのだが。
やはりこんなものを渡そうとすることも不敬だろう。
令嬢たちがサロンで贈り物をしてくれたときのように事前の手配すら出来なかった私は、学院内で持ち歩く小さな布のバッグの中から、半分ほど包みを取り出し、冷静になって動きを止めた。
そこにとても助かる声が掛かる。
「気にしなくて良かったのに」
「ではこれは回収しまして、やはり別のものを用意しますね」
「え?」
「どうぞこれはお気になさらずに。遅くなって申し訳ありませんが、次回までに代わりの品を用意させていただきます」
「いやいや待って。私の勘違いでなければ、それは私のために持って来てくれたものだよね?」
「いえ、これは気の迷いでしたので。後日また別のものを──」
「先の言葉は撤回しよう。それが欲しくなった。受け取っていいね?」
いつにない沈黙が続いた。こういう沈黙は初めてだった。
どちらから先に笑っただろう。
私は一体何をしているのだろうかと呆れ、自分に笑った。
殿下が美しく包みを開けていく。
「これは……凄いな」
「申し訳ありません。どうぞお気になさらずに、お捨てになってください。必ず別のものを用意いたします」
即座に謝った私に、王子殿下は驚きを示す。
「捨てるなんてとんでもないことだ。あぁ、そうだった。私は君にも嫉妬していたんだったね」
んんん?
ハンカチから急にまた嫉妬のお話ですか?
しかしこの他人様にはとても渡せないハンカチを前にして、一体何に嫉妬を……。
「あれで我が母にも親らしい側面はあってね。あぁ、君はまだ会ったことはなかったかな?厳しさがよく知られているような方なのだけれど。私たちが幼い頃に描いた絵をわざわざ額に入れ、自室に飾っていてね……。本当に嫌になる」
それは大変に言葉を返しにくい話題なのですが。
王妃殿下のお話ですよね?
「私たちが何度言っても、いつまでも処分をしてくれなくてね。考えてもみてよ。私たちの手で廃棄出来なければ、いずれ城の宝物庫に保管されかねない。恐ろしいだろう?」
幼い王子王女の描いた絵。
先の世では、かつての王族が描かれた絵として、どこかで展示されることもあるだろう。
それは確かに……私は王族の苦労のほんの一部分に触れられたように感じた。
「兄上が必ずやこれを阻止してくれるものと、兄弟一同願っていることだけれど。その絵がねぇ、私だけでなく、どれもこれも何を描いたものかも分からない酷いものでね。母があれの何が嬉しくて飾り続けているかは私たちにはさっぱり分からないのだけれど。私がまだ幼い頃に、グラスデューラー子爵が君に描いて貰ったと嬉しそうに絵を見せびらかしていたことがあってね。正直に言うと、本当に君が描いたものだと信じてはいなかったのだけれど。あれは画家に習い、ほとんどその画家に描かせた絵を君の絵としたものだろうと思って、私は自分の心を慰めていた」
何を仰っているのだろうか。
そして叔父にも聞きたい。
どの絵を見せた?
「それが間違いだったと、今さらに認識したよ。あのときからずっと疑ってきたことを謝る。申し訳なかった」
「いえ、あの、そのように謝られることではなく……」
困惑し言葉選びに迷っていたら、王子殿下が愉快気な声を上げて笑い始めた。
どうやら揶揄われていたようだ。
「これはもう絵画ではないか。あぁ、母の気持ちが分かるな。額に入れて飾ることにするよ」
私はさらに困惑しているのに、王子殿下だけはとても楽しそうに笑っている。
冗談として受け止めればいいのだろうか。
「いや、駄目だ。誰に見られても厄介だった。将来飾れるように隠して大事に保管しておこう。この技術、他には誰に見せている?」
「はい?」
「刺繍の作品を誰かに贈る予定はあるかな?」
「令嬢方にはお礼も兼ねて、お渡しする約束をしておりますが」
「秘するように言っておこう。他に君の刺繍の作品を誰が持っている?」
「侯爵領の邸にはいくらでも保存されておりますが。個人としてならば、侯爵領にいる身内は確実に所有しているように思います」
贈ったわけではない。
刺繍の練習に大きな布を使ってきた。
その布は刺繍する場所がなくなった段階で、いつも侍女が回収していった。最初は処分してくれているものと信じていたのだ。
それが違ったことに気付いたのは、邸のどこでも私の刺繍を見られるようになってからである。
祖母の部屋でクッションカバーになっている刺繍を見たときには、あの柄ではとても落ち着かないだろうにと祖母を心配し、新しいクッションカバーを購入し贈ろうとしたことが何故か発覚して、断られている。
伯母がドレスに私の刺繍を組み合わせたときには、正気を疑ったことも、まだ誰にも言っていないことだ。
「あの二人には贈っていないのかな?」
王都に向かうまでの長旅において、時間を潰せるようにと、刺繍糸と共に柄のないハンカチを大量に持参した。
愛馬を休ませる時間が多く必要だったからだ。
令嬢たちに見られていたハンカチはすべて、王都に来るまでの間に、途中の宿で縫ったものである。
しかし叔父の邸に入ってからは、私は刺繍をしていなかった。
叔父の相手に忙しく……そして疲れていたからだ。
「贈ってはおりませんし、持っていないと思いますね。まだ王都に居た頃には、刺繍を習ってはおりませんでしたから」
予鈴がまたひとつ鳴った。
どうしてこんな話になっているのか。
私は自分がおかしくてまた笑った。
テーブルの上のポットが今日は一段と輝き、花々はとても明るく咲いていた。
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